クロニクルリヒがアネットちゃんと友だちになる話 その後ろ姿が見えた時、人違いかとアネットは思った。
だが、あの体格や低い声は命の恩人に違いない。出会いをあれっきりにしたくなくて、誘っては見たものの一言、二言喋るだけで彼はフッと立ち去ってしまうのだ。
ベルモンド家が祓魔の一族として知られているが、彼らがどうやって生活しているのかは謎に包まれている。
人の姿をしていても、人並はずれた力や精神力に畏れている。彼らは魔物を狩るのを生業にしているが、それがいつ人に向くのか怯えているのだ。
アネットも恐れてはいたが、律儀に決まった時間に訪れるベルモンドの一族、リヒターに興味を持った。張り詰めた糸のような余裕のなさがあり、その顔は端正でありながら厳しい。
自分とそう変わらない年齢と聞いてアネットは驚いたものだった。
こうして気にかけてしまうのは、歳が近い友だちとして心配なのだと理由付けてアネットは人混みの中に消えていくリヒターを追う。早歩きでようやく薄汚れている外套に触れた。
「ま、まって、リヒターっ!」
不意に引っ張られて、フードが脱げる。アネットの身長では見上げるしかない男が怪訝そうな表情をして振り返った。
「君は、アネットだったか。俺に何か用だろうか?」
威圧するような声にアネットは一瞬固まる。何もしていなくてもこの男は怖い。何を考えているのか分からない青い瞳が、気だるけにアネットを見た。
「依頼があればベルモンド家へ、何もないなら俺は買い物に戻る」
「その、この前のお礼も含めて何かしたくて」
そう聞かされてリヒターは隠さずため息をつく。得体のしれない一族であっても、金銭目的でベルモンド家に取り入る輩は多い。
彼女も父親や母親からそう頼まれたのだろうとリヒターは察した。
「では、場所を変えよう。ここでは通行人の邪魔になる」
そこで案内されたのは小洒落たカフェでもなんでもなく、噴水が綺麗な広場だった。芝生に寝転がる人、少し離れた場所の川で水切りをして遊ぶ子どもたち。
昼下がりとしては当たり前の光景だ。
「お礼って何をしてくれるんだ」
公園のベンチで真ん中に一人分を空け座る二人。リヒターは脚を楽にさせつつも両腕を組んでいる。
アネットは端のほうに座りながらも両手を太腿の上に重ねていた。
「買い物をするなら、何か手伝えるかと思うの。値段交渉に、旬なものを選んだりするのは得意よ」
「そこまで食にこだわりがあるわけではない」
リヒターにとって肉が食べやすいから選んでいるわけで、彩り豊かにしよう、偏りなく食べようという気はない。
食事は生きるのに必要だからしているだけで、それ以上の意味はない。
「……そう」
明らかに落ち込んだトーンでアネットは項垂れた。見た目は美しい女性だとリヒターは思う。魔物が襲うに値する美味しそうな魂をしているのだろう。
彼らが無垢な者を嬲って食い殺すのを幾度と見てきた身だからこそ、アネットがそんな目に遭わなくてよかったと思う。
「どうして、君は俺に関わろうとするんだ?」
「口約束なのに、時々私の様子を見てきてくれるあなたが気になったの」
最初にアネットを助けたときに、リヒターは守るとアネットに約束したのだ。吸血鬼ハンターとして仕事の範疇だと思ったからだった。
「嘘をつく人は多いわ。あなたもそうだと思ったのに、律儀に来てくれるでしょう?」
「約束は違えない。俺はそういったことが大嫌いなんだ」
かつて約束の果たせなかった者として、リヒターは自分を戒めている。果たせない約束は嘘になってしまう。
守ってあげてねと微笑んだ母の顔が今も心に残っている。思い返すと己の不甲斐なさや、無力さに打ちのめされてしまう。
「ふふ、変わっているってよく言われない?」
「ベルモンド家に属していれば聞き飽きるほどには」
輪の中に入っていけないそれなんだとリヒターは悟っている。こちらは何をする気はないのに、勝手に恐れられて、勝手に頼られてうんざりする。
魔物を倒し続けて、人々の平和を守るだけでいい。仕事を淡々と処理するだけでリヒターは満足できる。
「その、悪い意味ではなくて、自分さえ得すればいいって人が多いでしょう。なのに、あなたは何の利点もないのに私を気にかけてくれたのが嬉しかった」
「俺は男じゃないか。下心があるとは思わないのか」
まさかとアネットは微笑んだ。幼さもあるものの美貌を惜しげなくリヒターに向けている。
「私と話をしていて、そんなに面倒くさそうにしているあなたが利用してやろうなんて思っていないでしょう」
「直接言ってくる女性は初めてだ」
肩を竦めるリヒター。自分が他人と接するのがさほど得意ではないというのを知っているのだろうか。
祖父ならともかく、馴れ馴れしく話しかけてきたり安易な同情をしてくる者にリヒターは疲労する。仕事なら仕事で関係が終わってほしい。
子どもの頃はもう少し他人と関わろうとしていた気がするが、今はもう聖鞭を受け継いだ吸血鬼ハンターだ。わざわざ弱みを見せる相手を無理に作らなくてもいい。
「同性でも同じようなことを言うつもりでしょう?」
「まあ、そうだな。これで話は終わり、俺は買い物に戻る」
じゃあなと立ち上がって去ろうとしたリヒターの手をアネットは慌てて掴んだが、反射的にリヒターはアネットの手を払った。
しばらく沈黙しあっていたが、リヒターは頭を下げる。
「手を払って悪かった」
「いえ、私も急に触れてしまってごめんなさい」
じんわりと手に汗が滲むのをリヒターは感じる。どう考えても自分が悪い。頭を上げると、いつかの日のように怯えた瞳で拒まれるのを想像し額に手をやる。
呪われるから近寄るなと朧げにしか覚えていなくとも、今も気にしていることだ。ベルモンドに生まれたのを恨んだことはない。
人が苦手なのもこういう性分だからだ。アネットに対し、八つ当たりのように接してしまうのはなんとも子どもっぽいじゃないかとリヒターは眉間にシワを寄せた。
「君は謝らなくていい。お詫びにカフェで何か奢らせてくれ」
「それならこの広場の近くにお店があるわ」
「度々、ここには立ち寄るがそんな場所があったのか」
ちょっと分かりづらいところにあるのとアネットは気にしていない様子で語った。二人で歩きながら手は傷まないのか、歩く速さは適切だろうかとリヒターはあの特徴的な眉を下げながらアネットの様子を窺っていた。
魔物退治するよりも、他人を気遣う方がよほど神経を擦り減らすなとリヒター。
「おや、アネットちゃん。今日は彼氏と一緒かい?」
マスターにしては屈強な男性が出迎えてくれた。
昼間はカフェ、夜間はバーを経営しているそこは客もまばらに居る。
「彼氏なんてとんでもない。私の恩人なの」
「そうなのか、比較的治安はいいんだがそれでも悪いやつはいるもんだからなあ」
どうぞどうぞと案内され、アネットはいつも利用している窓際のボックス席に座る。リヒターはこのマスターに見覚えがあった。
「一緒に仕事をしたことがあるな」
「あちらは副業です、リヒター・ベルモンド様」
アネットに聞こえないように小声で話し、マスターはリヒターに一礼する。吸血鬼ハンターとしてベルモンドに比肩する一族はほぼいない。
一般的なハンターが彼らに敬意を払うのは当然なことだった。組合を造り引退しても定期的に金額が支払われるようにしたり、怪我をした場合の治療費も何割かベルモンド家が負担してくれているのだ。
万が一ハンターが亡くなった場合も、遺族に対して見舞金を支払ってくれる。こうした手厚いサポートもあり、数百年前には忌み嫌われる一族だったベルモンドも今ではいい意味で名族として知られている。
「マスターと知り合いだったの?」
「いいや、人違いだったみたいだ」
深くは語るまいとリヒターはアネットの向かいに座る。男女でこうした場を利用するのに慣れていないリヒターはアネットを頼った。
「小難しい話をする人もいるけど、基本的に自分の時間を大切にしたい人が利用するの」
「そう、なのか? 家でも過ごせると思うのだが」
くすくすとアネットが笑う。リヒターは困惑したままアネットを見つめていた。
「一人でいたいのに、誰かといたいの。面白いわよね」
「君もそうして過ごしたりするのか?」
「家のことで悩んだときや、気分転換に利用することが多いかしら」
父が不正を言及した結果、所属していた楽団を辞めさせられオルジバの街でやり直したことをアネットは軽くリヒターに説明した。
「今は地方領主の娘さんに声楽やクラヴィコード―ピアノに似た練習用楽器として重宝された―を教えて、時々コンサートにも呼ばれているの」
「朽ちた教会で歌っていたのはそういうことか」
非常に美しい歌声だった。リヒターは音楽的な知識はないため、それが何の曲かは分からないが悪魔も誘われるのも分かる。
間一髪のところでアネットを助け、今こうしてカフェで呑気にお茶を飲んでいるわけだ。
「ベルモンド家でもぜひともと言いたいところだけど、そういう話はリヒターも好きではないでしょうし」
「い、いや、確かに人の集まりは好きではないが、君の歌が聞けるなら今度の懇親会に依頼をしたいものだ」
毎回毎回、酒に酔って大暴れし、血の気が多い親族を思うと危険かとリヒターは渋い表情になる。個人的にアネットを呼びつけるのも可能だが、祖父がどんな顔をするのか想像に難くない。
「まず、予定の確認をしないといけないのと父から許しが得られなければ行けないわ」
「それもそうか、本当に思い出したときでいいから話をしてみてくれ」
他人と深く関わってこなかったリヒターにとって、どうすれば妙齢のアネットに対して失礼にならないか頭を抱えそうになる。
ただの他人であるのに、アネットを傷つけたくないとそればかり考えてしまう。友だち付き合いが乏しい己をリヒターは恨んだ。
「別に、なんでもいい、好きにしろって態度なのに、私の歌は好きなのね」
「歌だけじゃない。ただ、君はその同年代の、とも……ち、知人だろう?」
恥ずかしい、とても恥ずかしい。格上の吸血鬼と死闘を繰り広げた時だってこんなに緊張したことはない。マスターから運ばれてきたハーブティーを飲む手が震えてしまう。
「私は知人とお茶はしないの。仕事上の付き合いならするけどね」
「そうだな、仕事ならそうか」
「でも今はプライベート、これはあなたも私もそうでしょう? リヒター」
同意を求められてリヒターはごくりと喉を鳴らせてしまった。
「プライベートでお付き合いがあるのって、友だちなのよ」
「いいのか? 俺は君に失礼なことをしたし、態度だってよくなかった」
「本当に失礼な人は謝罪しないわ」
あなたはその点、謝ってくれたしこうして私に付き合ってくれているとアネットに言われリヒターは頬が緩むのを感じる。
ものすごく変な表情になっているのだろうという自覚があった。マスターを背にしてアネットと会話しているため見られていないのが幸いだろうか。
「リヒターったら笑顔が下手ね」
「最後に笑ったのがいつだったか覚えていないくらいだから許してくれ」
「あのね、母が不安がっていたの。ベルモンド家は呪われているから、関わってはいけないって――私、あなたに会えてよかった」
耐性のないリヒターにとって耐え難い輝きに見えた。夜通し不浄な者を滅し、朝陽を見たときのような輝かしさがアネットにある。
こんなことで好きになってしまうなど、どうかしている。魅了の魔法だって効きにくい身であるのに好きで頭がいっぱいになってしまう。
「俺もアネットに会えてよかったよ」
なるべく表情に出さないようにぐっと我慢する。自分が好きでもアネットはそうじゃないかもしれない。助けてくれた恩人に親切に接しているだけで、そういう男を見せれば気色悪いと離れてしまうだろう。
「大丈夫? 顔色が悪いわ」
「俺ばかりが嬉しくて、それを表に出すのが憚られるんだ」
「ねえ、リヒター、買い物は一人でするって話だったけど私も一緒にしてもいいかしら」
ほんの一時間以上前の自分なら断っていたが、リヒターは否定する理由もなく頷いた。友だちなら一緒に買物してもおかしなことはない。
そう、友だちならば!
「ああ、その前にアネット、手を見せてくれないか?」
アネットは不思議そうに躊躇いもなく手を見せてくれた。白く美しい手はじんわりと温かく、内出血もしていないようだ。
「そんなおっかなびっくり触らなくても大丈夫よ」
「魔物の骨も簡単に砕ける力があるんだ。君には慎重すぎるくらいでちょうどいい」
無意識だったがさすがにそこまで力は込めていなかったかとリヒターは安堵した。
「女性に跡が残る傷をつけなくてよかった」
「私が、というよりあなたが怖いのね」
うん? とリヒターは首を傾げる。怖がられるのは慣れているが、自分が怖がっているとはどういうことだろう。
「人を労る気持ちがある限り、リヒターは私を傷つけない。あなただって人間だもの」
「そう、言ってくれる人も初めてだな」
「リヒターが心配しなくても、あなたはうまくやっていると思うわ。ずっと気にかけてくれたじゃない」
あまり嬉しい言葉をかけないでほしいとリヒターは胸を抑える。両親を亡くしてから渦巻いている喪失感にアネットが嵌っていくのが恐ろしい。
彼女を求めてしまったら、何がなんでも欲しがってしまうだろう。そんな汚い欲に彼女を汚したくない。
惚れた女を大切にできないのは、ベルモンド家としても、男としても最低だ。
「そうだといいな」
「まだ、私たち何も知らないでしょう? 友だちならゆっくり知っていきましょう」
好きなこと、嫌いなこと。同じものを、同じ時間を過ごすにはまだ知らないことが多すぎる。誰かとの過ごし方を忘れてしまったリヒターに手を差し伸ばしてくれたのはアネットだ。
「色々、教えてくれるかアネット」
「ええ、あなたの話も気になるの」
いつか、ちゃんと心が満たされたらリヒターはアネットに想いを告げたいと心中で誓った。
今は柔らかな日差しに照らされる彼女を知りたい。吸血鬼ハンターとしてではなく、リヒターとして守らせてほしい。
ふふっと笑い合う二人。時が止まってしまえばいいのにと願いたくなるほどの穏やかさがそこにはあった。