これは寿司です。「小生は猛烈に感゛動゛し゛て゛す゛!!」
「……違います」
昼時のポケモンリーグの休憩室で、アオキは猛烈な竜の息吹を浴びていた。良い歳をした男――泣く子も黙る四天王の頂点であるハッサク――が年甲斐もなく感動に打ち震えて泣く様は、何度見ても見慣れない。おまけにその対象が自分となれば尚更落ち着かないもので、普通と平穏をこよなく愛するアオキは現実逃避をすべく視線を逸らした。頼むからこのまま自分を見逃してほしい。壁の染みになってしまいたいと思うことも、ぼんやりと次に食べるものを考えることで嵐をやり過ごすこともままあるが、今回ばかりは逃げられそうにもなかった。
「アオキ!恥ずかしがることはありません、高みを目指すのはいつであっても遅くないのですよ!」
「……だから、違うんですよ」
盛大にため息をつきながら、アオキはがしりと両肩を掴んできたハッサクの力強さと熱意に慄いた。ポケモンバトルでもそうだが、腕っぷしでも自分はこの男には叶うまいと思う。もっとも、自分がどうしたって勝ちたいと足掻いて暴れ回ることはすまい。勝たない勝負は基本的にはしない主義なのだ。
だが、この誤解だけは解かねば後々厄介となる。根本的な思い違いをどう正すべきか筋道を立てながら、アオキはどうしてこうなったのかを思い出すことにした。からの弁当箱から薄桃色のピンと反った尻尾がはみ出ている。全てはここからだ。
今日も、アオキの営業スケジュールはパツパツでめちゃくちゃな代物だった。時間が埋まっていれば考えることはかえって少なくなって良いとも思うし、仕事だから仕方がない。ポケモンバトルで他人の人生を左右するよりも平和に時間は過ぎてゆく。歯痒いのは、年々自分の体が思うようには動かなくなってゆく燃費の悪さで、オージャの湖で一息をついた頃には青空が目に眩しいほどに疲れ切ってしまっていた。
「お昼にしましょう」
昼休憩をまだ取っていなかったことを腕時計で確認し、草原にハンカチを広げて座る。湖を見ながら休憩するというのもなかなか乙なものだ。おまけに今日は宝食堂の店主が自分を心配して持たせてくれた焼きおにぎり弁当まである。ペットボトルのお茶と、大好物の焼きおにぎり。添えられたレモンを絞った瞬間、爽やかな空気が弾けて胸が空く。湖に吹く風は清浄で、空の青さによく似合っていた。
ぼんやりと思考を空にしたい時に限って、疲れているためか取り止めもない考えが次々と頭に浮かんだ。自分がこんなにも不毛な営業努力をしてまでポケモンリーグを、ポケモンバトルをパルデア地方に広めようとしているのは何故だろう?始まりは自分がポケモンリーグに就職したからだが、オモダカがトップについてからは全てが一変してしまった。彼女は誰もがひれ伏すほどの強さと熱意を持つと同時に、呆れるほどに真剣にパルデアの未来を憂えていた。ポケモンは生活のそばにいても、ペットに毛が生えた程度、ごく一部で家畜や研究対象として飼育される程度にしか扱われていない。パルデアの大地は肥沃だ、人間だけでほぼほぼやっていく生活で十分ではないかと誰もが考えていた。
ポケモンバトルなど、ポケモンを酷使するだけで何の意味があるというのだろう。当初、パルデア地方ではポケモンバトルは趣味の延長線として用意された受け皿に過ぎなかった。他の地方ではスポーツリーグにもなるほど熱狂的にもてはやされていると聞き、オモダカの説明にリーグ社員の多くが驚かされたものだ。そうして、別段自分たちには関係ないだろうという意見でまとまりそうになるところを、オモダカが力強く押し流したのである。
「確かに、ポケモンバトルは全てではありません。しかし、ポケモンバトルほど広く一般市民がポケモンの特徴、性質、生活での接し方を学べる機会を得られるものも現状ないのです」
バトルでは自ずとさまざまなポケモンを駆使することになる。知らないポケモンを探そうという考えも湧き、同時に研究も促進されよう。新たなポケモンとの生活は、ひいてはパルデア全体の発展にも寄与するというのがオモダカの言だった。ポケモンという貴重な資源がみすみす使われずにあるというのは勿体無いのではないか。そしてポケモンにとっても、彼らが人間を理解することは種の繁栄を助ける一手ともなりうる。
ポケモンバトルの面白さを多くの人間が理解し、切磋琢磨する。そして埒外な振る舞いに出ないようにするための模範としてポケモンリーグを確立させる。地域の交流センター化しつつあった各地のジムは見直され、ジムリーダーも一新された。各リーダーに二足の草鞋という二つ名を持たせたのは、知名度を上げることと身近に感じさせる手段だったのだろう。不幸にもアオキは選ばれてしまった。上司命令とあれば仕方がない。
しかも、各ジムリーダーにはオモダカから厳密な使命が課せられた。ジム挑戦者の足取りを推測し、巡るごとに乗り越える楽しさと辛さ、達成感を得られる道筋をつけようとしたのだ。ただポケモンバトルを流行らせようというだけであれば、遊んでいるだけで良いというのに、いたずらに不出来なものを実らせるだけではいつしか爛熟してしまうと言いたいのだろう。オモダカは、単純に実りを待つだけの人物ではなかった。摘果している。あるべきパルデアの未来に相応しい人間が育つためには、彼女の筋書きをなぞるより他にない。厳しすぎやしないか、という意見は圧倒的な意思の前に淘汰された。日々をなんとなく過ぎゆくだけの人間にとって、荒波を砕くような岩壁は抗う気さえ起こさせない。
そして、ポケモンリーグの最高峰を目指す道のりとして四天王が設けられた、そこまでは良い。アオキは何故か三足の草鞋を履かされる羽目になった。上司命令とあれば仕方がないだろう。しかし、自分の疲労度の多くが余計な仕事に起因しているのは間違いなかった。今の自分は、ジムリーダーでも四天王でもない、ただのサラリーマンのアオキである。ずっとこんな風に時間を過ごしていたい。朝に出社して昼休憩を過ごし、定時退社でフィニッシュ。完璧ではないか。
「ご馳走様でした。……うん?おまけをつけてくれたんですね」
焼きおにぎりは大層美味しかった。十分腹が膨れたと思ったところで、ペットボトルのお茶横に薄桃色の物体が目に入った。寿司だ。どう見たって寿司である。焼きおにぎりに寿司までつけてくれるとは、宝食堂の主人はなんと優しいのだろう。次に立ち寄った際に厚く礼を述べようと心に決めると、アオキはしばし寿司を見つめ、弁当箱の蓋を閉じた。今の自分は焼きおにぎりで十分だ。あとは夕方の休憩で自分を慰めるお供にしよう。今日の最後はポケモンリーグでの会議なのだ、絶対に疲れるに決まっていた。
予定通りに会議は疲れたし、会議後の休憩(終わったらば議事録を提出するのもアオキの仕事だ)で寿司を食べようと思ったのは無理からぬ流れだろう。何故寿司なのかという疑問はついぞ浮かばなかった。疲労だ。全てはこの疲労がいけない。めざとくハッサクに見つかる前に隠せなかったのも疲労のせいだ。
「アオキ、人の話を聞く際にはこちらの目を見なさい」
「これは寿司、です」
「いいえ、シャリタツさんですよ」
そう、寿司はシャリタツだった。寿司によく似たポケモンなんて存在するのか?今では存在することが知られている。アオキも記憶の片隅に留めていたが、弁当箱に入れるほど寿司はシャリタツに似ていた。否、シャリタツが寿司に似ているのか。どちらでも良い、問題はこのポケモンがドラゴン属性という普通の自分には無縁の生き物である点で、ドラゴン使いの男が目をぎらつかせるのは必須の流れだった。腹筋に力を入れる。四天王の間で声をかけるよりも切実さを込めて、アオキは大きな声を上げた。
「間違えて弁当箱に入れただけなんです!寿司だと思って、自分は寿司だと……」
「スシ!」
シャリタツが鳴く。そんな鳴き声なのか、ますます寿司ではないか。ボソボソとことの経緯を興奮するハッサクに伝えるも、十分の一も伝わっているか怪しい。頼むから伝わって欲しいし、自分はドラゴン使いになる気は毛頭ない。四天王用にひこうポケモンを扱う羽目になったが、他の四天王と被らないように細心の注意を払った。中でも、自分をいじってくることが目に見えているチリとハッサクには掠りもしないようにしてきたのである。
「……事の経緯は理解しました。残念ですが、今回は譲りましょう。つまり、食べ物に似ていればアオキは興味を持つという事ですね」
「はい?」
「そうとなればアップリュー……いえ、もっと易しいものから始めるべきですね。宝食堂のご主人とも一度話をしてみましょう」
嫌な話を聞いた気がする。期待していた軽食はなかったし、もう議事録を作ってしまおう。弁当箱を元のようにしまうと、アオキはノートPCを立ち上げた。考え事を始めたハッサクが怒る様子はないので、仕事を進めるならば今だ。恐らく、残業も一時間内で済むだろう。
帰宅した後、寿司が枕元でこんにちはをした。寿司はなかなか腐らないものであるらしい。
〆.