抹額の意思手を出せ、と魏無羨が言われた思追と景儀は素直に手を出した。
それぞれの手の平の上に乗せられたのは藍氏の象徴たる抹額だ。
「え…なんで?」
おもわず口から滑り出た疑問は間違ってない。
自分達の抹額は額に曲がること無く綺麗に結ばれている。
新しいものを用意しないといけないほど、汚れてもいなければ、古びてもいない。
つまり、新しい抹額を魏無羨がくれた意味がわからないのだ。
「藍湛が用意したものだからな、大事にしろよ?」
にこにこにこと機嫌良く魏無羨は微笑む。
「含光君が? この抹額を?」
景儀が信じられないと手の平にある抹額を見つめる。
本来、抹額を新調する場合は、新調する理由を届け出さなくてはならず、紛失した場合以外は新しい抹額と古い抹額を交換する事が原則だった。紛失した場合は重い罰則が適応され、暫く抹額を着けることは許可されない。
藍氏において抹額が額にないことは、藍氏に非ずと同意義で最大の恥辱であるため、誰もが紛失だけはしないよう気をつけている。
「三週間後にお前たち婚礼だろ? 新しい抹額がいいだろうって藍湛が。で、今つけてる抹額を貰ってくるように言われてる」
やはり、交換かと二人は手に置かれた抹額を眺め納得した。
藍忘機の指示だ。従わないはずがない。
するりと着けていた抹額を外した二人はそれを魏無羨へと渡した。
そして、今貰ったばかりの抹額を額に着ける。
「着けたな?」
魏無羨の楽しそうな声に、にやりと意味深な笑い。
豹変した魏無羨に思追と景儀の脳裏に嫌な予感が走る。
「……何か企んでます? 魏先輩」
「企んでないよ。ただ、この抹額はお前たちの物だなぁって」
「含光君からの贈り物、ですよね?」
「うん、そうだよ。そして俺からの贈り物でもある」
「嫌だあああぁ!」
藍景儀の悲鳴が木霊した。
カンッ、キンッと金属がぶつかり合う音の隙間に、ぷぷっ、クスクスと笑い声が混じって聞こえる。
景儀はぷるぷると肩が震え、思追はじっと目を閉じている。
「……なあ、思追」
「何?」
「抹額を新しく貰いに行こう?」
「それは駄目」
「どうして?」
「含光君と魏先輩から頂いたものだから」
わかってる!わかってるんだっ、それは!
景儀は心の中で叫ぶ。
だが、周りの忍んだ笑い声と視線に耐えられない。
「これ本当に含光君から贈りものと思うか!? 絶対に違うっ!」
何度繰り返したかわからない景儀の愚痴にすっと思追は目を開けた。
「いただいた物は大事に使おう?」
宥めるような優しい瞳が景儀を包む。だが、景儀はどこか嬉しそうな思追の態度も気になっていた。
「なぁ、もしかしてさ、思追は嬉しいのか?」
「……どうして?」
「え、いや、だって……」
いつもよりも笑顔が多い!
引き締めてるんだろうけど、口許が緩んでる!
姑蘇藍氏でも中堅を担う年齢になり、思追は落ち着いた雰囲気を纏うようになった。
凛とした姿に憧れる師弟たちは数多く、引き締めた表情は含光君を彷彿とさせると大人気だ。
今日も師弟たちの剣の訓練を通常通りに行っていると周りは思っているだろうが、景儀の目はいつもと違うと見抜く。
「うん、嬉しいよ」
視線を景儀から前方に変えて、声を少し潜めた思追が、剣に手をかけながら答えた。
「本当は景儀にずっと触っていたいけど、そうはいかないだろう? 抹額だけでも、絡まっていると思うと安心する」
「っ!」
視界の片隅に絡み合った抹額の端が見えて、ボンッと景儀の顔が真っ赤になる。
藍忘機が二人に用意した新しい抹額に魏無羨がありがた迷惑の術をかけた。
道侶の気配を感じると抹額の端が勝手に動き出すという、誰得? という術は、思追と景儀が近くに寄るとお互いの抹額が絡むという現象を引き起こした。
周りから指摘されて慌てて魏無羨の所へ駆け込むと、魏無羨はやっと気付いたかとにやりと笑った。
持ち主の意思に従うんだよ〜と魏無羨はニヤニヤしながら説明してくれたが、持ち主の意思に反してどこでもここでも絡むので、周りからは仲がいいなぁと揶揄われ、藍啓仁からは渋い顔をされて睨まれる。
絶対に意思に反してると魏無羨に文句を言えば、
『それは、抹額から馬鹿にされてんだ!』
とゲラゲラ笑われ、抹額ぐらい制御しろよと怒られた。
魏無羨が変な術さえかけねば、こんな恥ずかしい目にも合わないし、揶揄われたり怒られることはないのに、理不尽じゃね? と景儀はムスッとする。おまけに、同じ目にあっている思追が特に気にする風もなくやけに機嫌がいいのも、もやもやする原因だ。
婚姻を決めた今が一番最高潮に恥ずかしい。
むしろこっそりとお互いの気持ちを確かめて周りに気を配っていた時の方が楽だった。誰にも知られなかった時は隣に居ても楽しかった。
だけど、二人の仲を公表した途端、周りは思追との関係を揶揄ってくる。それが今の景儀には辛い。
好きであることは恥じることではないのだが、どうしても気持ちに折り合いがつかない。
「もしかして景儀は嫌?」
ぎくっと身動ぎする景儀に、思追は苦笑する。
景儀は恋愛には奥手で恋人になるまで紆余曲折があった。やっと付き合うことになっても、できれば内緒でと頼まれ、うんと頷くしかなかった。それで景儀が恋人になるならばと思追は思ったのだ。
しかし、更なる困難はここからだった。
景儀が誰からも好かれていることは知っていた。身軽に動き、気さくに話しかけるその性格は、多少景儀の口が悪くても嫌われることがない。
だが、恋人になってしまうと欲が出る。恋人が誰かれ構わず愛想を振りまくことを許せるほど、思追は大人ではなかったし、思追が嫉妬しているなど全く考えてない景儀はじわじわと忍び寄る陰りに気づいていなかった。
次第に、二人の仲を公表したい思追と知られたくない景儀はケンカが絶えなくなり、夜狩りで大きな失敗の末、思追が昏睡状態に陥った。
どうすれば思追は目覚めるのか、魏無羨や藍忘機が手を尽くしたがわからない。日が経つにつれ、やつれていく思追に、景儀は藁にもすがる思いで温瓊林に会いに行った。岐山の山奥、温氏の一部の一族が暮らしたという隠れ里にひっそりと住む温瓊林は、思追の生き残った唯一の血族だ。
思追の状況を聞いた温瓊林は、舞天女の祠に景儀を案内した。医学を修めた温瓊林の一族は、舞天女の祠にいくつかの隠し扉を持ち、そこに門外不出の薬を隠していた。ただ、この薬を使うには一つ条件がある。
薬はあまりに劇薬なため、命が助かっても体を動かせなかったり、記憶や知能の障害がでるかもしれないのだ。
もしそうなった場合、その責任をとれるか。
その覚悟がないならば渡せない、といったものだ。
時は一刻を争う。
意見の食い違いでケンカはしたが、世界で一番大事な人。景儀は迷わず、思追に何かあっても一生一緒にいると誓った。その約束を違わぬように、景儀の血を一滴混ぜた薬は思追の元へと届き、思追は一命を取り留めた。幸い思追は体にも記憶や知能にも今のところ異常はなく、落ちた体力を回復すれば元通りになると医師から診断される。
薬の経緯を温瓊林から聞かされた魏無羨と藍忘機は、二人が道侶になることを勧めた。もちろん、簡単に勧めたのではない。血を使った契約は、反故にするとその反動は大きく、この場合、思追と景儀、両方に害が及ぶ恐れがあったからだ。幸いなのは、二人が想い合っている者同士だったこと。
すぐに詳細を藍曦臣と藍啓仁に話した。すんなりと認められたわけではなかったが、有望な子弟の将来がかかった話に、二人は頷いた。そうして、景儀と思追の婚姻は雲深不知処に広く知れ渡った。
「僕を助けるためとはいえ、無理矢理決まった婚姻だから、みんなから揶揄われることもこの抹額も……もしかしたら婚礼をすることも景儀は望まないだろうけど……」
目を伏せる思追は、さっきまでの幸せそうな雰囲気が消えている。ヴッと景儀は唸った。
自分が景儀の一生を縛ってしまった、と思追は目が覚めてからずっと景儀に謝っていた。
どうせならそのまま死なせてくれても…と言った思追の胸ぐらを掴み、景儀は怒鳴る。
『俺がお前を助けたかったんだ!! 謝るぐらいならありがとうって言え!! ばかっ!!』
出てくる涙を乱暴に拭い歯を食いしばる景儀を、抱き寄せた思追は小さな声でありがとうと言った。
そう。
本当に失いたくなかったのだ、思追を。
もう二度と会えないかもしれない恐怖は今でも身震いする。そんな後悔をしないようにあの時、誓ったのに。
「望まない……わけじゃない……」
「え?」
「……俺も、本当は嬉しい……」
くるんと回った景儀の抹額が、思追の抹額をそっと撫でた。
「また変な術を」
「素直にならないと疲れちゃうだろ?」
ニシシと笑う魏無羨に、藍忘機は嘆息する。
「景儀、恥ずかしがり屋だから、時々、空気抜きしないとな!」
「逆に拗れたらどうする?」
「拗れる? ありえないね! だってさ……」
魏無羨は、両手の親指と人さし指で丸を作り、遠くで照れ笑いをしながら寄り添う二人をその中に入れた。
「あんな優しい笑顔を互いに向ける奴らが相思相愛じゃないなんてないだろ?」