天秤のキメラ 組織犯罪対策課の刑事は、捜査対象の情報取得の為にあらゆる手段を講じる。法的手続きなんて踏んでいたら組織壊滅どころか構成員の逮捕すら夢のまた夢という有様だから、表にさえ出なければ、不法侵入、盗聴、書類捏造と違法捜査も厭わない。反社も真っ青なラフプレーだが、巨大犯罪組織とやり合うというなら真っ先に捨てるのが社会倫理という名のルールだ。
警察組織の中で無法に等しいのが公安と組対だ。二つの課に属す人間は身分が明らかになることが命の危機に直結する。尾行や盗聴だけで送検に持ち込める案件なら肩書きで圧掛けすれば良い。そもそも、末端でも知れる情報なんてたかが知れてる。その程度のものは東京卍會に致命的な打撃を齎さない、トカゲの尻尾切りよろしく構成員を差し出せば済む。重要度が高い金の流れ、犯罪に関与した確たる証拠を掴むには中枢に刺さり込むしかない。
幹部クラスの人間を口説き落とし情報提供者ないし内通者と出来れば良いが、東卍では靡く奴は皆無だ。古参と途中参入の元黒龍組で派閥が分かれ、両者の折り合いが悪いにも関わらず裏切りは起きない。人情派の多い古参連中が密告しないのは偏に佐野万次郎という存在のためだ。では、幹部に近いポジションに居る人間を抱き込むのはどうか。それもあまり良い案とは言えない。訓練を受けてない素人同然のヤツは尻尾を掴まれやすい。探っていたことが伝われば、掴みかけていた糸はぷつりと途切れて捜査は振出しに戻る。結局、潜入捜査が一番手堅い手段だ。組織の信頼を得るのに数年単位での潜入も珍しくはない。家族にすら社会的な身分を偽る徹底ぶりだ、生活安全課や交通課に籍を置いてるなんてのは可愛いもので、警察と無関係な一般の会社勤務という場合もある。そんなわけだから、潜入捜査中に殉職しても警察官の身分を公表されることはない。
そんな、愛する人間にも告げられない秘密を抱える潜入捜査官が週末の新宿歌舞伎町、野良猫の糞尿の臭いが漂う暗がり、夜通し飲み明かし酔った大学生が立ち小便をしようとふらりと入った路地裏で冷たくなっていた。人生最悪の日ってのは誰にでも訪れる。机の上に広げた新聞紙に掲載された記事の横に添えられた白黒写真を眺め、ご苦労さんと感情のこもらない呟きを落とし紙面を閉じた。
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歌舞伎町の片隅に築年数が二十年は経つ三階建ての雑居ビルがある。そこの二階と三階が自分の仕事場だ。二階は清掃会社のオフィス。そう呼ぶには社長室とデスクをパーテンションで仕切っただけの粗末なもんだが一々部下を呼び出す手間が省けるのが良い。三階は仕事用具や備品等を置く倉庫として使用している。
稼ぎも増えた今、駅前のテナントに移る話もあったが、賃料がアホみたいに高いだけでメリットが薄かった。親会社である幼馴染のフロント企業が近いくらいで、顔を出す機会なんて三ヶ月に一回くらいだ。オレの会社が請け負う仕事の半分は半間修二からで、もう半分のビルやマンションの清掃業務は九井一から斡旋される。九井グループと提携し契約を取っているため、事務所に顧客が足を運ぶことはない。だから、無駄に小綺麗で各種条件が整った物件なんてのは無用の長物で、一階は安くて美味い町中華が食える店があり経費も抑えられる庭同然の場所の方が何かと便利だ。
壁掛け時計の針が正午を指そうとする頃、掛けていた眼鏡を外して目頭を揉んでいるとデスクが一番近い部下が昼飯注文するんで何にしますか社長と受話器を持って尋ねた。内線一本で下の中華店と繋げて、電話口でメニューが決まってる連中の注文を伝える間に、オレが昼飯を何にするか考えるのが常の光景だった。
「かに玉とラーメン、あと」
半ライスを注文する声は、蹴破る勢いで開かれたドアの音に呑まれた。復唱しようとしていた部下の声も次に放たれた荒々しい言葉に掻き消される。今居る場所から一歩も動くな。少しでも動いてみろ、公務執行妨害でしょっぴくっぞ、クソ虫共が。威圧的な物言いと連なる硬質な靴音に、昼飯時の闖入者の正体が割れた。複数人のスーツの男達は部下達の動きを制止する。持っていた受話器を叩きつけられた部下はその横暴な振る舞いに殺気立つ、なにすんだコラと胸倉を掴もうとする前に遅れて入ってきた男が横面を張り飛ばした。うるせぇハエだなと鼻を鳴らし、椅子に座る自分の前まで歩みを進める。そして、鼻先に一枚の紙きれを突きつけた。
「最近、視力が落ちてきたんで眼鏡掛けてもいいですかね」
記された文字を読むまでもなく家宅捜査の令状だ。イヌコロが現場から証拠品を持ち帰った。で、その飼い犬のヤサを探しに来たわけだと突きつけた紙で、これ見よがしに頬を軽く叩かれる。
「そういつは困った犬だ。一体、なんのヤマですか」
とぼけるなよ、週末の歌舞伎町で起きた事件。オマエの縄張りで起きたんだ、知らないわけないだろうが。侮蔑の籠る声、心底オレという人間を嫌悪する表情の中で印象的なのは、怒りを如実に物語る目だ。
「あぁ、片目を抉られたサラリーマンの。酔っぱらい同士の喧嘩にしちゃ性質が悪い」
さも、今思い出したと言わんばかりにすっとぼけた言葉を舌から垂らせば、間髪置かずに拳が飛んできた。血の気の多い部下達が今にも飛び掛かろうとするのを、一喝する。下手に暴れられたら相手に餌を与えるだけの殴られ損だ。
「お前ら、わざわざいらして下さったんだ。捜査に協力しろ」
頭に血が上ってるのは捜査一課の皮を被ったこの刑事も一緒だ。表向きは酔った末に殺害されたサラリーマンと報じられているが、被害者は組織犯罪対策課の刑事だ。警官の身内殺しは虎の尾を踏む行為だが、それは部署による。組対と公安、捜一は水と油だ。捜査権を巡って度々衝突して、互いの情報を伏せて共有しない。つまり、今回の身内殺しで怒りを露にするのは組対だ。なりふり構わず令状を取ったことも捜一の連中は知らないだろう。
「調べてもらえば、潔白が証明される」
潔白の二文字、これが火に油を注ぐのは百も承知だ。怒りは理性に牙を立て思わぬ情報を零す。九井のイロにしては頭が足りねぇな。オマエが股開いて頼めば、快く偽証する証人を百人は用意するようなイカレ野郎だ、アリバイは無意味だ。それより早く身元保証人として呼んだらどうだ。乾青宗を詰る常套句の数々、珍しくもなんともないが幼馴染の存在を強調している。被害者が出たことで東卍のガードが固くなる前に、金の流れを掌握する九井一を強引に釣り上げる算段だ。相手が応じざるを得ない手を打つというわけか。
目の前の捜査員達が組み立てられた段ボールに書類が無造作に突っ込むのも最初だけで、直ぐに動きは手荒なものに変貌した。椅子を蹴り飛ばしデスクの引き出しを無理矢理引っ張って床に投げ捨てる。押し込み強盗と大差ない。これまでの圧掛け目的の嫌がらせと違い、仲間を殺されたことに対する抑えきれない怒りと憎悪が滲み出ている。そうした捜査員の行動が部下の感情を煽り、緊迫した空気が流れる中で現状を無視して口を開いた。
「五月だって言うのに今日は暑い」
まるで目の前の光景が見えてないかの世間話の体で投げた言葉、相手からすればこれ以上なく神経を逆撫でされるはずだ。弁護士に電話の一本も掛けられない状況で任意同行から強制連行になれば、此方の対応は後手に回る。そんな中で呑気に天気の話をするヤツがどう目に映るか、馬鹿にされたと感じる。案の定、黙れ雌犬と聞き慣れた罵倒が飛んできた。オマエの罪は必ず立証される、その一言に予想は強い確信に変わった。乾青宗を餌にして存在しない透明な証拠に色付けする。社会的信用の薄い部下達が証拠品の捏造を訴えても再捜査はされない。
あと、一時間以内に形だけの家宅捜査は終えて用意された証拠品によってオレはパトカーに押し込められるだろう。壁掛け時計にもう一度目をやる。動けない状況で、電話等で合図を送ることは出来ない。
粗方の書類を詰め終えると、机の引き出しを全て取り出し、デスクチェアーのレザーまで剥がしていく。頃合いを見て三階に上がる連中に捏造した凶器を仕込ませるつもりだろうが失敗した時の為に、ご丁寧に証拠品保管庫から持ち出したであろう薬を使って薬物所持で引っ張るってところか。
「飛べる葉っぱ探してるなら、場所教えますよ」
突然の誘いに簡単に乗ってくるほど向こうも馬鹿じゃない。
「徹夜続きだと欲しくなる。分かりませんか、オレは今、自白してるんです」
違法薬物所持の罪で逮捕の要求、自白と自首に加えて初犯は執行猶予が付くから金を払って釈放される。殺人罪を避けて被害を最小限で済ませる選択を取った。オレの手の内が読めた、薬物所持はシナリオ通り。連行した後に殺人罪を取り付ける手筈は整っている、駄犬の浅知恵を嘲笑い気を抜く。現に捜査員の目から嘲る色が隠しきれず目尻が歪に弛んでいた。スーツの内側に手を入れようとすると制止される。動くな、俺が調べると大股で近寄って来ると無遠慮に上着に手を突っ込まれる。ポケットをまさぐる指の感覚に声を上げる。
「もう少し右、そうそう。そこから下、いや、まだです。ああ、上手だ、あと手を一つ分、下げたところにお望みのブツがあります」
胸から腹、腹から股間に導く声に下劣な皮肉に気付いた刑事は、瞬時に怒りで顔を赤く染めるとオレの体を思い切り突き飛ばした。咄嗟に受け身を取ったが勢いを殺しきれず、打ちつけた箇所に痛みが走る。息を整える間もなく、汚れた靴裏で顔を踏み躙られる。
「しゃぶったらぶっ飛べるブツってのは嘘じゃない」
頬骨が軋むのにも構わず追い打ちを掛ければ、思い切り蹴り飛ばされた走る衝撃に視界が明滅する。打ちどころが悪ければ後遺症が残るだろう、ただなこっちは端から生半可なことやるつもりは毛頭ない。天秤にアイツの未来が掛かってる時点で乾青宗の生死なんてのは些末な問題だ。使い古された手に黙って付き合ってやるほど馬鹿じゃない。盤面を有利にする為の手段は他にもあるんだよ。反社会組織の人間相手だろうと言い逃れ出来ない暴力行為は司法組織の道徳と倫理を問える。この部屋に仕込まれた監視カメラの映像データは、証言と違って握り潰せはしない。
だからもっと。殴って鼻血を吹かせろ、蹴って痣塗れにしちまえ、踏み潰して骨にひびを入れろ。痛めつけられるほどオレという人間に価値が生まれる。口内が血の臭いで充満して床に赤い唾が飛び散って呼吸するたびに体が軋む。強烈な暴行の印象を演出するため、獣のよう呻きのたうち回る。臓器に損傷を与えないよう身を守りつつ。映像を見た人間はこちらの思惑までは判断しようもない、司法への強い不信感だけ抱く。
容赦ない革靴の感触が去ったのは室内に響く無機質な電子音だ。事務所の電話なら誰も出ないから鳴りっぱなしのままだが、音はすぐさま切れて潜めた声で応対するのが聞こえた。内容までは分からないが数秒して、おいテレビ点けろと切迫した音で捜査員の一人が指示を出す。遅れて場の空気にそぐわない笑い声が溢れ出す、続いて緊急速報を知らせる音に、軋む体を動かしテレビの方に顔を向ける。狭くなった視界で見切れたテロップの文字を追う、点滅してもう一度最初から流れる字幕に集中する。僅かな沈黙が落ちた後、男達は乱雑に積まれた段ボールを蹴り飛ばし口々に罵詈雑言を並べ立てた。
事件の犯人が緊急逮捕された。ただ、その犯人の素性は中国系マフィアの構成員だった。管轄は捜査一課ではなく目の前の組織犯罪対策課の持ち回りとなるはずだが、テロの危険性があれば公安の事案だ。男達の行動から、公安絡みの事件となったのは明らかだ。そして犯人が捕まった以上、家宅捜査の継続は別件である正当な理由が無い限り違法捜査と見做される。自分が殴られてる感に誰かが仕込んだカードを切ったのだ、結局殴られ損かと深い溜息と共に起き上がる。
「お茶も出せなくて、すみませんね」
綿の飛び出たソファに腰を掛け、手詰まりとなった連中に皮肉を投げ飛ばす。殴りたそうに拳を握る男を一瞥し胸ポケットから拉げたパッケージを取り出す。潰れた煙草を一本加えて唇で揺らせば、部下が条件反射で火を持って来る。
「今回の件は訴えませんよ。誰にでも『間違い』はありますから」
先端を炙り煙を肺で燻らせる。そうして邪魔な奴らを追い立てるよう紫煙を吐き出した。このまま続けるのは不毛な争いと理解している奴らは、転がった椅子を蹴り飛ばしながら扉の外に出て行く。最後の一人が外に一歩踏み出す前に労いの言葉を投げてやった。
「でも、次から街で隠し撮りする時は金払ってください。正当な額ならタマの裏まで見せますんで」
■
会社での定例会議を済ませて昼休憩に行こうとしたら、秘書から応接室に半間さんがと耳打ちするのにメシの時間が先延ばしになることに盛大な舌打ちを落とす。この一ヶ月、ほぼ休みなく関西進攻の資金集めに奔走していた。報告は都度、稀咲の方に上げていた。わざわざ半間を寄越すのは追加の資金提供の打診ってところか。強欲なクソ眼鏡が、と心で零し大股で応接室に向かう。傷ひとつない扉の前に立つと、乱暴に開く。革張りのソファに身を委ね携帯を弄っている男に挨拶も無しに本題を切り出す。
「で、いくら集りに来た?」
「会話する気がねぇのも困りもんだな」
「テメェに時間を割くほど暇じゃねぇ」
「血管切れる前にわんこの様子見とけよ」
突然、出された幼馴染を指す言葉に眉間に皺を寄せれば弄っていた携帯の画面を此方に向けた。液晶画面には床に倒れた幼馴染が男に蹴り続けられていた。反撃する素振りもないことから相手がどういった手合いの人間かはすぐに分かった。
「中華屋の親父から連絡来て、ペットカメラを確認したらこれってわけだ」
「クソ野郎らしい趣味だな」
「稀咲さんがオマエに最大限の敬意を払ってる証拠だろ」
乾青宗の身の安全を保証していると言いたいのだ。逆を返せば脅迫だが。
「弁護士呼んでやろうか」
「いらねぇよ」
この状況じゃ弁護士はあまり意味がない。公務執行妨害や薬物所持なんかと違い、殺人事件の容疑者で引っ張られるはずだ。一度捕まれば捏造された証拠で固められ送検だ、無罪を勝ち取るにも時間が掛かる。打つ手は一つ、逮捕される前に事件を終わらせるだけ。端末を操作し海外口座に送金してから出荷依頼のメールを送信すると数分後には受領確認のメッセージが届いた。
「絶妙な動きで急所をずらしてんな」
「タダ見してんじゃねぇぞ」
「見られんのが嫌なら、融資するか?」
「稼がせてやるからテメェが指揮しろ」
結果的に金は手に入るが労働力は半間が用意することになる。期間を延長して協力するのだから感謝こそされど文句を言われる義理は無いと睨めば、倦怠感を煮詰めた口癖を吐きながら男は携帯から視線を外した。
「詳細は追って送る。メシの時間をこれ以上伸ばしたくない」
刑事達が引き上げない限り事務所から乾青宗は出られないが、此処に居て半間と話を続けても不快感が募るばかりだ。それなら先に部屋に戻って怪我したアイツの帰りを待っていた方が幾分も良い。踵を返そうとして、斜め上の言葉が投げかけられた。無視すればいいが、この男の言葉は妙に人の好奇心を刺激する。
「似たもの夫婦ってあるだろ」
「身を固める気にでもなったか」
「女は一夜限り、それ以上は邪魔にしかならねぇよ」
「悪さしなけりゃ一年は楽しめる。扱いの問題だ」
女が放っておかない容姿だが、半間修二の中身は本能的に忌避する危険なものだ。稀咲とは別種の得体の知れない危なさがある。
「性格や好みが似てる奴らが一緒になるんじゃない、嗜好も真逆な奴らが長年一緒に居ることで相手の性質に寄ってく」
世間話にしても意図が掴み辛く終着点も見えない。縁談の話に落ち着かせるつもりだろうか。
「独身を謳歌してるんでね、必要ない」
「乾、十年前より頭が回るようになったよな」
半間はそう言って立ち上がると肉食獣みたいにしなやかな足取りでオレの前を横切り応接室を出て行った。話を読み切れずに口にした独身という言葉を痛烈な皮肉で殴られ込み上げる苦々しさを、無理矢理呑み込んで数分遅れて扉の外に出た。
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やり込められた悔しさを晴らすように、赤坂の中華料理屋から両手がずっしりと重くなるだけの料理と酒をテイクアウトしてリビングに広げる。点けたテレビはどの局も昼過ぎに逮捕された中国系マフィアの構成員のニュースで持ちきりだった。背後にテロ組織の関与がある可能性が示唆され、コメンテーター達が熱い議論を交わしている。つい先日までは酔っ払いの犯行が濃厚だった上に、被害者が一般人ではなく潜入捜査員だったという事実が報道を過熱させる。日本であまり馴染みがないからこそ、テロという虚偽のスパイスは真実を侵食していく。
蓋を開けた器に寝そべるエビチリを指で抓み放る。甘辛いタレと弾力のある海老の旨味を堪能し尻尾も咀嚼して呑み込む。次は北京ダックに手を伸ばし、プラスチックのナイフで肉を削ぐ。千切りのきゅうりと身を餅皮で包んでいると、玄関の鍵が解錠される音が響いた。やっと帰ってきたかと手を止めると、幼馴染の慌ただしい足音が近付いてきた。靴を脱ぎ散らかしているのは想像に難くない。
「おかえり……ってイヌピーその手の」
片手にぶら下がるビール袋には見覚えのあるマーク、町中華の店のものだった。絆創膏が貼られた顔と見比べて問えば、苦笑して昼飯食いそびれたと持っている袋をテーブルの隅に置いた。
「何買って来たんだ」
「かに玉と海老チャーハン。ラーメンは断念した」
麺物は店で食うのが一番だと頷き、手の中の北京ダッグを口元に運んでやる。口を開こうとして絆創膏が邪魔だと気付いたのか、無遠慮に剥がして食いついた。出来たばかりの傷口と痣が神経に障る。もう十六のガキじゃないから、声を荒げる真似はしないが。
「ひどく男前にされたな」
「殴られた方が勝ち筋かと思ったんだよ」
「イヌピーが取れる最善策だったのは分かる」
「仕方ねぇよ。ココにはココの仕事があるんだ」
紹興酒の蓋を開けて、そのまま口付ければ胃袋に火が灯る。アルコールに刺激されて食事を再開する。
イヌピーは出来ることをした。外部に連絡が取れない中、悪辣な台詞で暴力を誘発する行動と手段は正しい。捜査の違法性を訴えるには論より証拠だからだ。乾青宗自身を守る選択なら納得しないといけない。
「金さえ払えば何でもするのか」
「どこから漏れ……いや、カマかけたな」
東卍幹部が所有する会社や事務所の一部には死角となる場所にカメラ設置されている。内通者からの情報が間に合わず家宅捜索を受ける場合に、迅速に対応するためだ。映像専用で音自体は入ってない。事務所での発言はカメラで知ることは出来ないが、組織犯罪対策課内部で乾青宗には下衆な噂が何年も前から付き纏っていた。九井一の愛人という定番のスタートから愛玩犬、アバズレ、オナホと卑猥な罵倒のオンパレードだ。十年前なら真っ向から噛みついたろうが、相手を怒らせ自分のペースに巻き込む方法を学んだ。
「で、どうなんだ?」
「誰かさんに安売りするなって言われてる」
「オマエの意見を聞いてんだよ」
「オレはオレの価値が一番高くなる時を知ってる」
「自己犠牲なんて話は聞きたくねぇからな」
幼馴染が命を賭ける時は自分自身でなく誰かの為なのを痛いほど知っているから、今日の一件も素直に受け入れるのが難しい。
「世界でそいつだけ居れば良い。ココなら分かるだろ」
どうしようもないほど眉を困らせて目元の皺を深くして笑っている。 且つて自分がそうしたように、乾青宗は天秤に世界と九井一を掛けてしまったのだ。そして、どちらが重いかの答えも出してしまっている。同時にオレには答えを求めないから、そんな風に笑う。
「あのな、イヌピー」
「そろそろ食おう。酢豚、貰うぞ」
空気を払拭するよう掴んだ箸で酢豚を抓んで頬張る、仕切りに美味い美味いと頷く乾青宗は九井一と似てきたから考えや言葉が分かるようになったのか、何を言おうとしてるか察して躱したのか。ああ、昼間の話に毒され過ぎだ。何年経とうとオレは乾青宗ほど無欲になれない。メシの最中だろうと甘酢と渇ききってない血が混ざる、幼馴染の唇を食べることに何の躊躇いもないのだから。