くろそら ネイルしてあげる話 北村さんの部屋にはたくさんの雑貨があり、棚一面が店のようにディスプレイされていた。砂時計や観葉植物や万華鏡に木工細工……ひとつひとつ見ていくうち、小さな瓶が目にとまった。
小瓶は筒のような円柱形で、目薬よりも一回り大きいサイズをしている。中には、澄んだ水色の液体が詰まっていた。
「マニキュアだよー」
私の思考を読んだように北村さんが横から教えてくれた。
「自分ではネイルなんてしないけど、綺麗な色だなと思って買ってみたんだー。インテリアにぴったりでしょー?」
「ええ、よく馴染んでいますね」
マニキュアは絵の具を溶かした色水のように透き通っている。ちょうど日が傾きかける時間帯で、差し込んだ西日に照らされてきらきら輝いていた。
「はいどうぞー」
目を離さずにいた私を気にかけ、北村さんは瓶を取り手渡してくれた。
「ふふ、水色好きなのー?」
「いえ、別に……ただ綺麗だと思っただけで……」
手のひらの小瓶は、棚に並んでいる時よりも美しい色味をしていた。透き通った水色は南国の海や外国のジュースのようだと思っていたが、近くで見ると晴れ渡った空の色に似ていた。
「……あの、こちら私に塗っていただけませんか」
「え、そんなに気に入ったならあげるけどー」
北村さんは目を丸くして言う。
「い、いえ、そうではなく……その…………」
口ごもる私に、何かを察したらしい。北村さんは目を伏せてマニキュアの瓶を見つめながら、質問を重ねる。
「……撮影の仕事とかないのー?」
「しばらくはありません」
「人にネイルなんてしたことないけどー」
「北村さんは、手先が器用でしょう」
「茶道の時とか困らないー?」
「問題ありません」
と、考えるより先に口をついて出てきて、私はこういう謀(はかりごと)には向いていないのだとますます思い知らされる。自分の答えたことが間違っていないか、急いで頭の中でスケジュール帳をめくる。
北村さんはしばらく黙り込み、きゅうと唇を固く結んだあと顔を上げて、まっすぐ私の方を見た。
「…………いいよー。塗ってあげる。その代わり、失敗しても怒らないでねー」
「は、はい」
北村さんは携帯でネイルの塗り方を少し調べて、検分するように私の手を取った。
「本当は下地とかいるらしいけどー……このままでいいんだよねー?」
駆け引きするのなんて人生で初めての出来事で、口の中が乾ききってしまって、声が出なくて黙ったまま、こくこく頷く。
「じゃあこのまま、じっとしててねー」
北村さんは早速、マニキュアの蓋を開けた。ツンとしたにおいが鼻を刺す。蓋と一体になった小筆には青い液体がたっぷり付いていて、今にも滴り落ちてしまいそうだった。
瓶の淵で塗料をこそげ落とし、右手の小指へ筆が下される。すうと一撫ですると、私の爪は薄く色づいた。
「……あんまり色が出ないんだね」
北村さんは独り言のように呟き、「重ね塗りすればいいのかな」と続けた。
小筆を瓶に戻し、私の手を握り直して、ぺたぺたと塗り重ねる。薄白かった爪は、ツヤツヤした水色に変わった。何度も塗り重ねたので、寒天のように柔らかく膨らんでいる。
小指が完成したら、隣の薬指に移る。先程と同じように丁寧に握り込まれ、塗り変わったばかりの小指がぴくりと跳ねた。
「緊張してるー?」
薬指に集中しながら、北村さんは訊ねる。
「それは、もちろん、緊張しています」
「塗られる側なのにー」
「塗られる側、だからです」
震える声で答えると、北村さんは視線を上げ、脱力したように笑みを漏らした。私の心臓はいっそう激しく鳴る。
「なにそれー」
笑いながら言い、北村さんはまた筆を動かし始める。
ネイルを発案したときからしていた動悸が、さらにひどくなった。ドクドクと暴れ、指の先まで脈打っていそうだ。もし本当にそうだとしたら今私の指に触れている北村さんには直に伝わっているはずで、そんな想像をするだけで顔から火が出そうだ。
手元ではなく、今度は作業する北村さんのことを見つめる。打ち合わせやレッスンの時のように真剣な表情をしていて、その集中が私の指先に注がれているのだと思うと、胸がきゅっと締め付けられ、同時にじわりと温かくなる。
「あっ」
不意に北村さんが声を上げ、私は危うく飛び上がりそうになったのを必死で抑えた。
「ど、どうされました?」
バクバク暴れる心臓をなだめながら聞くと、北村さんは申し訳なさそうな顔で見上げる。
「ごめん、はみ出しちゃったー」
手元に視線を落とせば、確かに塗料が爪の外に溢れていた。「失敗しちゃったー」と北村さんははみ出たところを指で擦って綺麗にする。その仕草はぎこちなく、北村さんにしては珍しく焦っているように見えて――
「……もしかして、ですが、北村さんも緊張されているのですか?」
北村さんはネイルを修正しつつ、私のことをちらりと一瞥して、また手元に視線を落とす。
「してるよー」
素直に答えられると思っておらず、予想外の返答に頭がくらくらした。マニキュアの刺激臭のせいではない。
指先の水色があまりに鮮明で、私は目を瞑った。北村さんの指が這い、今度は中指を優しく握る。爪の上で、細かく筆が動く。脈動は指の一本一本を通して北村さんへ伝わっているに違いない。
透き通った鮮やかな寒色は、瞼の裏にくっきりと焼き付いていた。