交流11-1 夜の気配を払う柔らかな陽射しが地平線を舐め、なだらかな丘陵を徐々に緑に染め上げていく。先日、一緒に町に繰り出した「姫」の集いで、唯一の男性型だった同族の核石に似た色の美しい金色の陽射しだ。ヒールの高いサンダルの踝を越え、素肌を擽る足元の草に滴る陽光を湛えた朝露は、白真珠のような清廉な煌めきを放っている。都市の外壁に自生する野茨へと目を移すと、その枝を蝸牛が這っていた。
地上の巻貝は、荒々しい刺を呑み込みながらゆっくりと、愚直に、枝の上を流れていく。ややあって、鬱蒼とした木々の狭間を縫うように軽やかな雲雀の囀りが耳を擽った。詩人であればこの光景で詩でも詠めそうな、美しい朝だ。
だが、残念なことにイリヤラサンデルは詩人ではない。絵描きだ。この光景を後世に残すのであれば、詩ではなく絵でなくてはならない。
当初の目的を忘れ、少しでも目の前の情景を記憶に刻もうと眺め入る。どうせ急ぎの用ではない。
そうして、暫くの間ぼんやりと立ち尽くしていると、不意に呼び声が降り注いだ。
「イリヤラサンデルさん?」
肩越しに振り返り、都市の外壁を見上げる。正確には、朝日を照り返して煌めく石に彩られた階段の向こうにそびえ立つ都市の門から地上を見下ろす男の方へ視線を遣った。清々しい朝の光に照らされて尚、白に近い銀色の髪に縁取られた相貌の血色は悪く、その長い前髪の間からは完全異色を収める落ち窪んだ眼孔が覗いている。今日も酷い隈だ。イリヤラサンデルは自分の容姿を棚の上にそっと乗せながら思った。
「……おはよう、クォーツちゃん」
どうせ夜通し働き詰めであったに違いない目覚めから一番遠いところにいる男に、朝の挨拶を添えて呼び掛ける。勿論、今回もイリヤラサンデル自身の寝不足は棚に上げた。
「おはようございます。こんな朝早くに、どうされたんですか」
声をかけてから、クォーツは都市の周囲を鋭い視線で見渡した。非戦闘員の「姫」が、こんな早朝に安全地帯の一線を踏み越えていることを不審に感じたのかも知れない。何か、都市に迫った危険を察知したイリヤラサンデルが外に出たと考えたのかも知れない。
取り敢えずの仮説をたて、その上でイリヤラサンデルはクォーツの認識を訂正することにした。
「ちょー……っぴり、お出掛けしようと思いまして」
「イリヤラサンデルさんお一人で、ですか?」
同様に、取り敢えずの安堵を得たらしいクォーツが、けれど今度は別の意味で慌てた様子で門をくぐると、ストールに似た赤いマナをなびかせながら階段を駆け下りて来る。
「ま、待って下さいそんな。騎士ならともかく、姫がそんな、都市の外に一人で行かれるなんて」
「ダイジョーブダイジョーブ。多分そんなにかかりませんって」
「それにしたって……あ。今日は虎丸さんが都市にお見えになるそうです。何でも、また何人かの姫の護衛を引き受けたとかで。外に用事があるのでしたら同行されては?」
虎眼石の珠魅の名前を出されて、イリヤラサンデルは思わず失笑した。それから、ゆっくりと首を横に振る。
「すんごい私用で出掛けるんで、集団行動はちょっと……それに多分、あの子の方はもう私に会いたくないと思いますし」
じゃ。残された右手を小さく振ってから、イリヤラサンデルは肩に掛けた杖を持ち直してクォーツに背を向けた。だが、すかさず肩を掴まれ引き留められる。
「俺も行きます」
「クォーツちゃんクォーツちゃん、一人称一人称」
微妙に公私の入り乱れた口調を指摘してやると、クォーツは小さく咳払いした。それから、改めて口を開く。
「……失礼しました。では、私が護衛として同行します」
「はい、要りませーん!ってかクォーツちゃん私と出掛けたら図書館どうすんです」
「今日はトゥーレに頼んであります。いい加減休むよう、マスターに釘を刺されましたので」
「なら休もうよ」
「休暇をどう過ごすかは個人の自由ですので。イリヤラサンデルさんを目的地まで送り届けたら、観光がてらゆっくりさせて貰います」
「……わかりました。じゃ、ここで待ってますから、準備してきて下さい護衛さん」
イリヤラサンデルはとうとう折れた––というのは勿論嘘で、クォーツが準備している間に出立する心積もりだ。だが、その目論見は見事に外れる。彼がやつれた顔に笑みを貼り付けて、垂直なグリップの印象的な特殊な形状の短剣を掲げて見せたからだ。
「いつでもいけます」
「…………さようで」
まぁいっか、もう。イリヤラサンデルは肩を落として頷いた。休むだけなら煌めきの都市である必要はないし、職場から離れた方がかえって余計な仕事を抱え込まず、良いのかも知れない。
護衛のお駄賃だとでも言って、適当に理由付けしてルクを握らせたら、現地の宿に放り込んでしまおう。イリヤラサンデルは思った。
「ところで、イリヤラサンデルさんはどのようなご要件で、どちらに行かれるのですか」
杖を担いだイリヤラサンデルの少し後ろを歩きながらクォーツが訊ねてきた。
「行き先はジオ」足を止めず、振り返らず、地平線を見定めたままイリヤラサンデルは口を開く。「要件は、新居の下見と仕事道具の補充」
それまで規則正しく後ろから聞こえていた足音が止んだ。流石にイリヤラサンデルも足を止めて振り返る。異色の双眸をかすかに見開いた男が、そこに立ち尽くしていた。
「都市を、出られるのですか」
「うん。そう。そのつもり」
答えると、イリヤラサンデルは前を向いて歩き出す。ややあって、再び後ろから足音が聞こえてきたが、先程より少しだけ距離を感じた。
それから二人は長い沈黙の中、歩き続けた。