オペラ座のリヴァハン ハンジはパリ・オペラ座のバレエダンサーだ。
生まれは北欧だが幼い頃に母を亡くし、ヴァイオリニストの父とともに各国を転々と演奏旅行しながらこの地にやってきた。だがその父も亡くなり異国の地で一人になってしまった。バレエが得意だった彼女は一人で生きるためにオペラ座バレエ学校の寮生となり、卒業後もそのまま座付きで働いている。
踊ってみれば高い身体能力を見せるハンジだが、いかんせんバレエでパートナーと踊るには背が伸びすぎたのが悩みだ。それに、実は彼女にはバレエよりも好きなものがある。
ハンジの大好きなもの、それは歌だった。
オペラの舞台ではコーラスガールもやっているのだが、いつかステージの真ん中で歌いたくて、毎晩欠かさず練習をしている。そのことはバレエ教師で振り付け師のエルヴィンやバレリーナ仲間である親友ナナバもよく知っており、いつも応援してくれていた。稽古の休憩時間にも仲間を前に歌って聞かせることが多い。
「ハンジの歌声、大好き。いつかきっとステージの中央に立てる日が来るよ!」
「ありがとうナナバ! でも、そんな日いつ来るかなあ」
現実に今のオペラ座には確固たるプリマドンナの地位を築いたソプラノ歌手がいるので、こんな若手の、しかも本格的なレッスンを受けてない役者にその順番が回ってくることなど普通なら考えられない。
それでもハンジは夢を諦められず、毎晩、オペラ座地下の目立たない礼拝室に忍び込み、一人で歌の練習を続け得るのだった。
「ラララ~~~♪」
この部屋ならば大丈夫。真夜中だって誰にも遠慮せずに思いっきり歌える。
暗い部屋の中で、ハンジは次のオペラ公演で主人公が歌うメインテーマを気持ち良く歌い上げた。
するとどこからか、妙に艶のあるテノールの男性の声が響いてくる・・・
『ブラヴァ(悪くない)、ブラヴァ(悪くないぞ)、ブラヴィッシマ(クソ最高だ)…』
「・・・先生!今夜も来てくれたんだね!」
『ああ、待たせたな』
不思議なことに、毎晩ここで歌っていると、姿は見えないがなぜか妙に色っぽい天の声が聞こえてきて、ハンジの歌唱をこと細かに指導してくれるのだ。
その指導のおかげでハンジの歌は日に日に上達している。時には腹式呼吸のために「毎日腹筋100回してみろ」などとも言われ結構な体育会系なのだが、熱心なハンジはその言葉を信じて必死についてきたのだ。
『上出来だハンジ。もっと聞かせてくれ』
「うん、もちろんだよ!でも、できれば先生の目の前で歌いたいな。どうして姿を見せてくれないの?」
『すまない、それだけはできないんだ。俺は「音楽の天使」だからな。だがちゃんと聞いているから歌って欲しい』
「…そっか、やっぱりあなたは天使なんだね。残念だけど、空に届くように心を込めて歌うから聞いていて!」
音楽家だった父もハンジの歌をよく褒めてくれて、亡くなる直前には「天国からハンジへ音楽の天使を送ってあげるからね」と言ってくれた。昔、ナナバにそのことを打ち明け、地下で歌うとその天使が本当に現れるのだと伝えた時には「気持ちは分かるけど…」と逆に気の毒がられて慰められてしまったのだが、ハンジ自身はこの歌の「先生」こそ、父が天から遣わしてくれた本物の天使と信じて疑わない。
何と言っても、「先生」はこんなに色っぽい、素敵な声をなさっているのだもの!
『やるじゃねえかハンジ、今の歌もなかなかだった。さすが俺の弟子だな』
やたらとセクシーな天使の声は耳に心地よいが、しかしどこから聞こえてくるのかわからないので、ハンジはただ天井を見上げて答えるしかない。
「本当?ありがとう先生!今度こそ歌の出番をもらえるかなあ?先生なら私に何の役ができそうだと思う?」
『そうだな、いよいよ主役はどうだ?』
「へ?それはありえないでしょ?」
『いや、俺にかかったらオペラ座の配役などどうとでもしてやれる』
なんと翌朝、プリマドンナから急に出演を中止したいという知らせが入り、ピクシス支配人はじめ経営陣が大騒動になっていた。何でも、彼女のもとに「怪人」から「出演を辞退しろ」という脅迫状が届いたらしいのだ。
オペラ座の怪人。それは数年前から届く脅迫状の差出人の名前。オペラ座に月2万フランの現金と14番ボックス席の確保、そしてなぜかオペラ公演の演出に対する要求を迫り、もしそれが全て叶えられなければ、残酷な嫌がらせをしてくるという顔の見えない犯罪者なのだ!
これまでも、コーラスガールを前面に出す配置をしろだの、バレリーナの衣装の襟ぐりをもっと開けろだのスカートをもっと短くしろだのといった無理難題を押しつけてきた。もし言うことを聞かなかった場合には、実際に大道具が倒れてきたり、舞台の仕掛けが壊されたりと、すんでのところで大事故になるような事件が起こっていて、警察にも相談したが尻尾が掴めず、脅迫に従わざるを得ないということが続いている。
「悔しいのう。夜の開演までに代役など見つかるわけがない」
中止の決断に迫られた支配人ピクシスは腕を組むばかりだったが、そこで振り付け師エルヴィンが声をかけた。
「待ってください!代役ならここにいます。ハンジ、ちょっと来てくれ。試しに歌ってもらえないだろうか」
「…は、はい! ラララ~♪」
普段はボーイッシュな声で元気に話すハンジなのだが、訓練の結果なのか、何とも可愛らしい澄んだソプラノの声で歌い上げる。
経営陣はその歌声を聞き、ハンジが代役になることに誰も異を唱えなかった。誰もがプリマドンナのマンネリ歌唱とわがままぶりには手を焼いていたので、ここらで痛い目に合わせたほうがいと思っていた矢先のこと、つまり渡りに舟のタイミングでもあった。
「おお、今夜の主役はハンジに決めようではないか。新しいスターの誕生だ」
髪をセットし化粧をし、薔薇のモチーフで飾られた白いドレスを着たハンジは、少々やせ気味な感はあるが、それはそれは美しいプリマドンナに変身した。
若く才能溢れる新人歌手の鮮烈なデビュー。その夜、ハンジの歌声は満員の観客を魅了し、客席から盛大な拍手喝采を浴びた。
その満員の観客の中で、ハンジの歌声と美しさに感動し、ひときわ大きな拍手を送っていた男がいた。劇場の新しいパトロンの一人として招かれた、バーナー子爵モブリットである。
公演後、モブリットは真っ先にハンジの楽屋のドアを叩いた。
ハンジのほうはまだ衣装のドレスを着たままで急な来客に驚いたが、おそるおそる扉を開けてみると、そこにはなんだか懐かしさを感じさせる、育ちの良さそうな風貌の青年が立っていた。
「ハンジさん、素晴らしかった!何て言ったらいいか、あなたって人は最高だ」
「あの、どなたですか?」
「僕ですよ、モブリットです!憶えていませんか?」
「モブリット?…えーっと」
「昔、あなたのお父さんと僕と一緒に遊んだでしょう?」
「ああ、絵の得意なモブリットかい?お久しぶり、随分大きくなったね!」
モブリットは、一時ハンジが住んでいた土地で、家族ぐるみで親しくしていた幼なじみだった。モブリット自身は姉のように慕っていたハンジに会いたくてずっと探していたのだが、彼女が引っ越し先で父親も亡くしてバレエ学校に入ったことで行方を追うことができなくなっていたのだ。ハンジより年下で小さかったモブリットも今では立派な青年貴族となり、彼女を見下ろすくらい背が高くなった。
「こんなところで会えるなんてびっくりですよ。しかもバレリーナじゃないなくてオペラ歌手だなんて」
「うん、ほんとに今日のデビューは偶然なんだ。歌はずっと先生に習ってたんだけど」
「先生?」
「そうだよ!驚かないで。昔うちのお父さんが言ってたんだよ、『音楽の天使』を送ってくれるって」
「ああ、お父上は音楽家でしたから、あなたが音楽の道に行くのを望んでたのかもしれませんね」
「でしょ?そしたらね、このオペラ座に来たらいたんだよ、本当の『音楽の天使』が!姿は見えなくて声しか聞こえないんだけど、夜中に一人で歌っていると、いつもスパルタでコーチしてくれるんだ!」
「?」
「なかなか褒めてもらえなかったんだけど、最近『悪くない』って言って貰えるようになってね。そしたらなんと主役に抜擢されたんだよ!」
何のことだろう?モブリットは首を傾げた。まさか幼いころから理知的だったハンジがオカルトめいた何かを信じているとは思えないが…でも、もしかしたらそれは、一人ぼっちで寂しかったハンジの中で作り上げられた優しい幻なのかもしれない。そんなハンジが健気に思えて、モブリットは思わず彼女の細い体を抱きしめた。
「やだ、モブリットったら急に何するんだ!」
「ハンジさん、もう大丈夫ですよ、これからは僕がずっとそばにいます。小さいころ約束したじゃないですか」
「何か約束したっけ?」
「勘弁してくださいよ。僕のお嫁さんになるってアンタが言ったんでしょうが」
「あれ?そうだっけ?忘れちゃったなあ」
もちろんそんなのは他愛のない子どもの時の約束だが、照れてはにかむハンジを見られただけでも、モブリットは十分嬉しかった。
「とりあえず昔話でもしに食事に行きませんか?今日はデビューのお祝いだ。是非ご馳走させてください」
「でも、悪いけど今夜も歌のレッスンがあるんだ。サボったら先生に怒られちゃう」
「まだそんなこと言ってるんですか。裏に馬車を回すように言ってきますから、ちゃんと待っててくださいよ」
「ダメだよ、待ってモブリット…!」
モブリットはさっさと楽屋を出て行ってしまった。
すると、部屋に一人残されたハンジの耳に、どこからか例の声が聞こえてきた。
『ハンジ…ハンジよ…』
「先生!先生ったらずっとそこにいたの? 今日の私、見ていてくれた?どうだった?」
『もちろんだハンジ…スプレンディダ(クソお見事)、マニフィカ(クソすげえ)…』
「ありがとう先生!私、先生に褒めてもらえるのが一番嬉しいよ」
『そうだ、お前は俺が見込んだ通りの女だ。…だがお前、あの男と出かけて今夜のレッスンをサボる気じゃなかったろうな』
「そんなつもりないよ!私はちゃんとレッスンするつもりで…」
『言い訳なんぞ聞く気はない。随分デレてたじゃねえか。結婚の約束だと?俺はそんなの許した覚えはねえからな』
「違うよ、彼とはそんなんじゃない。誤解しないで先生!」
『チッ、うるせえな。大人しくそこで待ってろ』
ハンジが何もしていないのにフッと部屋の照明が消え、視界が真っ暗になった。しかし目が慣れると、ドレッサーの隣の、大きな姿見があったはずのところに明かりがぼんやりと見える。そこへ向かってそっとハンジは足を踏み出してみた。
(ここだけ明るい…どうして…?)
光に右手を伸ばすと、急に誰かにその手を取られた。引っ張られるように光の中へ導かれる。
(鏡にぶつかっちゃう!)
そこには姿見があるだけ。そう思ったはずなのにハンジは二歩、三歩と歩き出していた。黒装束の、仮面を着けた見知らぬ男と、鏡の中の世界へ。
【とりあえずここまで】