ストリートミュージシャン聖川さんと会社員一ノ瀬さんの話5年度末も近付いてきたがまだまだ寒い日は続き、今日に至っては雪が降っている。集客に天気に左右される部分があるのがストリートミュージシャンの厳しい部分でもあった。
真斗はリビングの窓から外をじっと見ていたが天気は一向に変わらない。せめて雪がやんでから路上に行こうと思っていたがそれを諦めて電子ピアノを背負うとCDや楽譜などを入れた鞄を持った。
トキヤと結ばれた日から二人の生活の中で変わったことといえば以前よりトキヤが真斗に引っ付いている時間が多くなったこと、一緒の布団で寝ようと誘われる日が多くなったこと、そしてキスをするようになったこと……気持ちは大きく変わったが毎日がガラリと変わることはなかった。
「真斗、行くんですか?」
外の様子を見るために忙しなく動く真斗のことをソファに座って本を読みながら横目に見ていたトキヤが声をかける。
「ああ、やみそうにないからもう行こうと思う」
「気を付けて行くんですよ?」
トキヤに言われて真斗は頷き、そのまま玄関に向かおうとした時「真斗」とトキヤに呼び止められた。真斗が振り向くとトキヤは自分の頬に指をトントンと当てており、その仕草に真斗はトキヤに言われた「お願い」を思い出し慌ててトキヤの傍に戻った。
「トキヤ、いってくる」
真斗はそう言ってトキヤの頬に優しく口付けた。トキヤにお願いされたこととは「いってきますとただいまのキスをしてほしい」ということ。お願いされた後数日間は恥ずかしさで顔を真っ赤にしていた真斗も今ではすっかり慣れていた。満足そうに笑っているトキヤは余裕たっぷりで、少し驚かせてみよう……そう思った真斗は何も言わずにトキヤの唇に自分の唇を重ねた。
流石に突然のことでトキヤも驚いたのか真斗が離れるとぽかんと気の抜けた顔をしており、トキヤもこんな顔をするのだなと真斗はトキヤの新しい一面を見れたことに嬉しくなり上機嫌のまま「いってきます」と伝えると家を出た。
マンションの廊下から見ても、マンションの外に出ても変わらず雪。トキヤがくれた薄青色の傘をさしていつもの場所へとうっすら雪の積もる道を歩いた。
雪ということもあり早めに今日の演奏を終えた真斗は電子ピアノの鍵盤をタオルで拭きながら演奏中からずっと気になっていた方を見た。人が忙しなく歩くこの道には珍しく自分をずっと見ている小さな少年。その見た目からまた小学生で低学年くらいだろう。一人で道の端っこで壁にもたれかかり演奏する真斗をじっと見ていた。最初は夜も始まったばかりなので良かったが今は時間も遅い。片付けが一段落すると真斗は少年に声をかけた。
「ずっとそこにいるがどうしたんだ?」
声をかけられた少年はじっと真斗を見上げると段々と目を潤ませていく。やがて大きな瞳から涙が溢れだし、小さな声で「まいご……」とそう言った。
「ご家族と来ていたのか?」
「うん。おにいちゃんいなくなっちゃったの」
真斗は屈んで少年の頭を撫でてやる。雪が降る寒い中に長い時間いたせいで頭は冷たく、そっと触れた頬もまるで氷のようだった。真斗は急いで電子ピアノと他の荷物を担ぎ、少年の両手を握って温かいものを飲みに行こうと伝えた。下手をすると誘拐と間違われるかもしれない。しかしこの寒い中真斗はこの少年をほおっておくことができなかった。真斗自身もこの冬の中を一人で歩く寂しさと冷たさを経験してきたからだ。
少年が頷いて真斗の手を握ると真斗はその小さな手を握り返して近くのコンビニへと向かった。
コンビニのイートインコーナーで二人は向かい合って座った。少年は真斗が買ってやった温かいココアをフーフーと息を吹きかけながら飲んでいる。どうやら少年は人懐っこいらしく初対面の真斗に自分のことをよく話してくれた。
今日は両親と兄と自分の四人で遊びに来たこと。途中で兄と二人でこっそり抜け出したこと。そして今はその兄ともはぐれてしまったと言う。
「ではそのお兄ちゃんから探そうか」
「うん。ありがとう、まさとおにいちゃん」
少年はさっきまでの涙が嘘のように嬉しそうに笑った。そして少年がココアを飲み終えるとコンビニから出て駅前へと向かった。途中交番にも聞いてみたが少年を探している人からの問い合わせなどはないと言う。
「ところでお兄ちゃんはどんな人だ?何を着ていたか覚えているか?」
真斗が尋ねると少年は立ち止まってうーんと声を出して考え、そして思い出したのか服装の特徴を言った。
「緑のもこもこした服を着てるよ!」
つまり緑のコートを着ているということか、真斗はそう受け取り少年が立っていた辺りから周りを見渡した。こんな小さな子の兄ならば大人という可能性は低い。もしかしたら兄の方はすでに両親と合流しているかもしれない。
「あとね、おにいちゃんはね、すごくかっこいいの!」
少年は真斗の服の袖を引いて言葉を続ける。
「つよくてかっこよくて、ぼくのあこがれのおにいちゃんだから、だから……おにいちゃん……」
いくら人懐っこくても先程出会ったばかりの自分と二人は心細いのだろう。真斗はそう思い少年の頭を優しく撫でてやった。そして少しでも彼が安心できるようにと真斗が大好きな曲をうたった。
「~~~♪」
自分は何度もこの歌に助けられたからこの少年に少しでも……心を込めて真斗はうたう。
「そのおうたしってる!」
「そうか!俺はこの歌が好きで、元気がない時はいつもうたうんだ」
歌を聴いた少年は知っているメロディににこりと笑顔を見せ、真斗はほっとした。少しでも和んでくれているならば良かったと再び周りを見渡す。
「母さん!いたよ!」
その声がしたのは少し離れた道の先からだった。真斗がそちらを見ると大人の男女、そして中学生くらいの男の子が真斗の方へ走ってくる。男の子の服装を見て真斗はほっと息を吐いた。
(緑の、もこもこだ……)
両親、そして兄弟の四人は真斗に礼を言うと駅の中へと歩いていった。少年は兄の手を離さないようしっかりと握っておりその背中を見送った真斗はもう大丈夫だろうとトキヤの待つマンションへと歩きだした。
あの兄弟は自分とトキヤくらいの歳の差だろうとなんとなく感じた真斗。もし自分たちが兄弟だったならあんな風になっていたのかもしれない。そんな手を繋ぐ兄弟の姿を見たせいだろうか。今すぐトキヤに会いたい。そう思った真斗は雪道を走った。
早く、早くトキヤに会いたい。おかえりって言ってもらって、たくさん抱きしめてもらいたい。
マンション前の数段の階段がもどかしい。オートロックの自動扉も、トキヤの部屋までのエレベーターに乗る時間も……。
玄関の扉を開けると真斗は急いで鍵を閉めて靴を脱ぐ。
「おかえりなさい、真斗」
リビングへの扉が開きトキヤが真斗を迎えながらそう言うと、真斗はトキヤに抱きついた。トキヤはその衝撃でずれた眼鏡をかけ直すと真斗の背中に手を回してあやしてやるようにトントンと背中を撫でる。
「ただいま、トキヤ」
「どうしたんですか?今日は随分甘えん坊ですね」
さぁ、夕飯ができてますよ。穏やかな声でそう言うトキヤに真斗は小さな声で「ああ」と答えた。
リビングのローテーブルの上にはトキヤの愛読書がいつも置かれている。多くは文庫本だが最近は音楽雑誌が置かれることが増えていた。休日にトキヤはそれを熱心に読んでは付箋を貼っていることは真斗も知っていたが恋人とはいえ人のものを勝手に見ることはできず、その付箋が何を意味するのかは真斗には分からなかった。しかし、それを知る機会は真斗が思うよりも早くに訪れた。
「真斗、少し話があります」
休日の寝る準備ができた夜、ベッドに腰かけるトキヤに呼ばれて真斗はその隣に座った。トキヤの隣、真斗が座った方と逆にあの音楽雑誌が数冊中置かれているのが真斗の目に写る。
「話というのはこれです」
トキヤは音楽雑誌を膝上に置き、付箋の箇所を開くとそこの記事を指差した。何冊かある雑誌の付箋が貼られた場所にあるのは事務所オーディションの記事。オーディションに合格すれば事務所所属となり、レッスンなどの環境も整いCDも出すことができる。更に結果を残せば大きな会場でライブを開催することも。今路上で十数人の聴衆しかいない真斗にとっては夢のような話だった。
「オーディションを受けてはどうでしょうかと思い」
「すまない!」
トキヤの言葉に重ねて真斗は謝罪した。トキヤの提案はありがたいことだ。真斗のために趣味の読書の時間を犠牲にして調べてくれていたことは真斗にとっては申し訳なさも感じるが嬉しい話だった。しかし、真斗はオーディションを受けることを拒否した。
「オーディションの存在を知らなかったわけではない。しかしオーディションを受けるためには名前と住所がもちろん必要なわけでだな……」
真斗が言い、トキヤはあることを思い出した。出会った時に真斗へアルバイトで家賃を稼ぎながら住むという選択をしなかった理由を聞いた。すると名字と住所を、実家に関わるものを使いたくなかったからと言い、その意思は固いようでトキヤに対してもいまだに名字を教えない。トキヤも無理に聞き出すつもりは無かったので今までは言わなかったが今回は聞かなければならない理由がある。今のままでは真斗にどんなに才能があろうとここで停滞してしまう可能性だってあることが真斗の夢を応援するトキヤにとっては耐えがたいことだった。
「真斗、良ければで構いません。家を出た理由を話してもらえませんか?」
トキヤの問いに真斗はしばらく何も答えなかった。沈黙が続き、やがて真斗は小さな声で話し始める。
「今思えば……俺が意地を張っていただけかもしれない」
それは真斗が高校の頃に遡る。
ようやくアルバイトができる年齢になり、真斗はアルバイトを始めた。掛け持ちをし、毎日働いていた真斗だったが作詞作曲のための勉強に加え、勿論学業を疎かにすることもできない。休み時間、バイト終わりの深夜に勉強をし、放課後や休日はアルバイト。そんな日々を続けてやっとの思いで買ったのが今愛用している電子ピアノだった。高校生の買い物にしては大分高いものだったが性能などは申し分無い。その後は上京後に必要な初期費用などのためにアルバイトを続ける日々が続いた。
真斗は高校時代、友人と遊んだ記憶が殆ど無かった。
恋人という存在はいたがあまりにも自分をほったらかしにされるのでと彼女の方から離れていった。彼女の方から忙しくても真斗と付き合いたいと言って聞かなかったから付き合い始めたのに勝手だなと真斗は思っていたがそれも離れていった後ではどうでもいい話だった。
時は流れやがて皆が進路を決める時期、両親と進路について話をした。アルバイトをしながら音楽活動をしたいという真斗に対し、両親の意見は大学に通いながらでも音楽活動はできるのではないかというもので衝突した。結局真斗は両親を避けるようになり、卒業式を終えるとすぐに家を出た。
「あの毎日を後悔しているわけではない。だが、どこかで羨ましかったのかもしれない。友人と遊んだり、彼女と出かけたりするクラスメイトたちを。両親の反対の言葉はその気持ちを抑えて過ごした毎日を否定された気持ちになってしまった」
何のために自分が必死に毎日を過ごしていたか、それは高校卒業後すぐに上京するため。それを否定された自分は感情のままに両親の言葉に聞く耳を持たなかったんだろう、当時のことを思い出しながら真斗はそう感じた。
「両親の意見も、今となっては理解できる。俺は間違っていたのかもしれないと」
俯く真斗の頭をトキヤは優しく撫でた。雑誌を持つ真斗の手が震えている。
「真斗、家を出たことを後悔していますか?」
「……家を出て、無茶なことをたくさんして、寂しくてつらくて……」
真斗がゆっくりと顔を上げてトキヤを見た。その瞳に滴が溜まっているが穏やかに笑っていた。
「でもその先で、トキヤと出会えた。トキヤが寂しさもつらさも消してくれた。トキヤと出会えた道を選んだことを、俺は後悔していない」
だから両親に会いに行き、きちんと話をする。真斗はトキヤにそう言ったが、その言葉にトキヤは驚いた。真斗の家出理由次第では両親と会って話すよう進言するつもりだったがまさか本人から言うとは思っていなかった。口に出したことで自身の気持ちも整理できたのだろうと真斗は言う。
「両親の休みに合わせて次の休日に一度実家に戻ろうと思う」
トキヤの方を改めて向いて真斗は言った。その瞳は先程までの弱々しさは一切無く、意思の強さも感じられる。トキヤはひとつ息を吐くと真斗の手を握った。
「分かりました。しかし一つわがままを言わせてください」
真斗は首をかしげながら、その先のわがままの内容を待つ。
「私も連れていってください。私は大切な息子さんをお預かりしています。今住んでいる場所、そこにいる人がどんな人物か分かるだけでご両親も安心できると思いますから」
それに……。トキヤは顔を真斗の方へ近付けるとその耳元で囁いた。
お預かりでなくいただくわけですからね。
その言葉に真斗は顔が熱くなった。嘘を言っているわけではないが改めて口にされるとこんなにも照れてしまうものなのかと固まってしまう。
「まぁそれは流石にいきなりお話はしませんよ」
トキヤはそう言うと真斗の耳朶に口付けをして顔を離した。動けないでいる真斗の膝上に置かれた雑誌をまとめて机の上に置くとトキヤはそのまま真斗をベッドに押し倒す。
「真斗……」
「と、トキヤ……」
「もう遅いので寝ますよ?」
真斗は赤い顔のまま何度も首を縦に振り、トキヤに導かれるままトキヤと同じベッドで彼に抱きしめられたまま眠りについた。
翌週休日、土日が休みのトキヤに合わせてホテルの予約もした上で二人は真斗の実家に行くべく新幹線で西の方へ向かった。初めての二人での遠出だとトキヤはとても嬉しそうにしており、真斗も同じく少し浮かれていた。久しぶりの両親との再会という緊張も加えて昨夜なかなか眠れなかったため新幹線の中の時間のほとんどをトキヤの肩を借りて眠ることに使ってしまい、新幹線を降りてから少し後悔していた。せっかくのトキヤとの旅なのに……としょんぼりとする真斗の手をトキヤは握り、長いホームを改札口の方へと歩いていった。
予約をしていた駅前のホテルに荷物を預けると二人は少し町を散策することにした。歴史ある古都とも言われる真斗の地元は神社や寺が多くあり、そういった場所を巡りながら美しい景観を二人で楽しんだ。近場へ買い物へ行くことはあったが毎日路上演奏をしたいという真斗の希望を優先していたためこうして遠出して二人で過ごすのは初めてだった。いつもよりよく喋る真斗の言葉をトキヤは頷きながら聞いては、その弾む声に微笑んだ。
昼食を取り少し休憩をした頃、真斗は「トキヤ」と名前を呼んだ。その一言でトキヤは真斗の意を汲み取り、行きましょうかと返事をすると前を歩く真斗の後に付いていった。
観光客の多い地域ではあるが少し外れるとずいぶんと静かになる。梅の花の薫りが漂う一軒家がずらりと並ぶ住宅街の道を二人はしばらく歩き、真斗はある一軒の家の前で立ち止まった。その表札には真斗の名字が書かれているがトキヤは敢えてそれを見なかった。すると真斗はトキヤの方を向いて姿勢良く立ち直し、礼をした。
「トキヤ、俺は聖川真斗という。伝えるのが遅くなってすまない」
「……ありがとうございます。教えてくれて」
トキヤはひじりかわまさと、と真斗の名前を口にして微笑んだ。そんなトキヤを見て安心したように真斗は微笑み返し、やがて意を決してインターホンを押した。インターホンの上にある表札には「聖川」ときれいな文字が彫られているのをようやくトキヤは見た後、緊張して固まっている真斗を後ろから見守っていた。
少しすると家の中からバタバタと音が聞こえ、玄関の扉が開く。真斗はびくりと肩を震わせ、目線を足元にして前を見ないようにしていたがよく知った声が「真斗?」と呼びかけてきたのでゆっくりと顔を上げた。
「あらあら、本当に真斗なのね。おかえりなさい」
家を出る前とそんなに変わらない母の姿が真斗の目の前にはあった。どんな顔をされるか覚悟していたがその表情は昔と変わらず、まるで学校から帰ってきた自分を迎える姿と変わらない。
「そちらはおともだち?」
真斗の母は門を開けながらトキヤを見て言った。トキヤは丁寧に頭を下げて名乗る。
「はじめまして、一ノ瀬トキヤといいます。真斗さんとは今同居しており、いつもお世話になっています。ご両親へのご挨拶が遅くなってしまい申し訳ありません」
トキヤの言葉に真斗の母もお辞儀をして二人に家に入るように言った。今日はお父さんもいるから喜ぶわよ!と明るく話す彼女に真斗もトキヤも安心した。玄関で靴を脱いで無言で中へあがろうとする真斗にトキヤは「真斗」と声をかけた。
「家に帰ったら何て言うんでした?」
「……ただいま」
「よろしい」
トキヤは満足そうに笑った。そして真斗は母に向いて改めて言った。
「ただいま、母さん」
出た時と何一つ変わらない家の中を真斗は母に付いて歩いていく。真斗の母がリビングの扉を開くとその先のソファには中年ほどに見える男性が座っていた。
「お父さん、真斗が帰ってきましたよ。それにおともだちも!」
そっと母の後ろから真斗が顔を覗かせると見える父の顔も母と同じく真斗が出た時と変わらない。
「父さん、ただいま」
真斗が言うと真斗の父は立ち上がって「おかえり」と穏やかに笑った。その後、和室で話そうと通された真斗とトキヤは横に並んで座り、真斗の両親がやって来るまで無言で待っていた。畳の匂いに安心するのは長年馴染んだ香りだからか、真斗は大きく深呼吸する。
やがて真斗の両親がやって来て座卓を挟み真斗たちと向かい合うように座ると、家を出てから元気にしていたのかと尋ねられた真斗は丁寧に今までのことを話した。ストリートミュージシャンとして演奏していたがやがてその日暮らしの生活になったこと、そんな中トキヤと出会ったことと今はトキヤの家に住んでいること、そして少しずつではあるが前に進めていること。
真斗の両親はそれを一つ一つ頷きながら聞いていた。まるで冒険物語を聞いているように興味深く聞くその姿と一生懸命話す真斗の姿、親子の様子はトキヤには微笑ましく見え、何も言わずに見守っていた。
「トキヤくんには本当に息子がお世話になっている」
「ありがとうトキヤくん。息子を拾ってくれて」
見守っていたはずが突然真斗の両親に声をかけられトキヤは驚きながらも平静を装い「こちらこそ」と丁寧に礼をして返した。
「それで真斗、ただ報告するために戻ってきたわけじゃないんだろう?」
父は息子の事をただ話をするために戻ってくるような子ではないことは分かりきっている。真斗は頷き、そして伝えたいことを話し始めた。
「俺はこれからも今のままで音楽活動を続けたい。そのために、名字を、聖川の名を使いたい。そしてトキヤとこれからも住むために住所をきちんとトキヤの所に移したい」
真斗はオーディションの話をした。うまくいくか分からないがチャレンジをしたいと、真っ直ぐに父母二人の目を見て話す。すると真斗の母は一つ息を吐くと父に尋ねた。
「お父さん、いいわね?」
その問いに真斗の父は頷き、そして少し大きめの封筒を机の上に置くと真斗に開けるように言った。真斗はそれに従い封筒を開けて中身を見て思わず両親の顔を交互に見た。封筒の中には真斗の名義の通帳、そして印鑑が入っている。
「オーディションを受けるのもただではないんだろう?夢のために使いなさい」
「トキヤさんも真斗の分の家賃の足しにしてね」
トキヤはそう言われ真斗に中身を見せてもらうと驚き、慌てて「すみません、お気遣いありがとうございます」と頭を下げた。
トキヤを含めた聖川親子の会話は何気ない雑談も始まり留まることなく続き、あっという間に時間は経った。トキヤは腕時計を見て長居してしまったことを謝罪すると立ち上がる。
「トキヤ?」
「すみません、私は先に失礼します。ご家族だけでお話したいこともあると思いますので」
不安げにトキヤを見つめる真斗へトキヤは「あの公園で待っています」と言い残し真斗の父と母に玄関まで見送られて家を出ていった。
「素敵なお兄さんができたのね」
トキヤを見送り戻ってきた真斗の母は座りながら言った。真斗は頷くと笑って話す。
「ああ、トキヤは俺を本当の弟のように思ってくれている」
無意識に胸のペンダントに触れながら穏やかに笑う息子の姿に両親は顔を見合わせて微笑んだ。
「そうだ、CDがあるんだが……後で聴いてほしい」
自分で作詞作曲し、うたった曲が入ったものを真斗は鞄から取り出すと机に置き、それを真斗の母が受け取るとそのまま真斗の手を握った。
「真斗、母さんも、勿論父さんも応援しているからね」
真斗は照れ臭くなりその顔はどんどん俯いていく。
「ありがとう……父さん、母さん」
久しぶりに感じた母の手のぬくもりに真斗の瞳からはポロポロと滴が溢れ落ちていた。
両親に礼をして家を出た頃にはもう空はオレンジ色になっていた。真斗はトキヤが待っているあの公園へ急ぐ。角を何度か曲がり真っ直ぐ行った先にある公園のベンチ、トキヤは一人でそこに座っていた。周りを見渡すその姿はまるで真斗が初めて出会った頃の姿に重なる。
「トキヤ、すまない待たせてしまって」
「真斗……ここも随分と変わってしまったんですね」
トキヤが周りを見渡していたのは記憶と変わってしまった公園の姿を見るためだった。子どもたちがはしゃいで遊んでいた遊具は無くなり、母親たちが集まって談笑していたパーゴラも消え、あの日トキヤが座っていたベンチだけが残る小さな広場になっていた。
寂しそうにその景色を見るトキヤの姿に真斗はどうすることもできず、ただ傍に立ちその様子を見ていた。まるであの日を思い出すようにトキヤは黙ったまま目を閉じ、暫くすると目を開いて立ち上がる。
「すみません、私の方が待たせてしまいましたね。ホテルに戻りましょう」
先に歩き出すトキヤに置いていかれないよう、トキヤを一人にしないように、真斗はトキヤの手をしっかりと握ってその少し後ろを歩いた。
「と、トキヤ!見てくれ!」
ホテルに戻った二人は風呂や夕食の前に一休みするためホテルに備え付けられたソファに座っていた。両親から受け取った通帳を何気なく開いた真斗は驚き、トキヤに渡す。トキヤは一旦本当に自分が見てもいいのか確認し、真斗が頷いた後通帳を開いた。
最初のページから大きな金額が数ヶ月に一度入金されており、真斗が高校三年になる年には四年制私立大学も十分に卒業できるほどの金額が既に記帳されていた。そして真斗が卒業後、つまり真斗が家を出た後も決まった額が毎月入金されている。真斗はぼんやりと握りしめていた封筒を見る。自分の両親は黙って家を出ていったどうしようもない息子に、いつ帰ってくるかも分からない息子にこれをいつか渡せると思って入金し続けてくれていた。
「真斗」
トキヤに呼ばれて真斗は我に返り、トキヤの顔を見た。その顔は最初は厳しい顔だったがやがて柔らかく笑う。
「私の携帯を使っても構いませんから、ちゃんとご両親に定期的に連絡をするんですよ?」
通帳を真斗に返しながら言うトキヤの言葉に真斗はただ黙って頷いた。今までの分もきちんと話そう、真斗は改めて思い、通帳を大切に封筒にしまうと鞄の中に入れた。
「子どもを愛していない親はいない……」
ポツリとトキヤがそんな言葉を溢し、真斗はそれはなんだ?と尋ねた。
「私が高校の時に先生に言われた言葉なんです。真斗とご両親を見ていて思い出したんです」
苦笑いを浮かべて言うトキヤの様子はいつもとは違った。真斗は首を傾げてトキヤに尋ねる。
「何か、嫌なことでもあったのか?」
尋ねてはみたものの人に言いたくないことかもしれないと思い真斗は「すまない、無神経に聞いてしまい」と言葉を付け足したがトキヤは特に気にする様子もなく話を続けた。
「実は私、今自分の両親がどこにいるのか知らないんです」
幼い頃のトキヤは感情を表に出すことが苦手だった。怒ったり泣いたりすることで喧嘩をする両親を近くで見てきたトキヤは感情を出さなければお父さんもお母さんも困らない、そう思い込んでいた。しかしそれは逆だとトキヤが知ったのはそれが染み付いてから後の事。
元々仕事で家を空けがちだった両親は心中が分からないトキヤとの接し方が分からず避けるようになっていた。当時はどうしてか分からなかったトキヤだったが今となっては両親が自分をどう扱えばいいのか分からなかったんだろうと納得はできた。
両親と同じ家にいることが苦痛になっていったトキヤは高校を決める時に元々良かった成績を活かし、地元を離れて都内の寮も併設されている私立校に特待生として入学した。トキヤが口にした言葉を言われたのはその高校でのことだった。
「両親との距離の取り方が分からなくて……」
そう溢したトキヤに担任が言った。
「子どもを愛していない親はいない。だから少しずつでいいから歩み寄ってみればいいんじゃないか?」
その言葉を信じてトキヤは翌年の母の日と父の日に実家にプレゼントを送ることを始めた。返事は無かったが自己満足と思いトキヤは毎年送り続けた。
大学四年間も送り続け、そして社会人になった初めての年、プレゼントを送り終えたトキヤは今年こそは勇気を出して実家に帰ろうと思っていた。しかし数日後、トキヤの家の郵便受けに入っていたのは宛先不明で返送されたプレゼントだった。
「流石にこれには堪えてしまいました。あの日からですね、心に穴が空いてしまったような気がして……いつも以上に真斗がうたってくれたあの歌を口ずさむことが多くなり、小さなあの子の元気な笑顔でこの歌がまた聴きたい……何度も何度も思いました」
それから数年、空いてしまった穴を見ないふりをして日々を過ごしていたトキヤに、切望していた再会の巡り合わせがあった。
「トキヤ、すまない……」
「真斗?」
トキヤの話を聞いた真斗はトキヤの座る椅子の傍にしゃがむと眉尻を下げてトキヤを見上げた。
「俺がもっと早くトキヤの傍にいければ良かったのに……遅くなってしまった」
トキヤは、俺の大切な家族だ。
そう言って真斗はうたった。温かくて優しくて、包み込んで守ってくれる。初めて出会ったあの日と変わらないその真斗の歌声を聞いたトキヤは椅子から降りて真斗を抱きしめ、そして歌声を重ねた。
トキヤの背中に手を置くと二度と離さないようにきつく抱きしめた真斗の頬には、まるでトキヤと心を分けあったように一筋の涙が伝っていた。