桃の香 騒動後走ってはならない、という規則を破って藍思追は廊下を走る。
大変だ! と慌てて走り込んできた友達がもたらした報に、じっとしていられなかった。
門の前には、彩衣鎮から帰ってきた者たちと、交代で門番をつとめている者たちが、ざわついていた。
「景儀!!」
大声を上げた藍思追に、人に埋もれていた一人が振り返る。
「あ、ただいま、思追!」
こちらに向けて笑い手を軽く上げてきた親友の髪が、短くなっていたーーー
「失礼します」
寒室の扉の前で頭を下げて、ゆっくりと扉を閉めた藍景儀は、ハァッと息を吐いた。
今日、彩衣鎮で起こった出来事を宗主である藍曦臣に報告し終わって、肩の力が抜けた。
寒室に現れた藍景儀を見て、目を見開いた藍曦臣だったが、流石に怒鳴りはしなかった。
何があったのか詳しく話すようにと言われ、藍景儀は自分の髪が短くなるまでの経緯を告げた。
「なるほど。だから、景儀の髪が短くなったんだね」
曇った表情の藍曦臣に、藍景儀は迷惑をかけている気持ちでいっばいになる。
厳しい姑蘇藍氏では、雅正集に書かれた規則が全てだ。たとえ理由があろうとも、規則は規則。破った場合、処罰を免れることはない。
だが、藍曦臣はまずは何があったのか、規則を破るに至った経緯をちゃんと尋ねてくる。
そうすることで、改めて自分のしたことを振り返り、反省すべきところを気づかせるのだ。
「髪を切ってはいけない、とは規則にはない。髪は伸びるものだし、やむを得ずに切らなくてはならない場合もあるからね」
姿勢正しくこちらを見つめる藍曦臣に、藍景儀は頷いた。
姑蘇藍氏の長老たちは、市井に厄介な遊びが広まったものだと安易に考えていた。一時的に流行っただけで、やがて人々は飽きてくる。それまで子弟たちが気をつければよいと思っていたのだ。
だが、姑蘇藍氏にとって他人が触れてはならない大事な抹額が狙われだすと、これまでの市井の遊び、との認識を改めなくてはならなくなった。姑蘇藍氏から正式に止めるようにとの要請を出そうとしていた矢先に起こった今回の事件は、半分呑気に構えていた長老会も責任があり、藍曦臣も宗主として責任を感じていた。
「対策が後手に回ってしまった責は私にある。申し訳ない、景儀」
藍曦臣はゆっくりと頭を下げた。
「いやっ、あのっ、やめてください!」
一門を統べる宗主から頭を下げられて、平気でいられるはずがなく、藍景儀は慌てた。
「予想し得なかった形になり、もしやという危機感を怠ったのは我らの落ち度だ。彩衣鎮の方には姑蘇藍氏より警告させてもらう」
藍曦臣より彩衣鎮へ注意を促してもらえば、一安心だ。今まで不満が溜まっていた同輩たちの気持ちも少しは落ち着くかなと、藍景儀はホッとする。
「だが、景儀。君にはなんらかの処分があるだろう」
そこで、藍景儀は表情を引き締めた。
「混乱を抑えてくれたことは褒めてやりたい。だが、見過ごせないこともある」
「はい……」
神妙な藍景儀に、藍曦臣は苦笑した。
「勘違いしてはいけないよ、景儀。表向きは市井を騒がせたことになるだろうけど、本質はそこに対しての罰ではない」
「え…、なら何の……?」
「自らを蔑ろにしたことだ」
へ? と首を傾げた藍景儀の様子に、やれやれと藍曦臣は首を振る。
「お前は凶行に及んだ娘さんたちに、抹額を害することは、髪を切る親不孝と同義と説きながら、自分をおろそかにしたね?」
「……それが一番わかりやすいかと……」
そうだね、と藍曦臣は頷く。
「だがね。我らにとってもお前は大事な子弟なのだよ。その子弟が髪を短くして帰ってきて、心配しないはずがない」
わかるかい? と優しく問われ、藍景儀は唇を噛み締めた。
遊び半分で狙われた抹額が、いかに藍氏には大事なものなのか知ってほしかった。その為には自分の髪を切ることに躊躇わなかった。
「これからの戦いの中で、命のやりとりをする場面が必ず出てくる。その時に、真っ先に自分を差し出す選択肢を選ぶことは仙師として下策だ」
困っている人の為ならば例え自分がどうなっても、と思いがちだ。勇ましい姿が仙師の本来の姿であり、逃げるなどあり得ないと長老たちが言うから、それが当然だと思っていた。だが、藍曦臣は違うと諭す。
「他に策はないか、他にできることはないか。それを常に考えること。状況に応じては逃げることも恥ではない」
まっすぐ射抜いてくる藍曦臣の瞳を、藍景儀は受け止める。
「姑蘇藍氏の規則は縛るものばかりではない。今一度、その意味を見つめ直してほしい」
いつもは温和な空気を纏っている友が、何も言わずに隣にいる居心地の悪さに、藍景儀はそっと顔を覗き込んだ。
「……なんか、怒ってる?」
それに対して、チラッと視線だけ寄越した藍思追は依然として無言だ。顔が整っているだけに、無表情だと怖い。
藍曦臣の寒室から出てきた藍景儀を、青い顔をした友達が松風水月で藍啓仁が待っていると呼びに来たのはついさっき。松風水月でも渋い顔をした藍啓仁に顛末を聞かれ、大きなため息と共に、明日から雅正集の逆立ち書き写しと厠の掃除と動物たちの世話を二週間するようにと罰を言い渡された。
やっと解放されたと思いきや、今度は無表情の藍思追が部屋で藍景儀を出迎えた。
大変だったよ〜と軽く笑いながら部屋に戻った藍景儀に、そう、と藍思追の反応は冷たかった。
それからは、重苦しい沈黙が続いている。
耐えきれなくなった藍景儀が、どうにか空気を変えようとしても、何を言えばいいのかわからない。
ただ、藍思追が怒っていることだけはひしひしと伝わってきた。
「あのぉ、思追……」
おずおずと呼びかけた藍景儀の前に、藍思追が手を出す。
「? 何か……?」
「切った髪は? もしかして誰かにあげたとか、途中で捨てたとか言わないよね?」
「ないない! ちゃんと持って帰ってます!」
藍思追の迫力に思わず敬語になりながら藍景儀は、懐に入れた自分の髪を慌てて取り出した。
騒動を起こした娘の友人が、紙に包んで返してくれたものだ。差し出された藍思追の手にそれを置くと、藍思追は一瞬だけ眉をひそめた。
「貰っても困るらしくて返してくれた。まぁ、そりゃそうだよな、髪を貰ってもこまるよなぁ!」
ははは、と乾いた笑いを零した藍景儀を藍思追は睨む。
「これを返してきた者はちゃんとわかっていたんだよ。髪を切ることは親からもらった体を傷つけるとことだということと、私たち仙師の髪はそれ自体に霊力が宿り、怪や妖を引き寄せやすい。正しい保管の処理を施していないと危険な代物になるんだよ」
「嘘っ!?」
「景儀……ちゃんと藍先生の講義を聞いていたらできなかったはずだよ。勉強不足」
藍思追の鋭い指摘にぐっと藍景儀は言葉を詰まらせた。
はぁとため息をついた藍思追は立ち上がると、火鉢から赤々とした炭を取り出し、外へと出た。藍景儀も慌ててそれを追う。
「思追、それ、どうするんだ?」
「焼くしかない」
「えっ!? 焼くの!?」
「なら取っておくの? もし悪意のある者の手に渡ったら悪用されかねないけど?」
髪には霊力も込められるが、その本人の生命とも繋がると伝えられ、昔から相手を呪詛するには本人の髪の毛が必須とされていた。
「こんなにたくさんあったら、景儀をどれだけ呪詛できるんだろう?」
すうっと細めた目でじっと自分の髪を見つめる藍思追からは本気が伺えた。えっ、えっ、と青くなる藍景儀は藍思追の腕に縋り付く。
「燃やしてくださいいぃぃぃ!!」
「うん、賢明な判断だ」
ポイッと藍思追は躊躇わずに炭の上に藍景儀の髪を置いた。ボッと小さな音を立てて、髪はみるみる燃えていく。独特の焦げる匂いに、眉を寄せながら鼻を押さえ、髪が燃えきったことを確認すると、墨と燃えかすを土に埋めた。
だが、藍思追はその場から動かず、埋めた地面を睨んだままだ。
「思追?」
「どうして……どうして君はっ!!」
クシャリと表情を歪ませて、藍思追は藍景儀を抱きしめた。
「抹額なんてただの布だ! 誰が触っても何かあるわけじゃなく、ただの自己満足だよ!? 景儀の髪と比べられるはずもないのに!!」
藍思追の口から抹額をただの布と言い切られて、藍景儀は驚きで固まった。誰よりも家規に忠実であり、それを守ろうとする親友の姿を、隣で誇らしくもあり憧れていた。
「ちょ、ちょ、待てよ! お前、今、混乱してるだろ!? 誰かに聞かれたらそれこそ…」
「布は布で命はないよ。だけど切られた景儀の髪はそれ以上の成長はできない。いわば殺されると同じなんだ。抹額の意義は、誰にでも触らせていいものではなく、それを頭に巻くことで自己の硬い決意を表すだけ。そうじゃない?」
ここで藍思追の言葉に頷いていいものか、藍景儀はうーんと考え込む。
「髪は切ってもまた伸びてくる、よ……?」
一応、反論してみようかと藍景儀が言うと、ぴくっと藍思追の眉が跳ねた。
「……これを言ったら、景儀を困らせるってわかってたから言わなかったけど、こんなに分からず屋なら言うしかない」
「何を?」
きょとん、とした藍景儀の肩をガシッと藍思追は掴むと真顔になる。
「僕は景儀が大好きだ。だから、髪と言えども誰かにあげるつもりもないし、渡すなんて耐えられない」
パチパチパチと藍景儀は瞬きをする。
藍思追の言葉が聞こえてはいるが、頭にすんなり入ってこない。何度も何度も反芻するが、やはり理解ができない。その間、数十秒。
「言っておくけど、友情じゃないよ」
顔に影が落ち、さらりと衣擦れの音がした。掴まれた肩の痛みが増し、驚いている間に、何か柔らかいものが唇に当たる。
ああ、思追の匂いだ、と藍景儀が理解すると、影は遠ざかった。
「僕は本気だからね。覚悟しててよ、景儀」
鮮やかに笑った藍思追が身を翻し、部屋へと戻っていく。
呆然とその後ろ姿を見送りながら、焦げた匂いがいつまでも景儀の周囲を取り巻いていた。