欧陽家の人々「若君、子真様!!」
「うるさいっ! 放っておいてくれ!!」
ドタドタと屋敷に足音が響く。
「最近の子真はとても活発ですこと」
「親しいお友達がたくさんできたそうです、母様」
「もともと人懐っこいところはありましたけど、こんなに子真が出かけるのは本当に珍しいことですわ」
ホホホッと優雅にお茶を楽しみながら、欧陽夫人と欧陽子真の姉二人が微笑む。
その中で父親である欧陽宗主は苦虫を噛み潰した顔つきで茶を啜っていた。
「あら、あなた。どうかなさいまして?」
それに気づいた欧陽夫人が声をかける。
最近、頓に険しい顔つきの夫に心中何事かあるのだろうとは思っているが、触れずに今日まで来た。
だがそろそろ限界に近いようで、そっと促す。
「我が欧陽氏の跡取りとしてもう少し子真にしっかりしてもらわねば……」
ぽつりと溢した父親の言葉に、姉二人は目を細めた。
少し年の離れた弟は、父親待望の男の子。
それだけに、蝶よ花よと育てたのは他でもない欧陽宗主だ。
もちろん、仙門の跡取りとして父親は厳しく育てたつもりかもしれない。だが、その溺愛ぶりは家族から見れば一目瞭然であった。
「最近はちっとも親の言う事を聞かん。夜狩りにいけばなかなか帰らず、どこで何をしているのやら」
椅子の背にもたれかかり、ふうっと大きくため息を吐いた欧陽宗主を尻目に欧陽夫人は、干棗を摘んだ。
「子供とはそういうものですわ。それに子真は男子。友人たちと交流し見聞を広め、経験を積むことこそ大事ではありませんか?」
思わぬ妻からの反論に、欧陽宗主の不機嫌が増す。
「その友というのが問題なのだ」
ズキッと欧陽宗主の頭に痛みが走る。
「子真が親しくさせていただいているのは姑蘇藍氏のお弟子さんと蘭陵金氏の宗主様ですよ?」
一番上の娘の紅湘が茶器を傾けながら、先日欧陽子真から紹介された友達を思い出しながら告げた。
「姑蘇藍氏のお弟子さんのお二方は、小双璧と呼ばれる程の実力者。金宗主も欧陽子真よりもお若いですのに、ご立派です」
二番目の娘の瑠華が、にっこりと微笑んだ。
「そ、それはそうだが……」
娘たちの話は間違ってはいない。だが、それよりも大きな問題が背後に潜んでいる。
「その後ろにいる奴が……」
「後ろ?」
瑠華が首を傾げる。
「姑蘇藍氏のお弟子さんの後ろ盾は仙督でいらっしゃる含光君。金宗主の後ろ盾は雲夢江氏の宗主様では?」
瑠華の認識は正しい。
だが、欧陽宗主の言いたい人物は違った。
「私が言いたいのは夷陵老祖だ!」
父親の苦虫を噛み潰したような顔に、まぁ、と女人三人は小さく声をあげた。
「夷陵老祖と言えば、雲夢江氏の魏無羨様でしたわね?」
「母様。今は江氏から離れて姑蘇藍氏にいらっしゃいますよ?」
「そうそう。含光君の道侶となられたそうで」
うふふ、と朗らかに笑う夫人や娘たちに欧陽宗主の表情は険しくなる。
「笑い事ではないわ! あやつが居るからうちの子真がますます儂の言う事を聞かず……」
「それはまちがいです、父様。子真は昔から父様の言う事を聞かない子でしたよ?」
ころころと笑いながら紅湘が茶を飲む。
「父様が子真に甘いからそうなったんだと皆で話してましたわ」
ふふふと瑠華が干菓子を摘んだ。
「わ、儂が甘かったと!?」
「自覚が無かったのですか、あなた」
あらあらと夫人は頬に手を当てて大きくため息をついた。
「あなたは厳しく育てたつもりでしょうが、子真は他の公子に比べれば甘さがあります。これから欧陽氏を継いでいく後継者ならば甘さは命取りにもなりかねません。子真一人の命ならばそれも運命とうけいれましょうが、子真についていく子弟たちの命も危険に晒すことになりますわ。子真の代わりはどうにかなりますが、子弟たちがいなければ仙門は成り立ちません」
子供の命よりも子弟たちが大事と言い切る妻に、欧陽宗主は椅子から立ち上がる。
「なんと不届きな!! 子の命よりも子弟の命が大事と言うのか!?」
激怒する欧陽宗主とは反対に夫人と娘たちは冷静だ。
「親として子の命が大事なのは当然です。しかし、今、子としての子真の話をしているのではないでしょう?」
ふふふっと夫人が笑う。雰囲気はおっとりしているが、なんともいえない圧に負けて欧陽宗主は椅子に腰を下ろした。
「宗主として一門を指導し統率する。とても立派で大事なお仕事ですわ。ですが、そこに責任が伴うことはおわかりでしょう? 子弟を大事にするからこそ、子弟たちは宗主を慕うのです。危機に陥った時に、子弟を見捨てて我先に逃げる宗主を子弟はどう思います? この人に命を賭けると思えまして?」
口調は穏やかだが、核心を突く妻の反撃に、ぐぐっと欧陽宗主が口ぐもった。
欧陽夫人は、門下で昔から欧陽氏に仕えていた一族出身で実力も度胸も美貌もずば抜けており、若かりし頃はいずれ欧陽氏より独立し自分の仙門を立ち上げるのではと囁かれていた人物だ。
先代の欧陽宗主夫妻は、気弱な息子の将来を心配し、手綱を取れそうなしっかりした夫人に泣きついたという経緯がある。実力者であった夫人が、欧陽宗主を伴侶に選び奥に入ると、夫のすることや仙門の事に一切口をはさまず、公式な場以外に姿を現すことはなくなった。
その後、欧陽氏はあの戦いを生き残り、二女一男をもうけ、一門は繁栄した。夫人の実力は仙師としてのみならず、良妻賢母としても発揮された。
そんな妻からの指摘に、欧陽宗主は気まずそうに茶を飲む。
「父様は、魏無羨様がお嫌い?」
どちらかといえば自分に性格がにている瑠華が問いかけてきた。これにどう答えるのが正解か、欧陽宗主は考え込む。
「それはお嫌いでしょう? なんせ夷陵老祖ですからね」
妻似で美人の紅湘がふふふと含み笑いをし、言い放った。
魏無羨と名を呼ばず、夷陵老祖と号で呼んだ父親に対する嫌味だ。
「でも魏無羨様への誤解は解けたのでしょう? それなのに?」
「誤解が解けても、あの時亡くなった方々の事を考えればそう簡単に謝罪もできないのよ、仙門は」
豆菓子をカリッと噛み、妹娘の疑問に姉娘はあっさりと答えた。
「それは……」
「と、いうのは表向き。魏無羨様の生意気な態度が今でもお嫌いなのよ、皆様は」
段々と旗色が悪くなる状況に、こんなはずではなかったと欧陽宗主は内心舌打ちする。
欧陽子真にも反抗期があり、そろそろ一人前として独り立ちするころだとわかってはいた。わかってはいたが、つい先日まで父上、父上と後ろをついて回っていた息子が、友を作り、あろうことかあの問題児の魏無羨を師と慕うなど誰が予想できただろう。
おまけに、蘇った魏無羨の評価は、当時を知る者と若い者とでは認識が大きく違う。
欧陽宗主の年代は、仙門では考えられない邪道を使う悪者と思っているが、若い者はこれまでにない方法で問題を解決する開拓者と捉えている。
特に、人格者として名高い藍忘機が魏無羨を道侶にしてしまった。これが魏無羨の印象をがらりと変えていた。
「仙門には正道というものがあり、それは不可侵なもので……」
欧陽宗主はごほんと咳をし、今まで子弟たちに教え聞かせた話をする。だが、それを夫人が持っていた扇をばさりと開いて止めた。
「仙師は正道が基本。それをあの方……夷陵老祖は覆してしまいました」
思わぬ援護になった夫人の話に、欧陽宗主は慌ててうむうむと頷く。
「怨念を怨念で抑え込む。剣を使用し、陣を張り、済度する本来の仙師のやり方からはかなり外れた邪道です」
夫人の硬い声に、満足そうな欧陽宗主とは反対に娘二人は表情を引き締めた。
父よりも実力がある母の言葉は重い。
「しかし、その夷陵老祖が発明した召陰旗や札は、どの仙門でも当然の様に現在使用しています。むしろ、従来よりも格段に効率が良くなりましたね」
ん? と欧陽宗主は頷いていた首を止めた。
「ああ、そうでしたわ。夷陵老祖の技術を見つけ出し、最初に使用したのはかの斂芳尊でした。時代の流れとは残酷なこと。あんなに皆から慕われていた斂芳尊が今や罪人ですものね」
夫人の嫌味にヒクッと欧陽宗主の口元が引きつる。
「斂芳尊は己の父親を殺し、仙門を混乱に落とした奴だ。人にも劣る」
苦々しく欧陽宗主が吐き出せば、夫人はええと答えた。
「表面に見えているものが全てではないと考えさせられます。本当に信頼してよいのは誰なのか、難しいところ。ですが、その場その場の日和見主義でころころと態度を変えるというのが一番恥ずかしいかもしれませんわね」
「……さっきから何が言いたいのだ、お前は」
「あら、ありのままをお話しているだけですわ。それとも私の話にどこか変な所が?」
茶器の蓋を取り、音も立てずに一口茶を飲む欧陽夫人はすまし顔だ。
暗に、自分の夫を筆頭にころころと強い者に対して態度を変える仙門各所に当てこすっているのだ。
しかし、中堅の仙門はその時節によってどこの仙門と手を組むか勢力を決めておかないといざという時、困る。
若い頃、第一線で動いていた妻ならば仙門のやり方や考え方はわかっており、欧陽宗主のやり方にこれまでそっと助言をくれたことはあっても反論されたことはない。それが今日はどうしたことか、ちくりちくりと言葉が刃を持っている。
「私、父様にお聞きしたいことがございますの」
旗色が悪くなった欧陽宗主を助けるように瑠華がにっこりと微笑む。話題を変えるこの機会を逃すわけには行かず、欧陽宗主は引きつる口元をどうにか上げて笑みを作った。
「なにかな?」
「これなのですが……」
コトリと小さな箱を瑠華は取り出し、卓の上へと置いた。掌に乗る大きさで一目で豪華なものとわかる意匠だ。
「岳陽呂氏の第一公子様より贈り物をいただきましたの」
ぎくりと欧陽宗主は、身動いだ。
「瑠華、見せて?」
紅湘が手を伸ばし、箱の蓋を開ける。中には淡い桃色の宝玉をあしらった髪飾りが入っていた。
「素敵な髪飾り。瑠華に似合うわね」
無邪気な姉娘の言葉が欧陽宗主に突き刺さる。
「岳陽呂氏といえば、最近よく聞く仙門ですね。父様、いつお知り合いなったのですか?」
「あー……清談会の時に、な……」
「ですが、そこの公子様がなぜ瑠華に贈り物を?」
ニコッ。姉娘の笑顔が不気味だ。
姉娘の紅湘は幼い時から容姿端麗で能力があり、さすが夫人の娘だと周りから褒められた。もちろん、欧陽宗主にしても自慢の娘であり、一時期は紅湘を宗主に育てようと教育したこともある。欧陽子真が生まれ、跡継ぎとして教育を始めたが、性格がおっとりなせいかなかなか鍛錬は進まず、頼りない長男よりつい紅湘の方に頼ってしまい、今では宗主代理を務めることもある。
こうやって茶を囲んでいても、娘らしく着飾った妹の瑠華とは違い、髪を結び、動きやすい衣服と近くに剣を持っている姿は、若い頃の妻を彷彿とさせた。
「い、いや、その清談会の時に、だな。年頃の子を持つ親は大変だという話になってな。ちょっと話したら、呂宗主が……」
「年が近いので婚姻でも、と?」
娘の指摘に、欧陽宗主は首を振る。
「違う! どうか? と問われたが婚姻は本人たちの意思が大事と断った!!」
慌てふためく欧陽宗主に尻目に、女性陣は肩の力を抜く。ピリリッと張り詰めていた空気が一瞬で消え去った。
「良かったですわ、あなた。結婚当時にお約束したことをちゃんとお忘れでなくて」
「も、もちろんだ!」
そよっと夫人が扇であおぐ。
欧陽氏は今でこそ四大世家に次ぐ発言力を持つ中堅仙門だが、傑出した力がある家ではない。どちらかといえば、新しい子弟よりも昔から欧陽氏を支えてくれた古参の子弟たちが多いのだ。それは歴代の宗主たちが子弟を大事にし、丁寧に指導してきた賜物でもある。
その一つの家であった夫人は欧陽宗主とは幼馴染であり、性別を超えた親友でもあった。
前欧陽宗主から息子の嫁になってくれと懇願された時、真っ先に反対したのは欧陽宗主当人だった。
『望まない婚姻は互いを不幸にする。欧陽氏より独立し、己の仙門を立ち上げた方がいい』
恐らく、欧陽宗主が親に対して初めて反抗した一言だ。才能がありながらもどこか自信がなく、長いものには巻かれたほうが楽という気弱な幼馴染が見せた意外な一面は、恋愛対象にはなりえないと思っていた夫人の心を動かした。
『いえ。私はあなたの側にいることにしました。ですから約束してください。もし、あなたが宗主になるならば、将来子供たちにも好きな道や人を選ばせることを』
あの時の欧陽宗主の顔は年月が経った今でも夫人の心に焼き付いている。
まさかという驚愕と、少しの不安と、そして隠せない歓喜。
周囲に流されやすい人だけれど、家族を愛し、人を愛するならば、ついていって良いと夫人は判断した。
年を取るにつれて立場や時代の流れでかつての気持ちを維持しづらくなったのは、夫人もわかっていた。
特に、温氏が横行する中、温氏に歯向かい滅ぼされた仙門も少なくない。それを目のあたりにし、どうすれば欧陽氏が生き残れるのか、欧陽宗主が苦労して模索したのは間近で見ていたのでわかる。
正直、魏無羨という人物がどんなものなのか、夫人は測りかねていた。
皆が魏無羨を嫌うのは自分たちの予想外のことをやってのけ、正道を信じ切っていた連中にそれ以上の圧倒的な力を見せつけたからだ。
『恐怖』
恐れは人の心に不安を呼ぶ。それが過剰になると攻撃的になり、魏無羨討伐の根底にはそんな人々の恐怖が巣食っていた。
それが悪いとは言わない。
当時の魏無羨の力は仙門が見逃すことができないものであったし、一つ間違えば仙門など瓦解しただろう。存在意義を脅かす者に対しての抗うのは当然だった。
『母上、母上! 魏先輩は凄いお方です! いとも簡単に複雑な陣を張り、瞬時に策を巡らせるのですよ!』
キラキラ輝く息子の瞳には、時代の変化が訪れていた。親は魏無羨を『恐怖』と捉えたが、欧陽子真ら子供たちは『希望』と捉えている。
「子真は本当に私に似たこと。希望を見いだす相手が困難であるほど燃えるのね」
扇の下でくすりと笑う。
「何か言ったか?」
神経質そうに髭を撫でながら、妻の様子を伺う欧陽宗主に、いいえ、と夫人は返した。
「今は見守ることにいたしませんか? 何事も経験と修行です。貴方が思うほど、子真は弱くはありませんよ?」
ね? と夫人から視線を寄越され、う、うむと曖昧な返事を欧陽宗主は吐く。
そんな様子を紅湘と瑠華は間近で見て、我が家の主はこの母だと改めて確認していた。
「あなた。久し振りに街に一緒に出ませんこと? 新しくできた店には名物の焼餅があるらしいのです」
「なんと!」
甘い物好きの欧陽宗主はすぐに立ち上がった。そして、さり気なく夫人へと手を差し出す。
パチパチと瞬きした夫人はゆっくり立ち上がると、微笑みながら欧陽宗主の手に自分の手を重ねた。
「では、行ってくる」
嬉々として出かけていく両親の背中を見送った紅湘と瑠華は茶器を持ち上げ一口飲んだ。
「宗主としてはどうかと思うけど、父親としては合格なのよね、父様」
「じゃないと、母様が嫁ぐはずはないじゃない?」
「そうね」
フフフッと顔を見合わせて、娘たちは笑う。
街で、焼餅の美味しさに買いすぎて妻に怒られている欧陽宗主の噂が出回るのはまた先の話。