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    @555_ci91

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    555

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    コミュニケーション不全を起こした状態のまま年を重ねた幹部が、一緒に居るために遠回りしたり自分殺しきれなかったりで迷走する話です。
    ※名ありの権兵衛(♀)が🐶と絡みます。ワードパレットをお借りしてます。

    ミッドナイト恵比寿 繁盛期を過ぎてスケジュール進行が緩やかになりつつあり、これまで接待以外で飲みに行くのを自粛していた幼馴染が職場に顔を出したのは、壁の時計が丁度午後六時半になった時だった。
    「銀座に飲みに行こうぜ」
     まだ事務作業をしている社員の前を通り過ぎ、自分のデスクに腰掛けるなり夜遊びの誘いをかけるのに溜息が漏れた。オレが営む清掃会社は九井一が営む金融会社の子会社にあたる、この場に居る全員がそれを知っているため男がどんな態度を取ろうとどんな言動をしようと肯定する以外の選択はない。しかし、今日ばかりはタイミングが悪い。先約があっても優先すべきは九井一だが、飲みに行くだけなら多少の言い分は通る。幼馴染が断るなら、オレはそうかと頷き丸く収まる。
    「恵比寿なら付き合うぞ」
    「せめて赤坂にしろよ」
     一つ返事で頷かなかったのに、眉間に微かな皺を刻み間髪無く答える男に少々わざとらしく肩を竦めて見せる。
    「接待漬けだったんだ、赤坂銀座は暫く遠慮したい」
    「柚葉のところに新人が入ったんだ。気にならないか?」
    「尚更パスだ。バカ高い酒飲んでアイツの小言聞きたくねぇよ」
     ただ飲むだけなら最高のもてなしをしてくれるのは間違いない。問題なのは面倒な案件から解放された九井一は火遊びをする。柚葉の店のキャストを口説き、猫として飼おうとする。経営者である柚葉としてはたまったものではない、高級クラブで務める人材を見つけようやく店に出せる指導を終えたところで三ヶ月もしない内に九井さんの愛人になりましたので店辞めますなんてのは。また皮肉なことに柚葉が選ぶ女は、系統が違えどココが気に入る。野球ならとんでもない打率を樹立するレベルに。
    「はぁ……恵比寿で」
    「やけに素直に聞くんだな」
     てっきり、あれやこれやと言い募ってごねるだろうと踏んでいただけにこうも簡単に引き下がるのは拍子抜けなのと同時に、現実が出来れば行って欲しくない方向に舵を切り始めた。言った手前、取り消すのは難しい。遅かれ早かれ耳に入るのなら、腹を括った方が楽だと自らに言い聞かせた。
    「イヌピーが居ないよりはマシだ」
    「何か頼みでもあるのか?」
    「裏はないぜ。有るとしたら独占欲だ」
     お得意の飄々とした笑みを貼り付ける男は、何時になったら自分には無意味なリップサービスをやめるのだろうと考えながら、机上のファイルを閉じて仕事終了の合図とした。

    ■□
     恵比寿のクラブに向かうのに表通りでタクシーを捕まえて乗り込むと、店に着く間に幾つか送らないといけないメッセージを飛ばす。一つはこれから行く店の女に、もう一つは深夜に出向する船の確認をするものだった。二つ目のメッセージを打ち込もうとしたところで隣から伸びてきた手が液晶を隠した。
    「時間外労働は禁止だ」
    「何時からそんなホワイトになったんだ」
    「最近はちょっとのことで労基に駆け込まれるからな」
    「だとしても、オレ達の業界には無縁だ」
    「表向きはクリーンな清掃会社だろ」
     二つ目の積み荷が無事に届いたか気にはなったが、行く店を自分に合わせてもらった手前、これ以上の我儘は男の機嫌を損ねる。トイレに行った時にでも確認すればいいと携帯の電源を落とし、目的地に到着するまで部下が運転するよりも少々荒い揺れに身を任せることにした。

     十分ほどして着いた店は、まだ開店前だった。普段なら飯を食って時間を潰すところだが、ココの口振りから昼は遅かったのが伺える。オレにしても腹にモノを入れたら程よく飼った緊張が霧散しそうだったから、これで良かった。まだ店前に黒服の姿がないクラブのドアを開き、足を踏みいれる。オーナーに話は既に通してあるためレジで話していた二人の黒服はオレの顔を見るなり深々と頭を下げた。席への案内を断り、指定席となりつつある入り口から隠れる奥の席に幼馴染と着いた。遅れて自分がキープしてあるボトルとグラス、氷が入ったアイスペールの載ったトレーを持った黒服が現れ席の準備を始めた。一通り終えると、ある女の源氏名を口にしてから連絡を入れたけどお時間が掛かるそうでと申し訳なさそうに詫びるのに首を緩やかに振い、知ってると返した。来るまで待つと告げれば、かしこまりましたと添えてから下がった。
    「てっきり、お気に入りが出迎えてくれると思ってた」
    「念入りに粧し込んでるんだ。女抜きで二人きりなのも乙だろ?」
    「そいつは最高のご褒美だ」
     酒の用意を自分でしないといけないのが玉に瑕だが。二つグラスに氷を落とし、ブランデーを注ぐ。淵と淵を合わせて涼しい音色を奏でて乾杯すると一杯目は一息に飲み干した。冷たいのに胃に入れた瞬間、燃える熱さで覆われるのが最高だ。
    「そういや、なんでメリーって呼んでんだ?」
    「ああ」
     二杯目のブランデーを注ぎ乍ら何の気なしに放たれた言葉に軽く相槌を打つ。ココが口にしたのは待っている女の源氏名ではなく、オレがつけたあだ名だった。互いに互いの女は把握していた。隠し立てする疚しさなんてのは微塵も無かったし、黙っていて知らず穴兄弟になっている方が個人的には気まずい思いをする。ココは笑いの種にしそうだが。だから、遊ぶ女の情報は予め教えている。名前、年齢、職業といったものから聞かれれば、知っている範囲で質問には答えた。
    「似てるだろ」
    「あのなぁ……分かんねぇから聞いてんのに、更に謎を増やすなよ」
     普通に答えてるつもりだが、どうやら幼馴染には通じないらしかった。長年一緒に居るのに、単純な言葉での意思疎通が失敗するのはオレ達くらいだろう、と端的な発言を噛み砕いてもう一度声にする。
    「アイツ、羊みたいだろ」
    「言われてみれば、って程度だな。意外と安直な理由だ」
    「乾だからイヌピーってのと変わんねぇだろ」
    「九井だからココっていうのもな」
     女との出会いは一年半ほど前に遡る。赤坂や銀座など接待で使う店は飲みに行っても逆に気疲れして、ココが居ない時は職場からも近い恵比寿で飲むようになった。客を楽しませようと会話する女はオレからすると煩わしい。話しかけられたくないならバーに行けと言われそうだが、一人で居ると声を掛けられる確率が高く一々断るのが面倒だ。その点、クラブで話しかけられるとしたら得意先の連中に会った時くらいだ。大体のクライアントは定番の贔屓クラブがあり深夜の恵比寿で鉢合わせしたことはまだなく、格好の穴場と言えた。どんな女でも、酒を自分で作り好き勝手飲ませてくれたらそれで良かった。静かにしてろという簡単な注文はクラブでは意外にも難題に等しい。接客業において置物であるのは一番最初に注意されるものだからだ。火傷痣がある険しい顔の男を前にコミュニケーションを計ろうと朗らかな笑みを浮かべ話す女を、挨拶以外は静かにしてくれと切って捨てた。めげずに何とか取り繕おうとすれば、他のキャストにチェンジした。中には聞き上手の女も居たろう。だが、独特の空気が漂う沈黙はそういう女すらも理由を付けて席から遠ざけた。誰も付きたがらない席に最後に生贄として出された一匹の雌羊、それがメリーだった。
     物怖じしなかったのと接客業の異端児と言っても差し支えないほどの置物ぶりに足を運ぶ機会が増え始めた。専属指名にして何度目かの時に、気紛れに酒を作らせてみた。あまりの手際の悪さに、働いてどれくらいか聞けば五年目と返ってくるのに眩暈を覚えた。よくクビにならねぇなと零すと、カミサマがいたからかなと答えるのにコイツは頭の中が花畑で出来てるんだと呆れた。更に回数を重ねると、雌羊の話にはカミサマという単語が出てくるのに気付いた。ヤベェ宗教にハマんなよと言えば、大丈夫カミサマが見張ってるからと十八番の台詞を吐いた。
     その夜はこのメルヘンが巣食った頭に現実を教えた方が良いと思って、少しばかし脅しをかけてやった。アフターでメシを食ったあと、酔った振りをしてホテルに連れ込んだ。ベッドに押し倒し、覆いかぶされば見て取れるほど肩を震わせた。その反応に胸を透く気持ちだった。神なんてこの世の何処にも居ないと証明するべく、アルコールに侵された息と共に下衆な音を柔らかな肌に垂らした。
    「ケダモノから神様は助けてくれないのか?」
     雌の羊は言った。カミサマは留守だから仕方がないね、と。そこでオレは初めてこの女は少女趣味ではなく、『カミサマ』という表現を用いることで幸せも不幸せも自分の力では手に入れられないと納得させているのだと理解した。人間では抗えない力なんだからと、諦める口実を得ていたのだ。汚く淀んだ世界で生きる自分と真逆の存在は……
     カランカランと溶けて形を変える氷がグラスにぶつかる音に散漫としていた意識が戻ってくる。天井のシャンデリアの照明に彩られた店内、光が少し届かない店の奥。仄かな明りと薄暗いコントラストを刻む端正な顔の男と座っている現実に、奇妙な安堵を覚える。
    「人の好みにケチつける気はないが、危険だぜ」
    「そんなに恵比寿に来たくなかったのか」
    「ああいうタイプは気を抜いちまう。居るだけでリラックスすんだ」
     手首を緩やかに回すたびに、琥珀色の海で泳ぐ氷が硝子に座礁する音が鼓膜を揺らす。
    「お世辞にも頭が良くはない。密通者になれば直ぐに」
    「最初は沈黙が心地いい、でも人ってのは酒が入るとあることないこと話したくなる」
     優しい声音だが、言葉尻を切る力強さがある。冗談じゃないと分かり、生もうとした声をグラスを傾け酒で殺す。
    「オレらの業界も大きな括りで言えば自然界だ。そこで警戒心を忘れ無防備で居るのは危険だよ」
     気を抜けば捕食され骨の髄まで啜られる。捕食者の糧になるのが本人の幸せなら、理解しがたいがとやかく言う義理はない。だけど、違うのなら過酷な世界を生きる力を付けるべきだ。わかってる、だいじょうぶだ。代わり映えしない常套句を口にする前に、カツカツと蹄を鳴らす盲目の羊が、目尻に涙を浮かべながらも瞳に燃え上がる炎を宿していた。

    ■□
     幼馴染はどんな席だろうと食事の量と酒量をセーブするが、時々その例に漏れる場合がある。接待を重要視する時代の古狸達の押しの強さに根負けした時は酩酊状態で、自分の部屋に寄ることがある。タクシーに乗り行き先を告げられる数少ない候補だからだ。飼っている猫たちは二年周期で変わるため、間違って昔の猫の部屋に行けば恥を掻く。その点、オレの部屋は住んで五年になるし何かない限りは引っ越す気もないので間違えようもない。ピッチャーに水を注ぎグラスと共に出せば、注ぐのも億劫だったのが、水差しから直接水を飲むのに相当酔ってるなと、口の端から零れた水が襟の色を濃くするのに頭が軽く痛んだ。
    「イヌピー、エビスなんだって?」
    「オレはビールは黒ラベル派だ」
    「そっちじゃなくて、新しいオンナ」
     恵比寿に飲みに行ってる話を部下から聞いたんだろう。幼馴染の方の案件が立て込んでて話す機会が無かったのを思い出す。これだけ酔ってると、起きた時に覚えてるかは不明だが一応話しておく。
    「ちょっと抜けたところある女だ」
    「鈍感か天然か」
    「どっちもじゃねぇかな」
    「セックスの方は」
    「それなりに」
     歳相応にしていると言いたいところだが、オレの場合は目の前の男に抱かれるため抱く側の時は性的不能の確認も兼ねている感じだ。そういう意味では多くは無いし淡白だとも言える。
    「気になるなら会ってみるか?」
    「いや、いいよ。知ってるし」
    「会ったのに聞くなんて、取り調べゴッコがしたいのか」
    「直接は会ってねぇって。債務者なんだよ、ウチの」
     苦笑を漏らしながら水を煽る男の言葉が咀嚼出来なかった。非合法の金利の闇金から借り入れしてる。少し前なら頭に花を咲かせた女だ、騙されて借用書にサインしたんだと次に店に行くときに、その話をしてアイツは婚姻届けと間違えたんだけど、カミサマが留守だったから教えてもらえなかったんだよと言うのにバカだなオマエって返したろう。でも、あの女は現実を認識できていて、賢い。賢いと傷つくから自分を守る術が必要だった。
    「返済滞ってんなら話しつけるぞ」
    「逆だ、逆」
     わざわざ債務者であるのを明かすのは返済の催促をしてくれということではないのか、意味を図りかね眉を顰めると酔いに毒された男はソファに背を預けて饒舌に語った。
    「期日は必ず守るし、利子含めた金額をきちんと用意する。それでいて定期的に借り入れする。しかも、飛ぶ心配がない。最高の常連客だ」
    「闇金で借りるような奴にそんな客居るかよ」
    「ひとつ懸念を上げるなら借り入れの増額から、風俗に落ちた時どうなるかだ」
     自分の会社を持つまでは取り立てもやっていたから分かるが、羊は薬をやってない。買い物依存症の線もないと見ていい。月に二度はアフターでメシを食いに行くが、衣服やアクセサリー類は夜食の女とは思えない地味なものでブランド品ではない。新卒の会社員でも、もう少し着飾っているだろう。残るはギャンブルかホスト狂いといったところだ。
    「ホストか」
    「珍しいなオマエがそんな他人を気にするなんて」
    「自分の席に着かせる上で、必要なら身辺も調査する」
     完全には納得してない様子だったが、ココは話を続けた。
    「ホストより質が悪い。切ろうにも切れる縁じゃない」
    「債務者はアイツだが、本当に借りてるのは恋人か」
    「それだったら救いはある、メリーが惚れてるのは……この話は今は関係ねぇな。自分の身を削ってでも尽くすのは『弟』だよ」
    「で、この話をオレにした意図は?」
    「盲目の羊は金の卵を産むガチョウって教訓」
    「上客だから手を出すなってことか」
    「恋愛もセックスも自由。ただ、飛ばすなよ?」
     なるほど。オレ達を生かす糧となり最後の血の一滴まで絞り尽くす。女は弟のため肉を啄まれながらカミサマを理由に黄金の滑車を回し続ける。オレとココの血肉はそういったもので出来ているんだ。

    ■□
     酩酊と泥酔の狭間に居た男はあの夜以降、その話題には触れなかった。オレも動かなかったから黄金の歯車は常と変わらず動き続けている、そう錯覚したのだろう。高い蹄を震わせながら目の前に立った女は震える唇で、どうしてと零す。
    「おいおい、客を待たせておいていきなりなんだ」
     女の態度に面食らったココは軽快な言葉を紡ぎながらも、こめかみに薄っすら血管を浮かび上がらせていた。既に女の頭はカミサマという理由では納得できない、絶望と怒りと悲しみに支配されている。些細な一言が引き金となって決壊するだろう。
    「これでオマエも肩の荷が下りたろ」
     漏らした音に静寂が落ち、数秒の間を置いて怒りの矛先を向けていた九井一への視線、無礼な態度を咎める男の視線の照準が自分に定まるのを確認しトドメを刺す。
    「神様が留守だったんだ、仕方ない。弟は諦めろ」
     瞬間、女はテーブルの上の酒を奪ってオレの顔目掛けてぶちまけた。轟々と燃える怒りは瞳から涙となって溢れ出す。わたし、お金きちんと返してるでしょ、なんれそんなヒドイことするの、悪魔、人殺し、かえしてよ今すぐ、あのこを、はやくつれてきて。半狂乱になった女の舌は感情に呑まれ呂律が怪しい。
    「掃除会社やってるんでね、ゴミを片すのが仕事だ」
    「オレの領分で何勝手なことしてんだ、場所はどこだ」
    「忘れたのか、時間外労働は禁止だ」
     冗談を言う雰囲気ではないのを承知の上で口にするのは、既に事の終わりを示してる。それが分からない九井一じゃなかった、盛大な舌打ちをしたあと出るぞと手首を掴まれ引き摺るように歩き始めた。待ちなさいよと叫び、手当たり次第に物を投げる女が心に負った傷に比べれば背中にあたる硬質な感触も痛みと呼べないほど軽かった。騒ぎを聞きつけた黒服が取り押さえたのだろう、細やかな抵抗も奪われ割れんばかりの泣き声が耳を刺した。扉の外に出ればその声すらも聞こえなくなるから、引き摺られながら少しでも脳に刻めるよう耳を澄ました。
     ああ、そうだ。ココにひとつだけ言い忘れた。メリーというあだ名は、本当は羊に似てるからじゃなくカワイイ羊を守り続ける哀れな女という意味でつけたんだ。

    □■
     タクシーに乗るなり、ミラー越しに運転手の顔が顰められるのに苦笑が漏れる。深夜でもないのに酔っ払いの相手をするのも、車内に匂いが籠るのも嫌だろう。前者は要らぬ心配と告げてやりたいところだが、ココが行き先を告げるのと同時にクリーニング代にと先に一万円札を三枚出すのに、ありがとうございますと声を明るくした。会社でクリーニングするから運転手へのチップだ。ほんの少し前まで芳醇な香りで鼻を楽しませていた上等な酒もシャツに吸われれば、体臭と混ざり悪臭へと変わっていく、なんとも遣る瀬無いが隣の男が纏う香水を掻き消すには良い塩梅だった。自宅に着くまで会話の代わりにその悪臭を嗅ぎ続けた。

     部屋に戻るまでココは無言を貫いた。合鍵で扉を開けて中に入り、扉が閉じるのとほぼ同じくして体を乱暴に押し付けられた。衝撃に息が詰まり咳き込んでいると、浴びせられた酒よりも冷たい声が降り注いだ。
    「出し抜けて満足か」
     九井一を貶める気が一切なくとも、損失を被る結果となったのは事実だ。心で通じ合えなくても言葉で補おうとし、それでも足りない部分を肉体で埋めて生きてきた。二人で一つの生き物であるかのように。信頼を裏切る真似をしたのは間違いなく、どんな判断が下されるにせよ、オレに出来るのはただ受け入れるだけだ。
    「オレが言えるのは損失の責任を取るだけだ」
    「金なら幾らでも生んでやる。債務者が一人飛んで傾く温い商売してねぇよ、こっちは」
     何と答えるべきか迷った。これは自分の悪い癖だ、九井一が怒ると覚悟していてもいざその場になると目を見れなくなる。怒り狂った女の瞳の炎よりも尚熱く燃える激情は呼吸を奪い肺を焼き尽くす業火だ。遠い日にこの顔を焼いた火よりも熱く恐ろしい。不意に視線が逸れるのをココは許さず骨が軋む力で顎を掴むと、目から灼熱を注がれる。聞きたいのは謝罪でも沈黙でもない。
    「一番大事なモノを奪ってやりたかった」
    「言うに事欠いて、嫉妬したって? ふざけんなよ」
    「ココには……分からないかもな」
    「御託はいい。テメェが何しようと文句言わなかったけどな、今後もこんな甘ったれたこと続ける気なら」
     筋の通らない屁理屈、悪足掻きに聞こえるだろう。互いの心は霧の中にあって場所も分からず触れられやしないのだから、当然だ。悲しさや寂しさ、悔しさや歯痒さ、どの感情も覚えるのは傲慢だ。そういう風に感じていいのは恋人や家族、唯一無二の友人だけだ。ただ、言葉の最後の一片を九井一が落とすより早く、オレは傷をつける。手酷い傷を後悔する前に掠り傷で収めるんだ。
    「弟なんて、この世で一番ロクでもない生き物だ。柴八戒も乾青宗も」
     黒い夜の帳が落ちて燃える炎を隠していく。ココはオレをこの世界で生きていくには甘いと言う。けれど、この世界で一番オレに優しくて甘いのは他の誰でもないココだった。ぼろぼろになって足が棒になっても背負って歩き続ける。肩の荷が下りたろと自分から下りなくてはいけないのに、オマエの隣は温かくて心地が良いから手離せない。
    「……海外に売ったんだろ? いくらになった」
    「若い労働力とマグロ漁船だけど、破格のお値段だ」
     人差し指を立てて答えれば、赤字だなと深い溜息を漏らすのに金稼ぐのは得意だと口角を上げれば、経営者の目をした男がプランはと聞き返す。
    「取り立ての経験がある、酒に合う料理が作れる」
    「副業でホストするつもりか」
    「契約期間は決めてくれて構わない」
     置物の自分に接客業は無理だ。気付きづらい冗談を織り交ぜて舌を鳴らせば、不可解な表情を貼り付けて意味を尋ねるはずの男は微かに沈黙を落として笑った。
    「セックスも加えてくれ」
    「あぁ、わかったって……本気か」
    「勿論。オレが生きるのに飽きるまで傍に居てくれよ」
     噛み合わない会話が噛み合ってしまった時、人はこんな顔をするのか。黒い瞳に溺れたオレの顔は眉を顰めつつも口が緩んでいた。くすぐったそうに動く口は、草原でのんびり草を食う羊に似ていた。
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