目を覚ますと、見知らぬ縁側に座っていた。山々が立ち並び、青々とした畑が遠くまで続いている。ぽつぽつと点在する民家の他に建物はなく、空が広い。日差しが肌を焼くが、気温は低く、じっとり汗ばむほどではない。耳に触る音量の、蝉の声が聞こえる。まさに「原風景」といった山あいだった。
「ねえ、だれ?」
隣にも、やはり見知らぬ少年。紅い瞳でじっとこちらを見つめてくる。毛先だけが黒い白髪で、やや大きめのTシャツ。歳は十歳よりも少し下、といった頃合い。
……紅い瞳に、毛先だけが黒い白髪?
「もしかして、北村さん……?」
少年、もとい北村さんはおずおずと頷いた。
「お兄さんは?」
「わ、私は清澄九郎と申します」
「くろうさん」
確かめるように、ぽつりと呟く。
「九郎さんは兄さんの友達? お祭りにでも行くの?」
「お兄様ではなく、北村さん……大人になられた北村さんの、ええと、友人です」
「大人になった僕? 九郎さんは未来から来たの?」
「そういうことに……なるのでしょうか」
タイムスリップ、という言葉が頭をよぎった。北村さんは怪訝そうな表情を浮かべたが、私だって現在の状況が飲み込めていない。
「だったら、何か証明してみてよ」
「証明、ですか?」
証明と言われても、今の私は財布やスマートフォンさえ持ち合わせていない。着の身着のままの浴衣姿だ。
「北村さんに関することを話せばよいでしょうか?」
「じゃあそれでいいよ」
幼い北村さんは渋々ながら承諾した。
「僕が問題出すね。第一問、僕の嫌いな食べ物は?」
「おせんべい」
「当たり! なんで知ってるの?」
「以前、差し入れでおせんべいをいただいた際に北村さんがそう話されて」
私は経緯を話したが、北村さんは頭上に疑問符を浮かべた。それもそうだろう。彼がまだ経験していないことなのだから。
「子どもの頃から苦手だったのですね」
「この間嫌いになったの。おせんべい食べたら歯が抜けちゃったから。まだぐらぐらし始めたばっかりのだったからね、すごく痛くて。口の中、血だらけになったんだ」
そう言うと、口を大きく開けて、右奥の辺りを指さした。確かに、ぽっかりと歯列に隙間が出来ている。
「だから、もうおせんべいは食べないって決めたの」
なるほど、北村さんのおせんべい嫌いにはそのような理由が。
「信じていただけましたか?」
「うん。夏休みに起きたばっかりのことだから、家族しか知らないはずなのに」
「ところで、ご家族の方は?」
「父さんは仕事、兄さんと母さんは兄さんの友達とショッピングモールに映画見に行った。兄さんの友達はあんまり好きじゃないから、僕はお留守番」
「一人で危なくはないのですか?」
「田舎だから誰も来ないし、お向かいさんもいるから大丈夫」
庭の小さな垣根を越えた先の畑に、農作業をするご老人がいた。こちらに気付いたようで、手を振ってきた。北村さんが大きく振り返し、私も彼にならう。
……私は不審者にはならないのだろうか。タイムスリップをしておいて、今更そんなことを気にするのもおかしな話だが。
「いい人なんだけど、母さんはあの人のこと嫌いみたい」
「それはまたどうしてですか?」
「ええと、結婚しないでずっと一人だから。あんなに広い土地を残してしまうのは恥ずかしいって。……そんなにおかしなことかな?」
何となく、北村さんがご実家を窮屈だとおっしゃっていた理由が分かったような気がした。それから、現在の(未来の、というべきだろうか)彼の鋭さの片鱗も感じた。
「いいえ、おかしくはありませんよ」
「そっか」
「父さんと母さんは、僕か兄さんのどっちかがこの家に住み続けてほしいんだって。でも、大人になったら東京で暮らそうって、兄さんと約束してるんだ。母さんと父さんは猛反対するだろうけど、兄さんが頑張って説得するって言ってくれたの」
「大丈夫。大人の北村さんはお兄様と一緒に、東京で生活していますよ」
「本当? ふふっ、楽しみ」
北村さんは、さも嬉し気に屈託なく笑った。
ふと家の中を見ると、画仙紙が目についた。書き上げたばかりのものと、畳の上に散らばった書き損じたものたち。
「あれは何ですか?」
「夏休みの宿題。俳句コンクールと創意工夫展と観察日記が選べるんだけど、僕は俳句コンクールにしたんだ」
「さざなみや寄せては返し夏運び。素敵な句ですね」
私の褒め言葉に北村さんは満足し、にっこりと口角を上げた。
「でしょ。先週、家族で海に行ったんだ。毎年行ってるんだけど、来年は兄さんが受験だから、みんなで行くのは今年で最後だったんだって」
そこで区切り、彼は私の顔を覗き込む。
「九郎さん、大人の僕も海へ行ってる?」
せつなげな響きのする質問だった。ずっと、兄さんと、家族と、海へ行きたいのに。そのような声が聞こえてきそうだ。
「そうですね……。ああ、少し前に浜辺でライブをしていましたよ」
「浜辺でライブ? 楽しそう! あれ、でも僕、楽器弾けないよ」
「いえ、バンドとしてではなく、未来の北村さんはアイドルとしてステージに立っています」
「アイドル? ……全然想像つかないや」
北村さんはじっと宙を見つめた。自身のアイドル姿を思い描いているようだった。
「大人の僕も泳いだりしたのかな」
「泳いではいないそうですが、読書をされたり、皆さんでスイカ割りをしたとお聞きしました」
「へえ。大人になると泳がなくなっちゃうんだね」
少し、つまらなそうに言った。
「ねえ、宿題の続きやってもいい?」
「完成ではないのですか?」
「うん。『運ぶ』がうまくいかないから、もう一回」
「よろしければお手伝いしますよ」
「九郎さんは書道できるの?」
「北村さん……未来の北村さんほどではありませんが、私も書には覚えがあります」
私は無造作に散らばった書き損じの中から一枚取り、『運』と書いた。
「いかがでしょう?」
「すごい! 九郎さん上手だね」
「しんにょうは、部首同士を離しすぎないのがコツです」
「なるほど。僕にも筆貸して」
北村さんは何度か書いたが、どうも上手くいかず、首をかしげた。私は北村さんの手を取り、動かして教えてあげた。『運』がきれいに書けるようになると、全文にとりかかった。数枚失敗してしまったが、北村さんの宿題は完成した。
「ありがとう、九郎さん。……九郎先生の方がいい?」
「ふふっ」
私はつい吹き出してしまった。北村さんが不思議そうにする。
「ああ、すみません。未来の北村さんからもそう呼ばれておりますので」
「九郎先生は何かの先生なの?」
「先生と名乗るのは少々おこがましいですが、茶道を教えております」
「茶道って抹茶のやつ?」
「はい」
「ふーん。あっ、麦茶飲む?」
「ええ、いただきます」
「麦茶と、あとお礼のアイスも持ってくるから待っててね」
「良いのですか? ありがとうございます」
北村さんは、たっと駆け出して行ってしまった。
*
「……せんせい、九郎先生」
「…………ここは?」
「起きたー? もうすぐ着くから、支度してねー」
ああ、そうだ。北村さんのお宅にお邪魔するから二人で電車に乗っていて、ここのところダンスレッスンが続いていたから、うとうとしてしまって……。あれ、あの小さな北村さんは一体?
「九郎先生ー?」
私が思案していると、いつの間にか電車は到着していた。
「あっ、ただいま参ります!」
「あの、北村さん。小学生の頃に、俳句コンクールに応募なさいましたか?」
改札を出て、私は訊ねた。
「え? ……うん、応募したよー」
「さざなみや寄せては返し夏運び……」
私はつい口ずさむ。北村さんの足がぴたりと止まった。
「どうしてその句を? 九郎先生にその話をしたことあったかなー?」
「いえ、先ほど不思議な夢を見まして。その夢の中で、子どもの頃の北村さんにお会いしました」
北村さんは半信半疑、といったふうに首をかしげる。
「もしよろしければ、幼い頃の写真を見せていただけませんか?」
「……別にいいけどー」
いぶかしげなその表情が変わっておらず、私は何だか温かい気持ちになった。