『死神』ざわざわと騒がしい劇場がブザーの音で静まり返る。
リズムよく響く録音の一番太鼓と、出囃子として流れるコメディアン・ラプソディ。
下手から上手の方へ、舞台の中央。備えられている座布団の上に座っては目の前のサンパチマイクの位置を調整する。
第一声、最初の掴み。喧しい心臓を鎮めるように深い呼吸で整える。
「……金もなけりゃあ女もいない、運も尽き挙句の果てにはウンを踏む。まぁウンは付いても運は付かん!言うてね。」
枕を話し始め、少し引っ掛けるようなギャグを言えば、しーんと会場は空調の音が流れるまま薄い反応が返ってくる。
「えー、まぁギャグは置いといて……よいしょ、なんやこのギャグめっちゃ重い!スタッフさん!スタッフさんこのギャグ持ってって〜!」
何かを持ち上げる動作をしながら力を入れるような声を出す。すると観客の笑いが誘われてどっと笑いと拍手が巻き起こる。
舞台上には明るい髪色の狐目の奥に黄金の瞳を持つ男が一人。彼ただ一人だけがスポットライトに照らされ、暗い劇場内をまるで太陽のように照らす。
「はい、ほんまに、えー、ギャグは置いといてね。どうも〜、どつ本から遥々参りました。天下のお笑い芸人ヌルサラこと、白膠木簓です〜。ところで、皆さんはあんまり付き合いたない“かみ”ってあります?ひとつ、紙。ペーパーの方な、あいつらちょっとした拍子にスパッと指切っていくから恐ろしいもんですわ、表紙だけに。」
あいたっと声を上げて指を抑える。
「ふたつ目、カミさん。これまた怖いらしいんですよ。」
口元を左手に持つ扇子で隠しながらこそこそと囁くように話す。悪戯っ子のように笑うと「いや、これほんまにね、師匠とかみんな言うてはりますわ。」とさらに観客の横隔膜に追い打ちをかける。
そして扇子を徐に閉じカンカンッと小拍子を叩く。
「さて、今までおふざけしとりましたが、“かみ”、と一番最初にに聞いて皆さんが思い浮かべるのは神様やないでしょうか。神様といえばね、こんな唄が残っとるんですよ。“偽りのある世なりけり神無月 貧乏神は身をも離れず”ってね。えー、八百万神と申しまして、日本には物凄い数の神様がおるんやそうですわ。ただ、あまり付き合いたない神様もおりましてね、本日はそのお話に付き合うてもらいます、どうぞよろしゅう……」
「〜、全っ然あかんわ!」
「なんや兄ちゃん、やっぱりあかんかったんかいな。やから言うたやろ、兄ちゃんの家族の話なんか面白ぉないて。もうちょい頭使わな。」
屋台の蕎麦屋に客の男が一人。ずるりずるりと音を立てながら蕎麦を啜る音こそ喧しいものの男の所作は美しいもので、店主は見ていて気持ちがいいものだった。男は汁まで綺麗に飲み干すとぷは、と息を吐き出す。
「相変わらずええ食いっぷりやなぁ、見てて気持ちええわ。」
「おおきに……頭使ってこれやねん、ほんま向いとらんのかな……おっちゃん、今日も美味かったで。お勘定。」
「兄ちゃん頭良さそうやのになぁ。おおきに、十六文ね。」
巾着袋の中からじゃらりと銭が覗く。ひぃふぅみぃ……数えているうちに男の顔が曇る。
「…おっちゃん十六文やろ?」
「そうやで、間違いなく十六文や。」
眉間に深く皺を寄せながら一枚、また一枚と掌の上に銭を乗せていく。
「ひぃふぅみぃ……おっちゃん、今何時や?忘れてしもたわ。」
「はっはっは、兄ちゃん落語家の真似事は結構やけど俺は騙されんでぇ。どうせ金足りへん〜とかやろ?しゃあないから今回だけまけたるわ。いっつも来てくれとるからなぁ。」
「知らん思たんに……おおきにな。」
「ここは蕎麦屋やからな、蕎麦屋やっとるもんがあの有名な時そば知らんなんて嘘でも恥ずかしくて言えへんわ。」
夜四つ。店主が豪快に笑う。十五文だけを払った男は暖簾を潜る。運も金もない、何も成功しない男、何も持たない、躑躅森という青年は店主にひらりと手を振って夜道を歩いていった。
「ほんまに、なんも成功せぇへん。……才能ないんやろか……まぁそうやでな。おっちゃんの言う通りや。」
柳が揺れる橋の上。躑躅森は橋の勾欄に手を置いてざわざわと流れる川の流れを見つめていた。ここ最近毎日は寺子屋で子供達に勉強を教えた後、芝居小屋に通い、万才をさせてくれと頼み込む日々。しかしながらどうも躑躅森の笑いの感覚と世間一般の感覚に擦れがあるようで観客は一人も躑躅森の前で立ち止まらず、挙げ句の果てには子供に石を投げつけられる、何の為に此処に立ち、笑いを語っているのか、躑躅森はそれが分からなくなっていた。もうこのまま身を投げてしまおうか、そう思う程には。
やはりどうしてもこの江戸の末、芝居より落語の方が面白く、人気がある。出店を出す躑躅森以外の客を見たことがない蕎麦屋の店主でさえもが難波では滅多に見ない江戸落語の「時そば」を知っているほどだ。
ふと横に視線を向けると橋の上には酒瓶を抱えたまま座り込んで眠る男がいた。仕事上がりにでも仲間とどんちゃん騒いで与太話でもしてきたのだろう。暢気に杯を交わして浴びる程に酒を飲む。寺子屋などの安月給では到底出来ない生活だ。躑躅森は途端に酔い潰れて眠る男が羨ましくなった。嗚呼この男は丈にも恵まれ周りにも恵まれてきたんだろう、そう思うと無性に羨ましくなったのだ。普段は人は人、自分とは違うと割り切ることが出来る躑躅森だが、今日はどうも気が参っていた。どうせ死ぬならそこの男と心中でもしてやろうか。恨めしさが心を蝕む。だが最期の最期に罪を犯したくはないとぐっと拳を握りしめる。
ゆっくりと橋の勾欄の上に乗り上げる。川の流れは変わらず荒く、このまま飛び込めば風の前の塵に等しくどんどんと流されていくだろう。こんなことで幕を閉じることになるとは本当に馬鹿馬鹿しい、しかしその馬鹿馬鹿しさも今では救いになる。月光の光が暈けて映る荒々しい水面へ手を伸ばした。
「やめときなぁ兄ちゃん、お前さんはまだ寿命じゃねぇぜ。」
低い声が躑躅森の鼓膜に届いた時には既に着物の半襟をぐいっと掴まれて橋の中に体が引き寄せられていた。木製の床版に背中が重力を軽減しないまま叩きつけられる。びしびしと痛む背中を摩りながら躑躅森は自分の幕引きを妨害してきた男を睨み付ける。
「いっ、たいな!何すんねんおっさん!」
「気持ちよぉく寝てる時に自死しようとしてる若者が居るんだ、止めるに決まってんだろ?助けてやったんだから痛いのくらい我慢しな。」
先程まで瓶を抱えながら鼾をかき眠りこけていた男が躑躅森を見下ろす。その眼光は鋭く躑躅森の体を刺すように貫く。
「やかましな……大体寿命てなんやねん!そんなんわかるはずないやろ死神でもあるまいし……」
「ちゃあんとした死神だぜ。名刺でも出してやろうか。」
揶揄うように笑う自身を死神と呼ぶ男を睨み付けながら躑躅森が体を起き上がらせ立ち上がっては嘲笑うように吐き捨てる。とん、と男の胸元に指を置いては「死神やったら今すぐ俺の心臓取ってみせぇや、そしたら信用したるで。」と煽ってみせる。
男は帯に挟んであった煙管を咥え、見てろ、と言うように躑躅森に指を見える。そしてぱちんと音を鳴らせば指先から炎が上がり、指を火皿に近付けそのまま火を付けた。ぷかぷかと煙を宙に浮かべながら男は口の端を吊り上げ、驚いたように目を見開く躑躅森を面白そうに眺める。
「心臓取っちまってもいいがお前さんが死んじまうぜ?折角助けてやった生命だ、大事にしてくれよ。」
「……い、いやいや、なんかの奇術やろ……ちゅーか、それやったら死神やなくて奇術師やんけ!」
「これでも信じてくれねぇのな、おいちゃん悲しい。そんじゃァ予言しようかァ?……あのガキ、今から死ぬぜ。」
白く濁った煙を吐き出しながら男が桃色の髪色の少年を指す。躑躅森も其方を見ると指を刺された少年が胸元を抑え苦しみだし、そのまま倒れ込んだ。周りの人間が少年に駆け寄り医者を呼ぼうちするが既に事切れているようで、母親らしき人が遺体を抱きしめてながら泣いているように肩を震わせていた。
左右違った色彩を持つ男の方を躑躅森は向き直し驚いたような、怒っているような表情を向けては胸元を掴む。男はけたけたと笑ったまま躑躅森から視線を外ずにいる。
「っ、なん、でや!お前が殺したんか!?ふざけんなおっさん!」
「失礼だな、殺しちゃいねぇよ。ただの寿命だ。俺は死神だから寿命が見えるだけ。」
煙管の中を通った煙たい空気が躑躅森の顔に吹き掛けられる。嘘を言っているようには思えない男の様子に躑躅森は胸元を掴んでいた手を離す。
「……ほんまにおっさんが死神やとして、俺になんの用やねん。」
「ン〜?今にも死にそうな若者が困ってるんだ、おいちゃんが助けてやらなきゃだろ?」
「具体的に何助けてくれるねん。俺のこと何も知らんやろ。」
警戒心をさらに強めては躑躅森は振り返り帰ろうととする。男は引き止める様子もなくただただ煙管の紫煙を肺に落とし入れる。
「……金、簡単に稼げる方法教えてやるよ。寺子屋の安月給の何倍も稼げて、何倍も簡単な方法をな。」
「っ!?……なんやて、お前。」
「金の稼ぎ方教えてやるって言ってんだ、ここで出会ったのも何かの数奇な運命だろうからなァ。優しいだろ?おいちゃん。」
「……話だけ聞いたるわ。」
決して金に目が眩んだわけではないと自分に言い訳をしながら躑躅森は生唾を飲み込むように喉を鳴らす。煩く鳴る心臓を黙らせるように胸元を一発、殴る。
「流石だなァ、こういうと皆ビビって逃げちまうんだが……いい目してるぜお前さん。特別に教えてやるよ。」
そう言うと男は躑躅森の唇を強引に奪う。両頬を掴まれたまま舌を捩じ込まれ無理矢理上を向かせられているせいか首が痛む。数秒、数十秒かするとようやく唇が銀の糸を引きながら離れていった。躑躅森は口元を拭いながら荒く乱れた息を整える。
「っなにすんねんお前!」
「これでお前さんは昼でも俺が見えるようになった。」
「……は……?」
「街の病人のとこ行って患者の足元を見ろ。たとえ患者がどんな重病人でも足元に俺が座っていたらまだ寿命じゃねぇってことだ。そんときは呪文唱えたら俺はどっか行くからよ。」
躑躅森は混乱したように疑問符を浮かべながらも死神の話を聞いていた。そして時折頷き、相槌を打っていた。
「逆に枕元に俺が座ってるとどんなに症状が軽くても死ぬからな。医者の振りして見極めて呪文を唱えるだけで金銀財宝がっぽがっぽな仕事だ。どうだ?悪くねぇだろ?」
「ま、まぁわかったわ……でもその呪文て……?」
「嗚呼、呪文な。長いけど覚えろよ。ヌルヌルサラサラ・ドツホンドリーミンナイト・ジュゲムジュゲムゴコウノスリキレカイジャリスイギョの……」
「いや待て待て、長すぎや。覚えられん。しかも最後寿限無やんけ!」
しっかりと突っ込みを入れるとため息を吐く。やはり酔っ払いの戯言か、時間の無駄だったと考えながら頭を掻いては乱れた着物を整える。
「じゃァ、そうだな。…… アジャラカモクレン・テケレッツのパ、だ。そのあとに手を二回叩きな、そしたら俺は霧みてぇに消えるからよ。」
「……アジャラカモクレン・テケレッツのパ……」
「そーそ、その調子なァ。ァ、あとこれやるよ。ちっとは医者っぽく見えるだろ?」
死神は躑躅森に鼈甲の目鏡を掛けさせる。ただ硝子が張られただけの、度の入っていない凪のような目鏡を。
「それっぽくなったじゃねェか、そんじゃ、また今度な。上手くやれよ、ロショーくん。」
「あっ、ちょお待てやっ!何で名前知っとんねんっ!」
躑躅森の引き留める言葉を最後まで言わせることもなく、死神は夜に溶けた。
「……はぁ……せめて名前聞いたらよかったわ……いや、死神って名前あるんか……?」
どっと疲れたような体の怠さに頭を抱えながら帰路を辿る。先程の少年の遺体は持ち帰られていた。