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    なふたはし

    モバエム時空です。「/(スラッシュ)」は左右なしという意味です。

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    なふたはし

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    くろそら 前に上げたプロミ大阪帰路の話の続きです。

    帰り道

     目が覚めると、発熱している感じがあった。体の節が張っていて、手足の先は寒いのに顔の周りが熱い。起きあがろうにも何だかだるくて、普段の倍くらい時間をかけて布団から抜け出した。
     とりあえずプロデューサーさんに体調が怪しいことを連絡したら早速体温計を持ってきてくださって、測ってみると三八度三分あり、私としてはああやはりと納得するしかなかったが、プロデューサーさんは自分ごとのように慌てて、私の部屋を出ると救急箱を持ってすぐに戻ってきた。
     されるがままに冷却シートを貼られたり追加の毛布をかけられたりしている間、私はパッションキャラバンの撮影はどうしようかと考えていた。だが今日は最終日で撮影はもう済んでいることに気づき、最終日ならば自由時間に北村さんと出かける約束をしていた、と思い至る。プロデューサーさんに北村さんへの言伝を頼もうとしたがうまく呂律が回らなくて、きちんと伝えられたか怪しいままに、後は任せて休んでてくださいと寝かされてしまった。

       *

    ――では、――――ということで――――
    ――――おひるにえきで――――
     入り口の方からざわざわと声がする。部屋の外で話しているからか、私の方がまどろんでいるからか、途切れ途切れに聞こえてくる。
    ――おいおい、くろうさんが……っと、すまねえ!――
     ひときわ大きな声がして、紅井さんだとすぐにわかる。
    ――しずかに、いま――――から――――
    ――ほら、みんなも――――して
     二言三言のやりとりがあり、部屋のドアが開いた。暗くて誰だかわからなかったけど、聞き慣れた声がした。
    「九郎先生、大丈夫ー?」
    「……きたむらさん」
     口を開いたらしわがれた声が出て、急に何歳も歳を取ってしまったようだった。北村さんは、あははと呆れたように笑いながら、しゃがんでベッドの上の私と目線を合わせた。
    「ダメそうだし、手短に伝えるねー。プロデューサーさんが延長手続きしてくれて、新幹線の時間ギリギリまでホテルにいていいことになったよー。でもプロデューサーさん本人はこの後大阪のクライアントさんと会う約束があるらしいから、新幹線までは僕が付いてるねー。ちなみに、あとのみんなは予定通り自由時間を過ごすから安心してねー」
     口早に伝えられ、私はどれから反応していいかわからず、黙ってうなずく。そしたら北村さんはにこりと笑った。
     部屋着のままの北村さんは、足元灯のオレンジで下方から淡く照らされて、いつもと違って見えた。
    「じゃあ僕は自分の荷物まとめてくるねー。九郎先生はまた眠っていいよー」
     ありがとうございますとお礼を言おうとしたけれど、またしゃがれ声が出てしまうのが恥ずかしくて、私は先ほどと同じようにただ頷いた。

       *

    「あ。ごめん、起こしちゃったー?」
     今度の北村さんは外行きの普段着になっていた。サイドテーブルに歩み寄ると、手に下げた買い物袋からペットボトルを取り出す。
    「コンビニ行っていろいろ買ってきたんだー……って言っても飲み物くらいだけどー。プロデューサーさんも用意がいいよねー」
     北村さんは私の前にペットボトルを二本掲げる。
    「お水とスポーツドリンクどっちがいいー?」
    「ええと……お水を」
    「はーい」
     北村さんは返事して、キャップを緩めて私にペットボトルを渡した。のそのそと上半身を起こして、それを受け取る。
    「ありがとうございます」
     発する言葉が、今度はしわがれていなくてほっとする。
    「カーテン開けちゃうねー」
     遮光カーテンが端へ寄ると、たちまち部屋の中は白く明るくなった。目に入ってきたベッドサイドの時計では、チェックアウトの時刻をとうに過ぎていた。
     喉が渇いていたので水を飲む。ペットボトルの水は冷たくて、一口飲むたび熱くて乾燥していた口内に染みていく。
    「九郎先生、お水こぼしてますよー」
     北村さんの言葉で反射的に口を離すと、つうと水の伝う感触が確かにあった。しかしすぐに手が伸びてきて、北村さんは備え付けのタオルで私の口や喉元を拭った。
    「ふふ。レアな姿見ちゃったなー」
    「す、すみません」
     おぼつかないのと世話を焼かれてしまったのとで、ただでさえ火照った顔がさらに熱くなる。
    「ふふっ、九郎先生もこういう時ってあるんだねー」
    「全くもって不甲斐ない限りです。みなさんにもご迷惑をおかけして……」
    「迷惑なんてー。みんな心配してたよー。全員自分が残るって言い出したりして、そっちの方が大変だったんだからー」
     北村さんはそう言いながらベッドの側にあった椅子に座り、ガサガサとまた買い物袋を漁った。
    「ゼリー買ってきたけど食べるー? 朝から何も食べてないよねー?」
    「あ、ありがとうございます。いただきます」
     北村さんはフルーツゼリーのフタを剥がし、プラスチックスプーンも中身だけ出して渡してくださった。
    「僕もこれが朝ご飯なんだー。いただきますー」
     買い物袋からおにぎりを取り出し、北村さんはもぐもぐと食べ始めた。パッケージを見るに何の変哲もないコンビニおにぎりで、きっと全国区で売っているものに違いない。
    「……北村さんも残っていただいてすみません。せっかくの大阪でしたのに」
    「いいえー。僕も昨日の撮影で疲れてたからちょうど良かったよー。大阪とはいえ、まさか漫才をする羽目になるとはねー。九郎先生は二日間の参加だし進行役もしてたし、本当にお疲れ様ー」
    「ですが……北村さんは色々調べてくださったのに……」
    「また今度行けばいいよー。来ようと思えば来れる距離なんだからー。それに、こういうトラブルも旅の醍醐味だったりするんだよー」
     北村さんはそうは言ってくださるものの、私は撮影が終わった今日のことも楽しみにしていたので、素直にうなずけない。
     「そんなに気に病まないでー」と、北村さんはため息混じりにこぼす。
    「後は帰るだけなんだからゆっくり休みなよー。大きい荷物も神速一魂の二人が持っていってくれたし、僕たちは身軽だよー」
    「はい……」
     それでもやはり煮え切らないまま、私はゼリーを一口すくって食べた。
     きっと今からでも北村さんに楽しんでいただける方法があるはずなのだろうけれど、発熱してぼんやりした頭では何も思いつかない。私がしっかり体調管理できていれば、と同じ後悔ばかりが繰り返される。
    「カップもらうねー」
     いつの間にか私はゼリーを食べ終えていて、促されるまま北村さんにカップを差し出していた。
    「もう一回熱測ってみようかー」
     体温計を待っている間、北村さんはてきぱきと片付け、カーテンを閉めてテーブルランプをつけた。室内が元通りに薄暗くなる。
    「どうしたのー?」
    「あの、カーテン……」
    「カーテン? ああ、まだ出発しないよー」
     体温計が鳴り、画面を北村さんに見せる。
    「うーん、変わらないねー。喉痛かったり気持ち悪かったりしないー?」
    「いいえ」
    「じゃあお水飲んで寝ちゃおうかー」
     再びキャップの外されたペットボトルを受け取り、飲み下す。
    「昨日だったら薫先生いたんだけどねー。もう向こうに帰っちゃったし、今日のところは僕で我慢してねー」
    「北村さんは、どうされるのですか」
     尋ねると、ごみをまとめていた北村さんは手を止めて不思議そうにこちらを見る。
    「その、発つまでの間、どう過ごされるのですか」
    「え、ここにいるつもりだけどー……」
    「私は一人で平気ですから、今からでもどこか出かけられては……」
     そしたらまた、北村さんは朝に様子を見に来てくれた時と同じ笑い方をして、椅子に腰掛けた。
    「置いてけないよー。こんな言い方はなんだけど、実はこの状況を結構楽しんでたりするんだー。出発してから撮影続きでバタバタしてたし、観光もいいけどこんなふうにゆっくり過ごす方がしっくりくるというかー……。とにかく、僕はぜんぜん気にしてないから安心してよー」
     北村さんはいつも通りののんびりした口調で言う。「もう飲まない?」と聞かれてうなずくと、ペットボトルが取り上げられて、布団をかけられる。言われるままだったりされるがままだったりで、今度は幼い子どもになってしまったみたいだった。
     ベッドに横たわると椅子に座っている北村さんを見上げることになって、いよいよ自分がちっぽけに思えてくる。
     北村さんは明かりを絞り、ベッドの傍で文庫本を読み始めた。彼が持っている本には、私も見覚えのあるブックカバーが巻かれている。淡い生成りの布地に、小鳥の刺繍が入っている。外側だけでなく、折り返した内側のところにも小鳥がいるのだと、前に見せてくれた。
    「ん、どうしたのー?」
     北村さんは私の視線に気づき、本から顔を上げた。
    「な、なんでもありません」
    「ごめん、眩しかったかなー? 気になるなら出てくけどー」
    「いいえ。そばにいてください」
     先ほどとは矛盾した言葉が口をついて出てきて、かあと頬が熱くなる。
    「あ、今のは、その……」
    「ふふっ。わかってるよー。もう少し暗くするねー」
     北村さんは朗らかに笑い、スイッチをいじって明かりを調整する。
     私はもう気恥ずかしくて、話を変えようと話題にできそうな物を探した。
    「あ、あの、何を読んでいるのですか?」
    「これー? 短編集だよー」
     ブックカバーを外し、表紙を私へ見せる。左端に書かれた作家の名前はどこかで聞いたことがあった。
    「ちょうど旅行の話を読んでたんだー。主人公は海外旅行をしてたんだけどトラブルがあって帰れなくなっちゃってー……なんだかタイムリーだよねー」
    「面白いですか?」
    「今のところはー。そんなに気になるなら読み聞かせてあげようかー?」
     いたずらっぽく北村さんは提案する。
    「い、いえ……」
    「ふふ。遠慮せずにー」
     北村さんは早速ページを戻り、短編のタイトルを読み上げた。先ほどまでと違って、お芝居をする時のすっと通った声音だった。
     本文も、北村さんはすらすら読み進めていく。絵本のようなくだけた文章ではないから、声だけでは情景を想像しにくかったけれど、少しずつ異国の街並みが頭に浮かんできた。主人公は道中でパスポートを落としてしまったらしい。帰路に着く直前に気が付き、パスポートを探し回ったり、どうにか帰る手段はないかと模索する。
     私はもっと集中して北村さんの声を聞こうと目をつむった。視界がふさがると、彼の声の輪郭がはっきりしてくる。体の熱っぽさやだるさが薄れ、意識が小説の方へ向かう。
     北村さんの声が一区切りし、ページのめくれる音がした。物語が再開する。主人公は帰りたいと嘆きながら奔走する。活気溢れる市場の場面では、昨日までの観光地の賑わいを思い出した。コーディネート対決とか、初めて訪れた串カツ屋さん。北村さんは複雑な言い回しのところでつかえてしまい、ごめんねと恥ずかしそうに笑った。
     次第に、耳へ届く言葉とその意味が絡まり始める。体調が悪い時特有の、淋しさみたいな心細さがじわりと溶け出していく。意識がぷつぷつと途切れ、起きているのか夢の中なのかがあいまいになっていく。

       *

    「おはよー、九郎先生ー」
     新幹線の車内は記憶にあったよりもまぶしくて、私は数度まばたきをした。
    「たった今静岡出たところだよー。東京まであと一時間くらいかなー」
     リクライニングシートで毛布にくるまり、私は眠っていた。熱のせいか新幹線の暖房のせいか、なんだか体が熱い。きっとそれで目が覚めたのだろう。
    「お水飲むー?」
    「はい、いただきます……」
     寝起きのぼうっとした頭で返事すると、前の座席から山下さんが顔を覗かせた。
    「お、きよすみ起きた。どう? 体調は」
    「ええと、おかげさまで少し良くなりました」
     そう返事したら、周囲の座席で続々とみなさんが立ち上がった。具合はどうか何か欲しいものはないか、矢継ぎ早に尋ねられて返事に窮していると、「皆、心配な気持ちはわかるが、ここは公共の場だ。それに清澄君も快復したわけではない。到着まで休ませてあげなさい」と硲さんが収めてくださった。
    「九郎先生が寝てる間も、代わりばんこに様子見に来てたんだよー」
     北村さんは言いながら、足下にあった紙袋を持ち上げる。
    「はい、みんなからのお見舞いの品だよー」
     紙袋の中にはさまざまな大阪土産が入っていた。食べ物や飲み物、キーホルダーにカイロやのど飴まである。
    「ふふ、人徳だねー。荷物は倍になっちゃったけどー」
    「いえ、とてもありがたいです」
     ひとつひとつ手に取って見ていると、なんだか膝の上に違和感があった。プロデューサーさんが用意していた携帯毛布の上に、北村さんの上着がかかっている。
    「あ、上着……ありがとうございます」
    「車内は寒いかなと思って勝手にかけちゃったー。暑くないー?」
    「……いいえ。到着までお借りしてもいいですか?」
    「もちろんー。まだ一時間あるしゆっくり寝てていいよー。着く頃になったら起こすからー」
     北村さんはそう言うと、簡易テーブルに置いてあった本を手に取り、再び読み始める。
     あと一時間、とにわかに心がざわついた。あと一時間もすればこうして穏やかに過ごすのも終わってしまう。旅の終わりには、帰りたくないと少なからず思ってしまうものだけれど、今日はそれが一層濃い。溶け出したはずの心細さが、帰路をたどる物悲しさと混ざり合って、形を取り戻す。
     東京を発ってからここまであっという間だったのだから、一時間なんて、きっと瞬きをする間に過ぎてしまう。
     北村さんの上着は硬くて張りのある生地でできていて、裏地もあって暖かいのだけど、触れたら拒まれているようにも感じてしまう。
     私は相当参っているらしく、何を考えても悲観的になってしまう。被害妄想みたいな思い過ごしばかりが起こる。
     もう眠ってしまおうと、背もたれに深く体を預けた。しかし目をつむったらつむったで、今しがた手放したはずの暗い想像に呑まれそうになり、全く気が休まらない。
     横目で北村さんのことを窺うと、彼は真剣な様子で小説を読みふけっていた。しばし見つめて視線を送ったのだけれど、今度は気づいてもらえなくて、ますます心細くなる。
     みなさんから声をかけてもらったばかりなのに、お土産も山ほどもらったのに、ただ一人の注目がもらえないだけでどうしてこうも不安になるのだろう。北村さんとだって長らくふたりきりで過ごしたばかりなのに。
     その時運悪く、頭からつま先までぞくぞくと悪寒が走った。
    「きたむらさん」
     喉から出てきた声はか細く、列車の走行音にかき消されてしまいそうだった。
     北村さんは気づいて、こちらを振り向いてくれる。
    「どうしたのー?」
     柔らかな声はあたたかく、けれど胸を締め付けて、私はどうしても泣き出しそうになって、そういった感情がこぼれ落ちないよう、膝にかかった上着をたぐり寄せ握りしめた。
     北村さんは私の言葉を待っている。私は自分の言いたいこともわからなくて、黙りこくった挙げ句に、ただ首を横に振った。「どこか痛いの?」と尋ねられ、また首を横に振る。北村さんは依然として心配そうにこちらを見つめてくれているけれど、いったいいつまで続くだろう。どうかこのままと祈りながら、彼の上着を握りしめるほかなかった。





    「何かお詫びをさせていただけませんか」
     私が申し出ると、北村さんは「お礼ってことならー」となにやら気恥ずかしそうに携帯の画面をこちらへ見せた。
    「僕の好きな書家の先生が展覧会をやるんだけど、会場が豪華なところで気後れしちゃってー……。九郎先生こういう場所に慣れてそうだし、一緒に来てくれませんかー?」
     ウェブサイトによれば、展覧会は美術館ではなくホテルのギャラリーで開催されるらしかった。別のフロアに茶室があったり、馴染みの陶芸家の方がまさに会場のギャラリーで個展を開催していたりで何度か訪れたことがある。その事を伝えたら北村さんは目を丸くして、けれど「それなら安心だなー」と息を漏らした。
    「ふふ。東京では九郎先生がエスコートしてねー」
     北村さんは楽しそうに話し、私の方では帰路で感じた物悲しさがなぜか少しだけよみがえって、彼のおどけたような声かけにうまく返事ができなかった。

     当日の北村さんはジャケットを羽織っていて、見慣れないフォーマルな装いをしていた。本人も「慣れないよー」と苦笑されている。
    「こういうところだからちゃんとしなくちゃと思ってー。変じゃないー?」
    「よく似合っていますよ。安心してください」
    「うーん……その言葉、信じるからねー」
     ギャラリーへ向けて歩き出す。北村さんの足下からは、コツコツと硬い靴音がした。普段はスニーカーやデッキシューズといった柔らかい材質のものをお召しになっているので、北村さんではないけれど隣にいる私もなんだか聞き慣れない。大阪の時も普段とは雰囲気の異なる私服衣装を着ていたが、かしこまったジャケット姿はそれより北村さんから離れている気がした。
     北村さんは真剣な様子で作品を見入った。展覧会は盛況で、ギャラリーには人が溢れていた。ふと目を離したすきに北村さんのことを見失ってしまいそうだったので、私は彼の鑑賞の邪魔にならないよう少し離れたところで、置いて行かれないよう横目で追っていた。
     幼い頃、それこそ手を引かれる頃から訪れたことのある場所に、北村さんがいるのは不思議な感覚だった。最近はアイドルのことで忙しくてここを訪れるのは久しく、甘くてほこりっぽい展覧会独特のにおいは既に記憶の中のものになっていた。だから過去に迷い込んだような、その中になぜか北村さんがいるような、まるでタイムスリップでもしているみたいな気分だった。
    「九郎先生ー?」
     北村さんの声がして、はっと我に返る。見失うまいと視界の隅で捕らえていたはずの北村さんが目の前にいた。
    「き、北村さん。どうされましたか?」
    「一通り見終わったから声をかけたんだけどー……」
     北村さんは、心配そうに私の顔を覗き込む。
    「ぼうっとしてたけど大丈夫? まだ具合悪いのー?」
    「い、いえ。何でもありません。懐かしくて、感傷的になっていました」
     しかし北村さんは納得せず、訝しげな目線を私へ注ぐ。
    「この間の、帰りの新幹線の時も様子が変だったけど、もしかして何かあったりしたー?」
    「……っ、いいえ!」
     原因なんて私にもわからなかったのに、ぴたりと言い当てられたみたいに心臓が跳ねた。帰路で異様に淋しい気持ちを抱えていたのは本当の事だったけれど、それが何に由来するのか後から振り返っても何も見えてこない。
     「何もないならいいんだけどー」と北村さんはやや引っかかった様子で呟き、それから表情と声色を明るくして「ねえ、せっかくだから向こうのカフェに寄ってみないー?」と私の返事も待たずに歩き出してしまった。

    「ちょっと緊張するねー……って、九郎先生はそうでもないー?」
     飲み物を待つ間、カフェに立ち寄ろうと言い出したはずの北村さんは緊張した面持ちだった。
    「来たことあるって言ってたもんねー。うーん……こういう場所でドキドキするのって小市民すぎるかなー?」
    「私も、初めてファーストフード店に行った時は緊張しました。誰しも無作法は怖いものですよ」
    「串カツ屋さんも初めてって言ってたよねー。ドキドキしたー?」
    「ええ。ですが硲さんや北村さんのおかげで楽しむことができました。その節はありがとうございます」
    「いいえー。串カツ美味しかったよねー……あ、飲み物来たみたいー」
     私は紅茶を、北村さんは季節限定の甘い飲み物を頼んだ。カップを両手に抱えて飲みながら、北村さんは店内を見渡す。
    「ここ、夜はお酒が出るのかなー。ボトルが並んでるよー」
     振り返って北村さんの見ている方向を向くと、バーカウンターがあって大小さまざまな瓶が飾られていた。
    「飲めるようになったら、また二人で来てみようねー」
     さらりと言って、今度はカウンターとは反対側の窓ガラスの方へ身を寄せる。一面ガラス張りになっていて、外の様子がよく見えた。
    「中庭もすごいよねー。都会にいるって忘れちゃいそうだよー」
     北村さんは感心したようにしみじみ眺めていて、私は庭のことなんてどうでもよくて、ただ先ほどの彼の言葉が気にかかっていた。
     「また二人で」と北村さんは将来の約束を言い流して、そんなふうに言ってしまえるのは社交辞令のつもりだったからかそれとも私と北村さんとの距離が縮まったからなのかわからない。けれど直接尋ねたら本当の答えは消えてしまいそうで、どんなつもりで言っていたにしても結局、はっきりしない未来の約束であることに変わりはない、と光を感じるみたいに受動的に考えていた。
    「……九郎先生ー?」
    「は、はい……! どうされました?」
    「ふふ。またぼんやりしてたー。そろそろ出よっかー」
     北村さんは、「付き合ってくれたしここはご馳走しますー」と伝票を手に取って立ち上がった。
     カフェを出て、席から眺めていた中庭は立ち入ることができたので少しだけ散策して、いよいよお開きになった。エントランスに集合だったので、帰りもおのずとエントランスで別れようとしていた。
    「今日はありがとうございましたー。展示も見れたしカフェにも寄れたし、いい一日になったよー」
     昔、このホテルで迷子になってしまったことがあった。
    「いえ、お誘いいただきありがとうございました。私も楽しかったです」
     何の用事で来ていたのかも思い出せないが、私は家族と離れて一人でお手洗いに向かった。何度か訪れていたし、家族も私も迷うことはないと過信していた。ところがいざ用を足して戻ろうとすると帰り道がわからないのだった。
    「じゃあまた事務所でねー」
     北村さんは小さく手を振って、出入り口へ歩き出そうとする。
     迷子になってしまった幼い日の私は、今いるエントランスやエレベーターホールなど同じ場所を行ったり来たりしていた。
    「あ、あの、北村さん」
     背を向けて歩みを進めていた北村さんはこちらを振り向く。
    「どうしたのー?」
     似ていたのだと、今になって気づく。
     新幹線の車内で感じた淋しさと迷子になった時の心細さはよく似ていた。現在の不安な気持ちにばかり意識が向いて、これからのことが想像できなくて。
    「いえ、その……ええと…………」
     北村さんはやっぱり私の言葉を待ってくれている。私は、私の伝えたいことを自分の中に探すが、家族の姿が見当たらないように、伝えたいことも検討もつかない。
     今のこの不明瞭な心境や苦い思い出を知ってほしいわけではなく、むしろそれらは隠しておきたく、北村さんの瞳はこちらを向いており一つひとつかきわけて本質を探すような時間もない。
    「好きです」
     そう口にした途端、喉がごくりと鳴って生唾を飲み込んだ。
     結局、私は手近にあったものを掴んだ。
    「……えっと、本当にどうしたのー? 具合悪いの?」
     北村さんの瞳が、驚いて丸くなっていたのから横に細く、心配そうに形を変える。
    「お慕いしています。ですから、その……どうか……どうか…………」
     手に取った感情は表面的で薄っぺらく、それ以上の何かは含まれていやしない。けれど私は何かを望んでいて、それを伝えるために言葉を続けようとして詰まらせる。
     言い切れずに口を閉ざしてしまったのは、切実に迫っているようにも見えたのだろう。
     北村さんは一瞬頬を引きつらせて、少しだけ視線を低くさまよわせて、また私と目を合わせた。ぽつぽつと、慎重に言葉を選びながら、不安そうな表情で北村さんは話す。
    「あ、ありがとー……でいいのかな? 僕も九郎先生のことは好きだよー。でも、そういうふうに思ったことはなかったかもー……。ごめんって謝るのも……ちょっと失礼だったりするー?」
    「え、ええと……」
     北村さんの反応は当たり障りなくて、私も別に芯となる部分を晒したわけではないから傷ついたりはしていなかったのだけど、彼の顔を見ていると目頭が急に熱くなって涙が落ちた。告白まがいのことを口走ったのよりも突然泣き出してしまったことの方が私自身衝撃的だった。悲しい淋しいといった気持ちよりも、こんな場面で涙を流したことへの驚きや呆れが勝っている。
    「ああ、ごめんなさい。こんな、当てつけみたいですね……。北村さんのおっしゃる通り、最近どうにもおかしいみたいです」
     涙は勝手にあふれ出す。泣きながらも結構つつがなく話せており、私はそんな自分をどこか冷静に俯瞰している。北村さんはぎょっとしてこちらに駆け寄り、私のことを案じてくれた。病院へ行こうかと提案されて、体調が悪いわけではなかったので断ると、今度はタクシーを呼び寄せてくれた。北村さんに連れられて車寄せに止まったタクシーに乗り込む頃にはすっかり泣き止んでおり、心配そうな彼に見送られながら私は帰路についた。

       *

     展覧会の日の出来事を思い出すと、恥ずかしいやら気まずいやらで叫び出してしまいそうだった。好意を告げたことは必然のことのように感じてはいるけど、同時にどこか夢の中のようで、熱に浮かされていたみたいだった。北村さんが指摘していたように、あの日は本当に発熱していて具合が悪かったのかもしれない。
     自分本位に感情を投げつけてしまった自覚があり、私はかなり負い目を感じていた。誰かに相談しようにも今回の出来事や私の中の感情はふわふわと曖昧で言語化できず、華村さんや猫柳さんにもこの事は伝えられないでいた。
     北村さんに直接謝罪するべきだとは思いつつ、しかしいったい何に謝ればいいのかもはっきりさせられず、ただ北村さんと顔を合わせるのが怖くて、どこかで鉢合わせたりしないよう祈ることしかできずにいた。

     その日利用していたレッスンスタジオのドアは防音性の高い分厚い扉で、小窓などはついておらず、開けるまで中の様子はわからないものだった。私はといえば、一人で自主練していたのだが飲み物を切らしてしまい、近くの自販機から戻ったところだった。
     何の気なしにドアを開けると入ってすぐのところに人がいて、しかもそれが北村さんだったもので、驚いた私は短く叫んでとっさに踵を返そうとした。
    「あっ、待って……!」
     閉まりかけたドアに北村さんが足を差し込む。まずい、と思った時には遅く、私は北村さんの足を、防音性抜群の重たい扉で勢いよく挟み込んでしまった。北村さんの口から濁点混じりのうめき声が上がる。
    「ああっ、ごめんなさい! 大丈夫ですか⁉」
     挟まれてしまった右足を抱え込み、北村さんはうずくまる。
    「うー……だ、大丈夫ー……じゃないかもー……」
    「本当にごめんなさい。きゅ、救急車を呼びましょうか?」
    「いや、そこまでじゃないから大丈夫だよー。うう……大丈夫じゃないけどー……」
    「お、折れたりは……?」
    「してないはずー……。多分ー…………」
     とにもかくにも怪我の状態を見ようとしゃがみ込んで、北村さんの靴下を脱がせた(スタジオは土足禁止で、運の悪いことに北村さんは内履きのシューズは履いておらず普段着だった)。挟んでしまったところは赤くなっていたが、変に腫れたりはしていなかった。ひとまず安心して顔を上げると、北村さんも同じようにほっとしたような表情でこちらを見ていて、なんだかおかしくなってしまって、ふたり一緒に吹き出してくすくす笑い合った。二人で笑っていると、北村さんと話すのを恐れていたことが急に馬鹿らしく思えてきた。
    「僕がここに来た理由、察しついてるー?」
     笑い声が落ち着いて、北村さんは少し上目遣いで改まって訊ねた。私がうなずくと、「だよねー」とまた忍び笑いする。
    「僕の方でもちょっと気にかかっててねー、スケジュール確認して今日ここに来てみたんだー。レッスンルームなら気兼ねなく話せるでしょー?」
    「ええ……。その、すみません、色々と……」
     気まずさはなくなったけれど、考えを整理できたわけではないので歯切れ悪い言い方になってしまう。
    「いいえー。でも、急に告白されたからびっくりしたよー。九郎先生って大胆だよねー」
    「あれは想定外だったと言いましょうか……私にも、どうしてあんなことを口走ったかわからないのです。不用意な発言をしてしまって申し訳ございません。きっと御気分を害されたでしょう……」
    「そうだったんだー。別れ際に言われたから、計画してたのかと思っちゃったよー」
     レッスンルームはワックスをかけたばかりらしく、甘い匂いが充満していた。レッスンルームを使い始めたばかりの頃は慣れなくて頭がくらくらしたけど、今はこの匂いを嗅ぐとどこか落ち着く心地さえする。
    「あの時の、『好きです』って九郎先生の本心ー?」
     北村さんは居住まいを正して、核心に迫る質問をする。
    「は、はい」
     それだけは間違いなかった。あれが嘘だとしたら、私は自分の何を信じればいいのだろう。
    「あのねー、僕も九郎先生のこと好きなんだー。でも九郎先生とキスしたりとかは、ちょっと想像できなくてー……だからといって、告白されて九郎先生のことを嫌いになったわけじゃないよー。むしろ嬉しかった気持ちもあるというかー……応えられないって申し訳なさが一番にあるかなー」
     そこまで言うと北村さんは苦笑いして、足の打ったあたりをさする。
    「あはは……僕なりにちゃんと考えてきたつもりだったんだけど、あんまりまとまってなかったねー」
    「いいえ。そこも含めて、北村さんのお気持ち、よく伝わってきました」
    「よかったー。でも言いたいことはこれだけじゃないんだー」
     北村さんは投げ出していた足を抱えて、座り方を変える。
    「僕ねー、口が良い方じゃないから失言して気まずい感じになって、何となく縁が切れちゃうことが多いんだー。でも九郎先生とそうなるのは嫌だなーって。あと、告白の返事も無難なことしか言ってなかったなって反省しててー……それは多分嫌われるのが嫌だったからだと思うんだー。僕は結構九郎先生のこと大事に思ってるらしくて……」
     話している間、北村さんの脚の前で結ばれた指は忙しなく形を変えていた。
    「だから、わがままだけど友達でいてくれませんかー? ……話が迷走しちゃったけど、本当に言いたいのはこれだけですー」
     十本の指は、ぎゅうと力がこもった形に留まる。
    「……なんて、ちょっと都合良すぎかなー。あははー…………」
     私が何も言えないでいると、北村さんは戸惑って質問を重ねる。
    「えーっと……そもそも、こういう意味であってたー? なんか今話してて思い返してみたら『好きです』としか言われてなかったなって気づいてー……もしかして勘違いだったかなー……?」
    「…………か、勘違いでは、ない、です。……ですが、交際を申し込んだわけでも、ないです」
     見切り発車で話し始めた私は、早速自分が何を言っているかわからなくなる。
    「好きとお伝えしたのは紛れもない真実で、その気持ちに嘘偽りはありません」
     あなたは特別ですよ、と言ってもらえたみたいだった。
    「それから、北村さんがこうして気にとめてわざわざお越しくださったことも大変うれしく思っております」
     ホテルで迷子になってしまった時のことを思い出す。エントランス、エレベーターホール、ギャラリー。どこも見覚えがあるのに、それぞれの場所と場所が繋がらず、元いた場所への帰り道が浮かび上がらない。
     北村さんの答えはきっと、本当に交際を望んでいたなら酷なことなのだろうけど、私には最上級の馳走に思えて、接吻とかそういった類の想像は一切していなかったこと、今以上の寵愛なんて空想は微塵も抱いていなかったことに気づいて、それならばこの気持ちはやはり色恋ではないのだろう。それならば一体何なのかしら。ずっと熱に浮かされているみたいだ。
    「私としては……ええと……あの…………」
     記憶や愛おしさや色々なことが一気に駆け抜け、胸がいっぱいになる。
    「……ゆっくりでいいよー」
     言葉を詰まらせた私を北村さんはやさしく見守る。ホテルでの朗読と同じくらいに温かい声音だ。途中で眠ってしまって、あの短編の結末を知らないままだった。パスポートをなくした主人公はどうなったのだろう。無事に帰国できたのだろうか。
    「言いたいことは、その……」
     私は何を急いていたのだろう。北村さんは今目の前にいて、私のことを待っていてくれて、どこかへ行ったりしないのに。具合が悪い時の感傷を引きずって、北村さんの真心に気づかず彼が離れていくことばかり恐れていた。求めていたものは既に私の手のひらの中にあり、それならば……望むことはひとつしかない。
    「このまま、そばにいてください」
     北村さんは私の言葉に脱力してくすりと笑って、
    「いいよー」
     と返した。
     その笑顔に安心したのと、あれこれ悩んでいたつもりが結局私は同じ場所をぐるぐる回っていたのだと思うと体から力が抜けて、北村さんにつられて私もくすくす笑った。





    「ふふっ。緊張したねー」
     北村さんは解放されたように笑みをこぼした。
    「ええ。まだ少しドキドキしています」
     私はまだ緊張を引きずっていて、いくぶん強張った声で返事した。
     行きは身が引き締まるようだった寒風も、バーの暖房とアルコールで温まった体には心地良い。ずっと遠くに見えていた、新宿駅と繁華街が近づいてくる。お酒が入っているせいだろうか、煌々と白んだ光はミュージックビデオの特殊効果みたいに、歩く速度よりもゆっくり流れていく。

     二月に入ってすぐ、私たちはまた展覧会のあったホテルを訪れた。立春は過ぎたけれど変わらず寒さは厳しくて、マフラーや手袋はとても手放せないような頃だった。
     書展を開催していたギャラリーは今日は水彩画が展示されていて、私も北村さんも絵画には明るくないから、この絵の雰囲気が好きだとかモデルの場所に行ったことがあるとか、とりとめもない会話をしながら順に見て回った。
     北村さんには年の離れたお兄さんがいて、昔は絵を描いていたのだという。身内びいきかもしれないけど、と北村さんは前置いて、お兄さんがいくつかの賞を取ったりしていたことや北村さんも彼の描く絵が好きだったことを教えてくれた。しかし働き出してからはさっぱりで、使っていた画材は部屋の隅の方に数年来追いやられていたらしい。だがそれも先日の引っ越しの時、ついに手放してしまったのだと北村さんはさみしそうに話していた。
     ギャラリーを出ると、バーが開店する時間ぴったりだった。今日の本命は展覧会ではなくこちらで、カフェからバーに変わる時間を狙って訪れた。ちょうど一年前に交わした口約束を叶えに来たのだ。
    「じゃあ、準備はいいですかー?」
    「は、はい! 私はいつでも行けます」
     二人で来ることを決めたはずなのに、私も北村さんも入り口で少し躊躇して、小声で鼓舞し合い決起した。店に入ると、前回来店した時の隣の席に案内された。
    「夜になると雰囲気が変わりますね……」
     昼間はガラス張りの窓から光をたくさん取り込んで開放的な印象があったが、夜は照明が絞られており、大人びた空間に気圧されてしまいそうだった。
    「そんなに不安そうな顔しないでよー。僕は今、九郎先生の倍くらい緊張してるよー」
    「いいえ。きっと私も同じくらい緊張しています……」
     二十歳の誕生日を迎えてから華村さんやプロデューサーさんにお酒を教えてもらった。二人のおかげで自分の味の好みくらいはわかるようになったところで北村さんも誕生日を迎え、さっそくふたりでお酒を飲みに行った。その席で、今夜の約束を改めて交わしたのだ。
     リキュールベースのカクテルを頼み、ふたり目を合わせておっかなびっくりした手つきでいただいた。

     ホテルでは大きなパーティがあったらしく、車寄せはその参加者と送迎のタクシーで埋まっていた。仕方がないので一度駅まで出てしまおうと、私と北村さんはエントランスを抜けて歩き出した。
    「ふふっ。緊張したねー」
    「ええ。まだ少しドキドキしています」
    「九郎先生を頼りにしようと思ってたのに……ふふ、僕より固くなってたよねー」
    「北村さんより誕生日は早かったですが、ああいったバーは初めてなもので……」
    「でも美味しかったねー。今度は九郎先生が頼んでたのも飲んでみたいなー」
     感想を話しながら帰路を辿っていたその時、私か北村さんのどちらかが距離感を掴みかねて、手と手が触れ合った。危ないから離れなければと思ったが、カクテルのせいか何だか頭がふわふわしていて、動作が遅れているうちに北村さんがそのまま私の手を握りしめた。
    「この後どうしますかー?」
     先ほどのバーは元々はカフェであるから閉店は早くて、二十歳が解散してしまうには惜しい時間だった。
     北村さんの頬に、心なしか紅が差している気がする。私も同じだろうか。
     この後どうするか、なんて、もう少し一緒に過ごしましょうといった意味の決まり文句なのに、含意はわかっても上手い返事を私は知らなくて、北村さんが手を繋いできたことにも驚いていて、返答できずにいたところへ、北村さんが「二軒目行く?」と示してくれた。
    「はい……! 是非!」
    「ふふ。いい返事ー。じゃあ何食べたいー?」
    「そうですね……」
     和洋中さまざまな料理を思い浮かべてみるが、今はそれよりも胸がいっぱいで、どの料理にもそそられない。
    「お酒や料理がなくても静かな場所でゆっくり過ごせたら、私はどこでも構いません。あっ、へ、変な意味ではないですよ……?」
    「それなら、僕の家来るー? これも変な意味じゃないよー」
     北村さんはいたずらっぽく被せてくる。
    「この間も話したけど兄さんと離れて暮らし始めたんだー。引っ越しの荷物も片付いたし、せっかくの一人暮らしだから誰か呼んでみたいなって思っててー。どうかなー?」
    「北村さんのお家……少し興味があります。北村さんがよければ、お邪魔してみたいです」
    「決まりだねー」
     話の付いたところへタイミング良くタクシーが通りかかって、北村さんの手がするりと離れた。私はそれを残念に感じて、その落胆は行き先への期待とない交ぜになって、さっき飲んだ苦くて甘いカクテルの味がよみがえった。

     北村さんの家の近くで降りて、途中にあるコンビニで買い物をした。夕飯を買う人に交じって、私たちはパックのおつまみやお酒を取っていった。私はお店でしか飲んだことがなくてどれにすればいいか迷ったが、北村さんが「これ甘くて好きなんだよねー」と缶チューハイを手にしたので、真似をして味違いの商品を選んだ。
     一通り買いそろえたと思ったところで、北村さんが日用品のコーナーへ向かった。ついて行くと、「ああ、あった」と呟いてかがみ、数種類並んだ歯ブラシを眺めながら私に尋ねる。
    「コンビニっていろんな種類売ってるんだねー。普段、柔らかいのと硬いのどっち使ってるー?」
     いまいち質問の要領を得ないでいると、北村さんは棚から顔を上げてこちらを見る。
    「せっかくだから泊まっていきなよー」
    「え、ええと……」
     突然の誘いに戸惑う私をよそに、「これとこれどっちがいいー?」と買い物を続ける。「硬いものを使っています」と習慣を答えると北村さんは「じゃあこっちだねー」と軽い返事をして片方の歯ブラシをカゴに入れた。北村さんの当然のような話しぶりで落胆は歓喜に裏返り、頭の中のふわふわしていたのがひときわ強くなって、「……あ、朝ご飯も選んできます」と私はおぼつかない足取りでまた食品コーナーに戻った。

    「九郎先生が初めてのお客さんなんだー」
     家までの道すがら、北村さんはそう私に話した。
    「葛之葉さんや古論さんは?」
    「引っ越しは手伝ってもらったけど、それ以来かなー。ほぼ毎日会ってるから、家に呼ぶって発想がなかったかもー」
    「ふふ、Legendersらしいですね。猫柳さんと華村さんだったら、私が一人暮らしを始めたとなると毎日のように尋ねてくるでしょう」
    「想像つくなー。お菓子とかパーティグッズとかであふれかえっちゃいそうだねー」
    「初めての一人暮らしはいかがですか?」
    「うーん、あんまり新鮮味はないかなー。兄さんとは生活リズムが合わなくてほとんど顔合わせてなかったし、実質一人暮らしみたいなものだったからー……あ、ここを左だよー」
     北村さんに促されて、大通りから小路に入る。そうしたら北村さんは私に手を差し出した。
    「ねえ、また繋ぎましょうー」
     私は迷うことなくその手を取ったが、ふと気づいて引っ込めた。
    「少しだけ待ってください」
     片方の手袋を外し、もう一度北村さんの手を握る。素肌に触れた外気はつんと氷のようだったが、北村さんの手はしっとり温かい。
    「九郎先生、手冷たいねー」
    「冷え性なんです」
     小路は少しだけ上り坂になっていた。同じようなマンションが続いていて、一人で来たら迷ってしまいそうだ。私にはわからないけど北村さんは曲がったりまっすぐ進んだり、淀みなく半歩先を行く。
    「どんなお家ですか?」
    「そんなに広くないよー。九郎先生からしたら離れみたいなものかもー」
     これからのことを思い描く。北村さんの家に着いたら、コンビニで買った食べ物を並べて晩酌をするのだ。煮卵は塩辛くて、モツのポン酢和えは酸っぱい。夜語らう時も明日の朝目覚めた時のことも、私には容易く想像できた。
    「この間陶器市に行ってねー、九郎先生の好きそうな食器があったから来客用に買ってみたんだー」
     想像の風景が少しだけ変化する。テーブルに並んだ食器が白くて丸いものから、さまざまな色味の大小不揃いなものになった。
    「お邪魔する前ですが、また呼んでくださいね。その時にはきちんと引っ越し祝いをお持ちします」
     私は二十一歳の夜のことも考える。きっとまた同じように、北村さんの家へ二人で帰るのだろう。二十一歳の私は二十二歳の夜を想像している。当たり前のような非日常のような帰り道は長く続いていて、でもやがてはたどり着いて、迷いそうな道もいつか見慣れるようになって、何度も何度も繰り返される。その先のことを思い描けるようになったから、私はもう淋しくはないのだ。



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