だって、雪が降ったから『毎日雪は降り続くし、それに…』
夢を見た。もう何年前のことになるだろうか。まだ女子学生だった頃の夢を―
体が弱かった女子学生の頃の自分。そして、そんな自分を後ろに乗せ自転車を漕ぐ、彼。
彼は優しい人だった。病弱だった自分にたいそう気を使い、家から学校まで毎日自転車で送り迎えをしてくれた。彼の優しいひと言、自分を乗せた自転車を漕いでいる時の背中の頼もしさ、彼の全てが好きだった。ずっと、2人の時が続いてほしかった。
しかし、それは叶わなかった。2人の関係は終わりを迎えることとなった。
『雪は降るし、それに…』
雪が降り積る通学路を1人歩く。あのひと言を告げられて以来、彼が迎えに来ることはなかった。
雪道を自転車で走るのは危ないし、優しい彼のことだ、なにか事情があったのだろう。そんなことを1人で考えたりもした。
うふふ…あはは…
そんな中、楽しげに笑い合う男女の声が聞こえてくる。ふと目をやると、いつもと変わらず自転車を走らせる彼。そして、その後ろに座る、自分ではない女の子…
しばらく呆然と立ち尽くしていた。彼の幸せそうな顔、はっきりと見えてしまった。あんな顔、自分には見せてくれただろうか。なぜ、あそこにいるのが自分ではないのか…
ゴホゴホと持病の咳が込み上げる。病弱な自分は彼にとって負担だったのだろうか。母の言いつけを守り、部屋から出ることなく孤独に過ごしていた方がよかったのだろうか。
どうして どうして…
「どうして、今更こんな夢を…」
目を覚ましたサクラは不機嫌そうな顔で呟いた。
季節は冬、家の中まで伝わる寒さに思わず身動ぎをする。二度寝をしてしまいたい気持ちをグッと押え身支度を進めていく。今日は大事な予定があるのだ。
準備をしながらふと窓の方を見ると、外は真っ白く雪化粧を施されていた。辺り一面綺麗な銀世界。
しかし、サクラの表情は憂いに満ちたものであった。
「そうか、どうりで寒いと思ったら…」
あんな夢を見た後だからだろうか。雪を見た瞬間陰鬱とした気持ちが押し寄せてきた。もう思い出すこともないはずだった、遠い昔の失恋話…
今でこそ自分に取り憑いていた病魔がいなくなり健康な身体を取り戻し、自分を好いてくれる優しい恋人だっている。それでも、あんな夢ひとつでこんなに落ち込んでしまうものなのか。
『雪は降るし、それに…』
この言葉が何度も脳内を駆け巡る。今の優しい彼も、雪が降れば他の誰かとどこかへ行ってしまうのではないか。そんな思いすらよぎってしまう。あの時と同じように…
どうして…どうして…
ドンドン!!ドンドンドン!!!!
暗い気持ちを切り裂くように鳴り響くドアを叩く音。
ふと我に返るサクラ。落ち込んでいた気持ちを振り切り、なんとか平然とした表情をつくりながら玄関へ向かう。
「…つばめ?」
扉の向こうにいたのはサクラの今の恋人、尾津乃つばめだった。
「やぁ〜サクラおはよう!いや、そろそろこんにちはかな?あっはっは!!」
つばめはあっけらかんとした顔で笑う。高身長で端正な顔立ちをしている彼だが、口を開くと間抜けなところが全面に出てしまう。そんな男だ。
「つばめ、今日のデートはカフェで待ち合わせだったはずじゃろう?まさか、わざわざ迎えに来てくれたのか…?」
そう、今日の大事な予定というのはつばめとのデートのことだ。お互い忙しいスケジュールを縫ってようやくつくられた、久しぶりのデートの日。
「うん、一刻も早く君に会いたかったから…」
つばめの言葉はまっすぐであった。思わずサクラも笑みがこぼれる。
つばめは嬉々とした表情で続ける。
「それに…」
「それに?」
「それに、今日は雪が降ったからね!」
雪。
その一言でサクラに一瞬緊張感が襲いかかる。
前の彼と今の彼は違う。わかっているのだ。
現につばめは雪が降っていたにもかかわらず自分を迎えに来てくれたではないか。こんなにも目を輝かせながら。
嬉しいことのはずなのに、あの時感じた苦しさが住み着いて離れようとしない。
サクラの表情はまた曇りがかってしまう。
「…サクラ?どうしたの?」
そんなサクラの様子につばめも心配しだす。
ああ、また困らせてしまった。
せっかくつばめは来てくれたのに、せっかく久しぶりのデートの日なのに。
前の彼とのことを思い出し勝手に落ち込んでいる。
そんな自分に寂しさだけでなく嫌悪感までつのり、気分はますます陰鬱なものとなっていく。
黙ったまま何も言えない。沈黙の時間だけが過ぎていく。
「…サクラ、今日は雪が降ったんだ。だから…」
そう言うと、つばめはおもむろにサクラを抱き寄せた。
「つばめ…!?」
「今日は暖かくして来てほしい。君が風邪をひいてしまうと心配だからね…」
つばめのその言葉からは嘘偽りは微塵も感じられなかった。
自分がまだ病弱だった時からずっとそばにいてくれた、彼。
思えば、完全には順風満帆とはいえない関係だった。
すれ違いが起きることも少なくはなかった。邪魔が入ることだってあった。婚約の話もそうだ…
だが、どんな時でも彼は自分を好きでいてくれた。そばにいようとしてくれたではないか。
つばめに抱きしめられるサクラ。冷気にさらされ冷たくなった服。お世辞にも暖かいとは言えない。それでも、そんな感覚ですらサクラは愛おしかった。
「…つばめ?」
「ん?」
「つばめは、私のもとを離れてくれるなよ?」
「もちろんさ」
「また、こうしてここに来てくれるか…?」
「当たり前じゃないか、君が望むのなら…」
愛を確かめ合う2人。サクラの不安な気持ちはみるみるうちに安心感へと変わっていく。
「つばめ…」
「サクラ…僕は君が望むのなら、どこへだって…
っくしょん!!!!」
「…ん???」
突然そっぽを向かれたと思った矢先、響き渡る大きなくしゃみ。
そしてそれに続くズルズルと鼻をすする音。
改めて彼をよく見ると頬や鼻先は真っ赤になっており、マントやズボンの裾はびしょ濡れになっていた。
「んむっ!?」
彼の顔を両手で触ると、まるで氷でも掴んでいるかのような冷たさが伝わってきたのを感じられた。
ここに来るまでの道のりで冷たくなったのかもしれないが、一応問い詰める。
「おぬし…ここに来るまでの間何をしていた…?」
「あっ!そうだ!雪だるまをつくったんだ!!これが力作でさ〜!」
「ゆきだるま…」
一応これでもいい歳をした大人の男である。それでも、足元が濡れることなどにも構わず無邪気に雪だるまをつくる彼の姿は想像するには難くなかった。
「そうか…で、どれだけ雪遊びをしておったんじゃおぬしは」
「1時間…いやそれ以上…?」
「なっ…!?それではおぬしのほうが先に風邪をひいてしまうではないか!!」
これは想定外だった。どれだけ夢中になっていたのか。
彼のことはかなりわかっていたつもりだったが、未だに予想だにしないことをしでかす男だと静かに思った。
はははと呑気に笑うつばめ。彼の鼻先はまだ赤く、今にも鼻水が出てきそうだ。
「すぐそこにあるんだ、サクラにも見てほしくて…」
まさかわざわざここに来た真の目的はそれだったのでは…しかし今のサクラにとってそんなこともどうでもよかった。
何に悩んでいたのかもすら、もう忘れてしまった。
「ほら、鼻が出ておるぞ。後でゆっくり見てやるからとりあえず家にあがれ。」
「えっ、でもデートは…」
「そんな格好ではおぬしがかぜをひいてしまうではないか。マントも靴下も干してやるから脱いでからあがれよ。」
「はは、すまないね…」
「昼飯も用意してやるから、コタツで暖まって待っとるんじゃぞ。」
「えっ?コタツ!?わ〜い!」
まるで子どものようにはしゃぐつばめ。思わず苦笑いをするサクラ。
かっこよくて優しいけれど、どこか抜けていてお世辞にも完璧とは言えない彼。だが、そんなつばめのことをサクラは誰よりも愛していた。
今度こそ、この時間がずっと続きますように。そう思いながらサクラは昼食の準備に取り掛かった。
ちなみにつばめのつくった雪だるまはそこそこ立派だったので、しばらく近所の子どもたちの注目の的になっていたとさ。