春待顔 時は人を待たない。乾いた空気が少しずつ潤いを取り戻してゆくと同時に、本来の優しさを思い出したかの如く陽が和らぐ。どちらも苛烈になってお構いなしにその勢力を振るうまでそう遠くはないし、きっと全てを忘れて微睡んで、再び深い眠りと同時に世界を忘れてしまうのだろう。商家の店先に飾ってあった寂しげな盆栽に、目に鮮やかな新緑が小さな手を出し始めたのを観てとり、隠し刀はようやっと春は夏に近づいているのだと気がついた。
四季の移ろいが再び記号ではなく人間的なものとして認識されてから僅か数日だが、もう今年の春をいたずらに費やしたことに後悔の念がわくのだからおかしなものだ。花弁一枚、最後までぐずついていたのがくしゃくしゃに萎れて枝に張り付くのがなんともしみったれている。今の自分の気分に相応しい。重箱の入った風呂敷を下げた手をぎゅうと握りしめ、隠し刀はどうしたら取り戻せるだろうかと思案した。
梅、桃、桜、見どころである紅白の花々を江戸で観るのは難しい。春は南から順々に上ってくるものだから、あるいは北へ、それこそ生国に行けば観られるかもしれないが如何せん遠すぎる。人間の足より先に季節が到来し、後ろ姿を見るのがせいぜいだ。どう足掻いても、今年の春は盛りを過ぎたと認め、今を噛み締めるより他にない。例えば、若い筍を狩るのは西国の風物詩であると聞く。江戸でもどこかで楽しめる場所があるかもしれない。
江戸を折り取るよりも人の腕を折る方が多かった人間らしく、隠し刀は花を愛でる心は未だ持たない。ただ、折角再会できた情人・福沢諭吉と同じ時間を楽しめたらと慨嘆するばかりなのだ。諭吉は花をどう観るだろう?いつぞや紅葉狩りをした際には、一風変わった楓の解釈を語ってくれたものだ。諭吉の目には、余人には見えぬものの価値が映るらしい。見たまま以外を考えもしない隠し刀にとって、彼の考えは常に刺激的である。花弁がついた情人は可愛いだろう。長州藩の花見で、高杉晋作が芸者の髪に生花の簪を飾って遊んでいたが、あれが諭吉だったらと想像していたものである。一世一代の機会は失われ、また来年のお楽しみへと先延ばしされてしまった。
しかし、世情は自分に安穏な来年を約束してくれるだろうか。ここ三年を振り返っても、来年の今日も同じ春の日だと呼ぶのは難しいように感じられる。さくら紙をちぎって花びらでも作って撒いたらば、いくらか風情が出るかもしれない。大事なのは花ではなく、隣に大切な人がいることだと背筋を正すも、勢いは削がれたままだ。
「ただいま」
しょぼくれた姿勢で勝手知ったる勝邸の裏手から庭先に入り込み、ついで縁側から上がるという不調法をしてしまう。日中は庭に面した雨戸が豪快に全て開いているので、こちらの方が堅苦しくなく訪れやすい。せめてものけじめで腹に力を入れて挨拶をすると、文机に向かっていた諭吉が軽やかな声で迎えてくれた。パッと明かりが灯るように色づく顔に今日も出会えて嬉しい。
「お帰りなさい」
「おう、帰ぇったか。って、なあ、ここは俺の自宅でお前さんの家じゃないんだぜ」
居着くんだったら最初からそう言やあ考えようもある、と文句を言いながらも家人に茶を入れるよう頼んでくれるのは家主の勝である。屋形船に乗り込んで暗殺しようと仕掛けた人間を雇い入れるだけあり、実に懐が広い。さて軽口で幕府の傘下に入ることを決めて良いものか。思案しかけるも、頭は先ほど襲いかかった後悔でいっぱいのため、一大事を考える気分ではなかった。捕まえ損ねた季節が惜しい。いつか返事をするだろうと棚に上げ、隠し刀は無作法を詫びた。
「すまない。差し入れに来たんだ。篤姫から頂戴した、甘薯の煮付けだ」
「は、そいつは光栄な代物だな」
風呂敷に包んだまま、漆塗りの重箱を渡せば、勝は神妙な所作で受け取った。一礼をして、受け取ってから家人に渡す。命じられずとも、家人は勝と同じ所作を繰り返した。この家は心底幕府の下にあるのだ。生活の隅々に江戸徳川幕府の歴史が深く根付いている。幕府によって故郷や家族を根絶やしにされた自分とは大違いだ。異国の文化を見るような心地で眺めやり、隠し刀は諭吉はどうだろうかと勝と同じ幕臣に目を向けた。
「篤姫、ってまさかあの将軍家の……はは、冗談ですよね?」
流石は神仏さえも非科学的だと一蹴するだけあり、恭しく振る舞うことはしない。が、一介の物騒な経歴を持つ流浪人と雲上人(一応隠し刀も篤姫が市中で出会えないことは承知している)の繋がりを信じられないのか、諭吉は唇の端を引き攣らせて曖昧な笑顔を浮かべていた。
「あのがどのかはわからないが、篤姫が目の前で作ってくれたものだから本物だとは思う」
「なんでい、お前さん福沢に説明してなかったのか。こいつはよ、薩摩がごたついた折に篤姫様を守ったって過去があるんだ」
恐らく諭吉が必要とした説明を勝がテキパキとしてくれるので大助かりだ。どうにも自分の言葉は足りず、明後日の向きを行くこともあるようなので、世話焼き男の言が添えられるくらいで丁度良い。とは言え承服できかねるのか、諭吉は隅に置けませんね、などとぶつぶつ溢していた。本物であると信じてもらえたならばそれで御の字である。
「成り行きでな。今日はサト姫――篤姫の飼っている猫の友達を連れて行った礼に煮付けをもらったんだ。勝にも食べて欲しいと仰っていたぞ」
「おうよ、ありがたく頂戴するぜ。そうだ、龍馬が置いて行った金鍔と一緒におやつとしよう」
日本橋の高名な店で手に入れたという金鍔は、手のひらほどもある大きくどっしりとした代物だそうだ。甘いもの好きの勝にはたまらないのだろう、いかにも待ちきれぬ様子で自ら取りに行く軽妙さが面白い。勝は幕府内で今や飛ぶ鳥を落とす勢いの出世頭というが、自邸にいる時の気やすさからは到底結び付かなかった。一体どうやってあの井伊直弼が躾けてきた連中を差配しているのか、化粧研ぎの修行を馬耳東風で流していた隠し刀には理解できようもない。ただ、諭吉が置かれた場所が彼の下で良かったと思うまでだ。たったと軽い足音が去ってゆくのを見送っていると、情人がポツリと呟いた。
「あなたは時々、本当に不思議な縁を結びますね。あなたと過ごしていると、わらしべ長者は本当にいたのではないかと御伽噺を信じてしまいそうです」
「すまない、諭吉。わらしべ長者とは誰だろうか」
「おや、ならば寝る前に話しましょう。それよりも、あなたの話です。何か、僕に話したいことがあるのではありませんか?」
「む」
うまくはぐらかされたようだが、寝る前に、という枕詞の魅力に負けて押し黙る。加えて、諭吉が自分の些細な変化に注意を払っているのだから文句のつけようもない。心がくすぐられるに任せて、情人の顔をじっ、と見つめた。脳裏に季節の移ろいを思い浮かべて、なんとかそれを目の前の風景に重ね合わせる。合わさるようで合わさらず、偽物の美人画は瞬く間に化けの皮が剥がれてしまった。
「ここまで歩いてくる道中に、もう夏が近いことに気がついたんだ。花見の季節は終わってしまったのに、今になってお前と行ってみたいと思ってしまった。悔しいな」
「悔しい、って……もう!あんまり可愛いことを言わないでくださいよ。僕なんて、花見自体をすっかり忘れていました」
「米国では花見をしなかったのか?」
「向こうに桜の木はありませんからね。桜だと思ってよくよく見たら、扁桃(アーモンド)だった、なんてこともありました。そうそう、扁桃の種子を燻すと、ウヰスキーによく合うんですよ。つまみの定番なんです」
きっと美味しかったのだろう、記憶をたぐる諭吉の表情はすっかり綻んでいる。限りない西洋への憧れを嗅ぎ取り、隠し刀は目を細めた。きっと諭吉は再度米国へ赴くだろう。己を確かめるため、また更に新たな知識を得んとするために。崇高な目的を持たずして、ただ単純に同道したいと願うのは強欲だろうか。失った花だけでなく、捕えきれなかった時間の全てが欲しくなる。もっと諭吉の顔をよく見ようと近づき頬に手を当てようとしたところでどすどす、と荒い足音が響いた。不自然にならぬようまた離れる自分を追う、名残惜しさに満ちた顔を見た、それだけで十分な成果である。
「待たせたか?」
果たせるかな、足音高く登場した勝に、二人は揃って首を振り、茶卓の場所を作った。家主が運んできた盆の上には、朱塗りの皿に甘薯の煮付けが黄金色の輝きを放って鎮座していた。いかにも縁起が良くて賑やかな色合いだ。続いて手伝いの小僧が山盛りの金鍔が載った菓子鉢を置く。こちらは青い波模様が描かれており、黒々とした金鍔の艶やかさが一層引き立つようであった。そこへことりことりと女中が湯呑みを並べる。てんでばらばらの柄で、使えるものを無理やり寄せ集めたかのようであり、それでいて不恰好には映らない。勝には人を見る目同様、物を見る目があるのだろう。
渡された小皿に箸で取り分け、楊枝を刺すまでが様式美だ。勝は各々好きにさせる端で、湯呑みに湯を満たして行った。てっきり茶を入れると思っていただけに、匂いから酒ではないとわかる透明な液体に思わず首を傾げる。すると、あ、と小さな声が隣で上がって湯呑みの中を見るよう促した。
「花だ」
萎れたような花弁が、湯の中で少しずつ体を伸ばして時を戻してゆく。ふわりと広がる姿は樹上にあるものとは比べるものではないが、紛れもなく春だった。揺蕩う湯に花の香りが漂う。桜の葉だ、と悟った瞬間心の中に風が舞い込み、我しらず隠し刀は諭吉と顔を合わせていた。花見だ――文字通り、時間を取り戻しての宴の始まりである。
「ちょいと洒落てるだろう?桜の塩漬けをもらったのを思い出してな、塩っ辛えのが甘えもんに合うんだよ」
桜湯と言うらしい。なるほど、口に含めば塩と桜の葉の味が広がる。勝に倣ってすかさず金鍔を頬張ると、塩気が重く誠実さに満ちた甘さと手を取り合って飽きが来ない。交互に食べれば腹がはち切れてしまいそうだ。諭吉はと見れば、こちらは甘薯から頂戴したようで、黄金色の山を品良く少しずつ切り崩していた。眉根を寄せつつも美味しいのか、気難しさが少しずつ綻ぶのは花が開くのによく似ている。
「良いお花見だな。ありがとう、勝」
「お互い様だ。甘薯の甘さが染みるよ。篤姫様にも御礼を申し上げてくれ」
「ええ、美味しい煮付けです。この甘薯は、母が作ってくれた煮付けを思い出させます。とは言え、僕の実家では然程砂糖を入れていませんでしたがね」
諭吉が言わんとする意味を、隠し刀は朧げながらに理解できた。篤姫は高貴な身分でありながら、彼女が手ずから作る料理は温かで素朴な家を思い起こさせるのだろう。家らしい家を持たなかった自分でさえも温かな過去があったかのような錯覚を抱かせる、不可解で心地良い妙技である。篤姫に作り方を教わったものの、恐らく同じ味にはできるまい。家を知らぬものが作る味が、家を想わせるはずがないのだ。では、諭吉ならばどうだろう?
「なあ、諭吉。今度、一緒に煮付けを作らないか」
「承知しました。僕で良ければ、喜んで」
意図が掴めぬのか、瞬きを繰り返す仕草に胸がざわめく。あれもこれもやりたいな、と無限の欲と後悔が同時に湧いて忙しい。あらゆる当たり前が貴重だ。ず、と桜湯を啜る。吸い寄せられた春の名残は、淡い苦さを舌に残した。
〆.