バッ○スで酔ったほくとくんの話「……なんだこれは」
まだまだ寒気が肌を刺すように冷たいある日の放課後のこと。机の上に積まれたチョコ菓子の山を前に、北斗は思わず眉を顰めた。
「ほら、ショコラフェスでお菓子作ることになったでしょ? そのお菓子の参考にならないか〜ってあんずと俺でいろいろ買ってきたんだ☆」
「え、な、あんずちゃんと?! ずるいよ明星くん?!」
「バレンタインに作る菓子は鳴上に教えてもらうことになったはずだぞ。おまえは菓子が食べたかっただけだろう、明星」
机の上を改めて眺めてみる。板チョコ、チョコチップクッキー、クレープ生地にチョコをかけたようなもの、ピーナッツチョコ、チョコマシュマロ……色とりどりのパッケージを眺めているだけで胸焼けがしそうだった。
「そのあんずはどうしたんだ?」
「なんか他のユニットと打ち合わせみたい。行きがけにサリ〜にも声かけてくれるって言ってたよ」
「本当に引っ張りだこだね、あんずちゃん」
「ちょ〜っと淋しいけどね〜? 『付きっきりになれないぶん、これくらいは手伝いたい』って」
あんずからそう言われると無下にもできない。
「しかし、そもそもチョコ菓子というのならケーキ屋に売っているようなもののほうが参考になるんじゃないのか」
「あ、ホッケ〜知らないでしょ? デパートのケーキ屋さんに売ってるのたっかいんだよ?! こ〜んな小さいので一粒三百円とか五百円とかっ」
スバルはそう言いながら十円玉くらいに指を広げてみせた。真が頷く。
「ああ、ああいうのって高いよね」
「そうだったのか……」
毎年母が父へ小箱に入ったチョコレートを渡しているのを見せつけられてはいたが、そんなに高いものだったとは。
「何事だ?」
「美味そうな香りだな」
「あっ、ザキさん、オッちゃんもっ。食べて食べてっ」
「『ちょこれいと』か。我も『こんびに』で買ってきたものがあるぞ」
颯馬が取り出したものはいかにも『プレゼント』といった見た目の正方形の小箱だった。蓋を開けるとハートや丸の形をした小さいチョコレートが四つ入っている。
「あっなんかいい感じだねっ」
「うむ。先ほどあどにす殿にも渡したとこでな。『とりっくすたあ』の皆も食べるがよい」
「ありがとう。……うむ、うまい」
「あんまり大きいサイズは配るのも大変そうだし、実際に作るときはこれくらいの大きさにすると良さそうだよね。こういうのって専用の型とかいるのかなあ?」
「そうだな……。ともあれ、明星。神崎の買ってきたもののほうが参考になるんじゃないか?」
「も〜、いいじゃん。いろいろ食べたほうが楽しいしっ」
やっぱり食べたかっただけなんじゃないかと言い返そうとして、ふと緑色パッケージが目に入った。
「……これは」
「あ、それはね〜洋酒が入ってるんだって。おもしろいでしょ?」
「ファンのなかには小さい子供もいるんだぞ」
「そうだけど〜。いろいろ食べてみたいでしょっ。……あれ、ホッケ〜もしかしてお酒弱い?」
「どうしてそういう話になる」
そもそも弱いか強いかなど自分たちの年齢でしっかり把握している方が問題だろう。
しかし、そういわれると妙に癪である。
「食べればいいんだろう、食べれば」
一粒取り出してしげしげと見つめる。見た目はわりと普通の粒チョコにしか見えなかった。
「あ、それ噛んだ瞬間びしゃあってお酒出てくるから口に入れてから噛んだほうがいいよ」
「そうなのか」
言われたとおりそろりと口の中に入れ、噛み締めるとじわりと中からひやりとした液体が染みだしてきた。口の奥底にあまり味わったことのない苦味がじんわりと広がっていく。
「……」
「あれ? 口に合わなかった?」
「いや」
金平糖の素朴な甘さとは、また違った美味しさだった。甘さが心身ともに染み入るようで、もうひとつまみ口に入れる。全身の力が、疲れが、ほどよく抜けていくような、そんな感覚が心地よくて、もうひとつ、ふたつ、みっつ。気づけば頭の中に綿が詰めこまれたような感覚に陥っていた。これ以上はまずい。辛うじて残る理性の片隅でわかっていても尚、手が止められない。もうひとつだけ。あとひとつ。あともうひとつだけ。そうして、背後で教室の扉がガチャリと開く音にすら気付かなかった。
「おい〜っす。あんずから聞いたぞ。チョコレート菓子の試食会って……って北斗?! おい、顔が真っ赤だぞ? 大丈夫か?!」
「あれ? ホッケ~?」
「ひ、氷鷹くん?!」
頭がぼんやりする。異変に気付いたらしい友人たちの声が遠くから直接脳髄に響くようだった。
「北斗?!」
「氷鷹くん?!」
「ホッケ~、ホッケ~?!」
視界が、ぐらりと揺れた。
☆★☆
「……」
重い瞼を持ち上げる。薄暗い天井が視界に入った。
(ここ、は)
僅かに身じろいで、糊の効いたシーツが身を覆っていることに気づいた。幽かに漂うツンとした薬品の香り、天井を四角く区切るパーテーションの存在。
(──保健室か?)
「あ、起きた?」
急に視界が遮られ、空色の大きな瞳がこちらを覗き込んでいた。
「……あけ、ほし?」
「おはよ〜、ホッケ〜」
「俺、は」
身を起こすと、まだ少し頭の奥がぐらついた。
「だいじょうぶ? 急に倒れるんだもん。びっくりしたよ」
新曲の音取りでもしていたのか、イヤホンを取り外しながら、スバルが眉尻を下げて笑った。
「……すまん」
「いや、ホッケ〜が謝ることじゃないっていうか……」
スバルは少しだけを目を泳がせたあと、意を決したようにごくりと唾を飲み込み、北斗のほうへ向き直った。
「ごめんなさい」
あまり聞き慣れない謝罪の声は、しいんと静まり返った保健室によく響いた。
「どうしたんだ、急に」
「佐賀美ちゃんと……サリ〜とウッキ〜にも怒られちゃった。お酒の入ったチョコなんて無責任に人に食べさせるなって」
本当に反省しているようで、まるで悪戯を叱られた仔犬のように下を向いた。
「……食べたのは俺だろう? 俺が自分で食べたいと思ったんだ」
「でも、買ってきたのは俺だし、ホッケ〜に食べさせたようなもんだし」
スバルが目を伏せて続けた。
「佐賀美ちゃんが言ってた。ホッケ〜は寝不足だって。だから、ほんのちょっとのアルコールで悪酔いしちゃったんじゃないかって」
「そういえばその佐賀美先生はどうしたんだ? 遊木と……衣更も」
「あ、佐賀美ちゃんは会議だって。ウッキ〜とサリ〜は委員会とか忙しそうだったしそっちに行ってって言ったんだ」
「遊木と衣更はともかく……ちゃんと働いていたんだな、あの人も」
「あはは。ホッケ〜佐賀美ちゃんに厳しいよね〜……っじゃなくて!」
ワイシャツの袖を、勢いよく引っ張られた。
「だから、ホッケ〜、『変態仮面』さんのこととか、ホッケ〜パパのこととかで忙しかったでしょ。授業中だってホッケ〜のくせに眠そうだったし」
「くせにってなんだ」
「だって、ホッケ〜が倒れるなんて思ってなかったんだもん」
ここでようやく、スバルの声が、袖を掴む指先が、震えていることに気づいた。
「佐賀美ちゃんは寝てるだけだって言ってたけど、もしホッケ〜が……っ」
「……」
薄暗い保健室で、俯かれては表情なんて見えやしない。それでも何か見ていられなくて、手を伸ばして髪に触れたのは、半ば無意識だった。
「ホッケ〜?」
精巧なガラス細工が瞬く瞬間を見た。
「……大丈夫だ」
「……」
「大丈夫だ、俺は」
薄暗がりの中でもなお目の醒めるような色をした、柔らかい髪を撫でる。指の隙間を優しくすり抜ける毛先の感触が、北斗は好きだった。
うん、と小さく頷いた眼の前の少年が、本当は何に怯えているのか、いや、そもそもその感情が『怯え』なのか何なのか、そんなことすらわからなかった。どれほど近かろうと、どうしたって他人なのだから。
だけれども。
今、こうすることは、きっとこいつと自分の中では『正解』なのだと、抱き寄せた背中のあたたかさを手のひらに感じながら、そう思った。