彼(か)の法器バタバタと家人が背後に走ってくる気配に、江晩吟は肩の力を抜き、ふーと息を吐いた。
真夜中の暗闇で、騒ぎを聞き付けた者が蓮花塢に明かりを灯していった。
「そ、宗主、これは一体……」
宗主の部屋に明かりを手に飛び込んできた子弟が目にしたものは、三毒を手にした江晩吟とその足元に横たわる干からびた死体。
部屋に漂う禍々しい空気は、干からびた死体が右手に握る笛から発せられていた。
死体を冷たく見下ろした江晩吟は、チッと舌打ちすると死体の右手から笛を奪い返す。
黒い光沢を放つその笛は、人の精気を吸ったからか艶やかさが増したように見えた。
「……愚か者がっ!」
ブンッと剣を払い鞘に納めると、すぐに指示を出す。
「周囲に不審な者がいないか、調べろ。私は明日、蘭陵に行く」
「はっ!」
真夜中から一変、明るくなった蓮花塢の中を叩き起こされた子弟たちが走り回る。
魏無羨が死んでから二週間後の出来事だった。
足を踏み入れた金麟台は、未だに白一色で喪に服しているのがわかる。
跡継ぎである金子軒の葬儀とそう変わらずに、今度はその妻である江厭離が他界した。
続けて二度もあった葬儀に蘭陵金氏は混乱し、宗主である金光善と妻の金夫人の落胆ぶりは半端ない。
そして、忘れ形見である金如蘭の行く末に皆が心を痛めた。
二親を殺した相手は、憎き夷陵老祖・魏無羨である。邪道を使い、正統である剣を使わず、鬼笛陳情で傀儡を操り、仙門を混乱に陥れた。
ただそれだけならば、魏無羨亡き今、混乱はなかっただろう。
だが、背景はかなり複雑だ。
魏無羨は雲夢江氏の門弟であり、江厭離が弟の様に可愛がった人物。夫を殺した相手を庇い、命を落とした江厭離の行動に仙門は不信感を募らせ、それをまだ幼い金如蘭に向けている。
憐憫と侮蔑。
金如蘭は生まれながら、両親が居ない寂しさと、親の罪を背負わされたのである。
だから、江晩吟は執拗に魏無羨を追った。
あれぐらいで死ぬような人物でないことを、一緒に育ってきた江晩吟だからこそわかる。
死体が無く、魂もない。
世間がいくら魏無羨が死んだと叫んでも、江晩吟だけはそれを信じない。
いつか見つけ出し、自分と両親と姉夫婦、そして、金如蘭に謝らせるのだ。
それを見届けるまで、江晩吟の戦いは終わらない。
腰に同じく喪に服した意を示す白帯を巻き、江晩吟は金麟台の長い階段を登った。
「これはこれは江宗主。ちょうどよいところに来られた」
三段高い場所から、金光善が江晩吟の登場に顔を綻ばせる。唯一の懸念人物であった魏無羨がこの世を去ったということで、蘭陵金氏の栄華は約束され、不幸に見舞われながらも金光善の顔には喜びが浮かんでいる。
喪に服した白色の衣装を身に付けてはいても、仙門を統べる仙督という立場である以上、金光善の周りに人は集まり、しめやかさとは程遠い空気が広間にはあった。
「明日、また岐山で招魂の儀を行うのだが、江宗主も一緒にいかがか?」
高いところから見下ろす金光善に、江晩吟はゆっくりと損礼をする。
夷陵老祖たる魏無羨は死しても尚恐怖らしく、その魂を呼び出し、然るべく封印を施さねばと考える輩が必死になって招魂の儀を行っていた。
頭を下げた下で、誰にも見られぬように江晩吟は唇の端を上げる。
魂など招かれるはずもない。魏無羨は死んではいないのだから。
顔を上げる前にその表情を改めた江晩吟は、首を振った。
「そちらは、皆様にお任せしたい。未だに雲夢は復興の途中。姉の喪もありますゆえ」
ざわりと場がざわめく。
「夷陵老祖を庇った、あの……」
「弟同然のように可愛がっていたが、その仕打ちがこれではなぁ……」
ひそひそ声のした方向を江晩吟がジロリと睨めば慌てて口を噤む。
陰で、姉も自分も悪し様に言われていることを江晩吟は知っていた。
『邪道を使う罪人を庇った姉に、師兄すら制御出来ぬ弟宗主』
魏無羨が邪道を使うことを知りながらも、温氏を討つ為に目を瞑った自分が非難されることはどうでもいい。だが、死んでもこんな仕打ちを受けねばならない罪が、姉にあるとは思えない。
「阿離が、魏無羨を庇うのは仕方のないことだ。百鳳山でも、弟同然と言っていた。跡取り
も産んでくれて子軒は良い嫁を迎えたと安心したものを……その優しい気持ちを踏みにじった魏無羨め!」
ダンッと金光善は、椅子の肘掛けを叩いた。
その激昂した姿に誰もが息を飲んだ。
悪いのは江厭離ではなく魏無羨だという仙督に反論できるものはいない。
「江宗主は姉の敵を見事に自分の手で成敗した。天にいるご両親もさぞかし誇らしいだろう」
金光善のやや芝居がかった意見に、周りは非難の刃を引っ込め、その通りと追従した。
昔の江晩吟なら、こんな風に公に褒められれば嬉しかったかもしれない。だが、今はそんな褒め言葉などいりはしない。
「金宗主。実は……」
江晩吟は腰に差していた笛を取り出した。
ギラッと金光善の瞳が鋭さを増し、笛を睨む。
笛の姿を見た周囲からはヒッと声が上がった。
「それは、魏無羨の笛、陳情だな」
チラッと金光善が横に視線を流すと背後に控えていた金光瑶が前に進み出て、頭を下げた。
「魏無羨の陳情は、世にあってはいけないものです。我ら金氏が責任を持って二度と世に出ないよう、封印いたします」
歩み寄ろうとした金光瑶を江晩吟は手で制した。
「先日、蓮花塢に盗人が入り込んだ」
「なんと!?」
ざわざわと広間が騒がしくなる。
その中で江晩吟は淡々と話した。
「して……その盗人は?」
顔色一つ変えずに、金光善は尋ねた。
「恐らく、この陳情を狙ってのことだろう。盗人は右手に陳情を持つや否や黒霊に囲まれ、生気を吸われた挙げ句に干からびた死体となった」
誰もが顔色を青くし、恐怖と戦慄が江晩吟の言葉で引き出された。
「やはりその陳情は人に害をなす代物だったか! 誰かが犠牲になる前に盗人でわかり、幸いだった」
「魏無羨め、なんというものを遺したのだ!」
本当に! と頷く周囲に江晩吟はフンと内心鼻で嗤う。
そして、スッと陳情を持つ手を前につき出した。
「この陳情、私や江氏の者が触ってもなんらそんな素振りはなかった。つまり、雲夢江氏でない者が触った場合は、盗人同様の事が起こるかと………」
金光善、金光瑶の顔が険しくなった。
「これは雲夢江氏で保管したい。余計な犠牲者がでない為と、もし……もし奴が取り返しに来るならば私が阻止する」
魏無羨の生死は不明。
招魂にも藍氏の問霊にも魏無羨が応えたことはない。
言い知れぬ不安の中での江晩吟の宣言に、それがいい! と声が上がった。
「しかし、そのような危険なものを……」
「父上。陳情は江宗主にお任せしましょう。魏無羨の剣、随便は自らを封印し、我らが保管しております。魏無羨が甦り、取り返しに金麟台に来た場合、どちらもここにあっては危険な力をみすみす与えてしまいかねません。陳情は江宗主の元にあることが望ましい」
唯一渋る金光善を金光瑶が宥める。金光善は納得できないのか、口を真一文字に引き結んだままだ。だがやがて、フッと息を吐き、大きく頷いた。
「よろしい。陳情は江宗主にお任せしよう。今後、盗まれぬ様、厳重に取り扱ってもらいたい」
「わかりました」
江晩吟は素直に頭を下げた。
「江宗主。阿凌の顔を見に行きませんか? 目を開く時間が多くなったのですよ」
にっこりと金光瑶が微笑むと、江晩吟の顔にも笑みが浮かんだ。
「ええ、是非とも」
「では、こちらへ………」
江晩吟は金光善と周りの宗主たちに損礼をすると、金光瑶の後に続いた。
広間を抜け、ホッと江晩吟が息をつく。
「ご苦労様でした、江宗主」
ふふと金光瑶が笑う。こちらにも安堵の表情が浮かぶ。
蓮花塢に盗人が入った際に、江晩吟はまず金光瑶に相談した。
本来ならば仙督である金光善に相談するのが筋だろうが、何かと忙しい金光善と時間を作るのが難しかったからだ。
金光瑶は、江晩吟と陳情の今後について話し合い、陳情は江晩吟が持っている方が無難という結論に至った。
それを踏まえて、先程の広間でのやりとりを演じることにしたのだ。
「盗人を差し向けた人物はあの広間に居たのだろうか?」
江晩吟が小声で尋ねると、金光瑶は周囲に視線を走らせ、どうでしょうと答えた。
金光瑶が江晩吟から話を聞いて真っ先に指摘したのは、何故盗人は陳情を盗もうとしたか、だ。数多の宝物が飾られている蓮花塢で、それらに目もくれず、黒い笛のみを狙うなどありえない。
陰虎符が破壊され、魏無羨の畏怖すべき力を再現できるものは無い。だが、鬼笛・陳情ならばその力の片鱗があるのではとそう考えた仙門の仕業ではないかと疑ったのだ。
「父上も危惧していた陳情ですが、金氏で封印するとしても盗人のように精気をうばわれないという保証はありません。今のところ、何事も影響がない雲夢江氏にあるのが無難でしょう」
魏無羨討伐の時にも、魏無羨が陳情で操った黒霊は最初雲夢江氏を避けていた。魏無羨が錯乱し、黒霊の制御が効かなくなると襲われたが、明らかに雲夢江氏を認識していた。
「しかし、自らを封印する剣と襲う相手を見定める笛に陰虎符。魏公子は何とも独特な法器ばかりをお持ちだ」
金光瑶が感心したように呟く。
確かに法器は主人を選ぶ。だが、ここまで主人に忠実で頑固な法器は滅多にない。
江晩吟の紫電でさえ、主が認めた者には使用を許可したほどだ。
「それだけ、魏公子の法器は取り扱いが難しく、特別なのかもしれません」
特別、の響きに江晩吟は奥歯を噛み締めた。
一緒に育ち、一緒に鍛練し、未来まで一緒にいると思っていた師兄。
江晩吟が欲しい全てを持ちながら、江晩吟の大事なものを奪った相手。
この世で一番『特別』に憎い奴。
魏無羨の話になると表情が変わる江晩吟を、金光瑶は穏やかな表情で見つめる。
金如蘭の部屋に着くまでそれ以上の会話はなかった。
「っ!!!」
観音殿の中は、聶明玦が怨念をふり撒き、金光瑶を襲っていた。
凶屍と化した聶明玦は、金光瑶と金氏に連なる者の区別がつかないのか、金如蘭と莫玄羽の体を持つ魏無羨をも襲う。
魏無羨の方はぴったりと寄り添う藍忘機が守っていたが、金如蘭の方は怪我をして万全ではない江晩吟だけでは到底守れない。
聶明玦と金如蘭の間に金如蘭を守るように入ったのは、父を殺した鬼将軍だった。
金如蘭の顔に戸惑いと、涙が浮かぶ。
「何故………」
金如蘭が父と母を失う原因を作ったのは間違いなく魏無羨と温瓊林だ。産まれてからずっとその二人が憎いと思って生きてきた。
だが魏無羨と接し、真実を知ってからは恨みが揺らぎ、今、もう一人の温瓊林に対しても同じく揺らいでいた。
魏無羨の口笛が、聶明玦を抑え、観音殿は静まり返る。
体に穴が開いた温瓊林だが、凶屍にはこれぐらいの穴は関係ない。江晩吟と金如蘭を守るようにゆっくりと二人の前に立ち上がる。
温瓊林の行動は、自分たちに対する贖罪なのか。それぐらいで父を奪った恨みは消えはしない。消えはしないが、どこかでこのままではいけないと内からの声が金如蘭には聞こえる。
「…………たい…」
「金凌?」
「外叔父上。私はもう、逃げたくない」
涙を流しながらも大きく輝きを放つ瞳が江晩吟に向けられた。
江晩吟はどこかにいる神を呪っていた。
何故、こんなにも甥は苦しめられるのだろう、と。
両親の愛情を知らず、代わりに育ててくれた叔父の一人がその両親の死に関わっていた。それだけではなく、数々の悪事も働き、仙督の立場から罪人へと落ちた。
だが、金如蘭を苦しめたのは魏無羨や金光瑶だけではない。
誰かのせいにしておかねば、心が守れなかった、そうしないと立っていられなかった江晩吟の憎しみも金如蘭に背負わせていた。
「もう……恨むのは疲れたよ………」
苦笑する甥の顔が、姉と重なる。
パリッと紫電が光を放つ。
暗闇の迷路の中から金如蘭は外へと気持ちを向け、飛び出そうとしていることを江晩吟が止める権利はない、止められない。
流れた血が、聶明玦を再び凶暴化させた。四大世家の宗主が揃いながら、凶屍と化した聶明玦に対抗できる者は、誰も居ない。
この状況を打開することができるのは、鬼道の祖師にして夷陵老祖たる魏無羨のみ。
「クソったれ」
江晩吟が吐き出した罵声は、自分の力不足に対してと、こんな時には師兄がどうにかしてくれるという無意識。
あの日から肌身から離すことなかった乾坤袋は袖の中だ。黒一色の何の模様もない袋の中身は、簡単に他人が触ってはいけないものが入っている。
宗主として、これを再び夷陵老祖に返す事に躊躇いがないとは言わない。
自分達に起こった出来事や時間は戻す事ができず、その未来や関係はどうなるかわからないが。
だが、今、選択肢は間違えない。
「魏無羨」
江晩吟が名を呼べば、澄んだ瞳が振り返る。
変わってない信頼がそこにある。
成せぬことを成しに。
今、この時だけでも雲夢双傑に。
江晩吟は袖から陳情を取り出すと、魏無羨へと手渡した。