枝を惜しむ もう朝である。障子を通り過ぎた陽の光に瞼をぴくりと動かすと、諭吉はうっすらと浮かび上がっていた意識を完全に現実へと上陸させた。つい先ごろうたた寝をしながら書物を読んでいたつもりが、いつの間にやら轟沈してしまったらしい。やるべきことは山積していると言うのに、ままならぬものである。光陰矢の如しというが、このところは本当に年中時間が勝手に体を通り抜けていっているような気がしている。国全体が大きなうねりの中にあって、置いていかれぬためには必死で鮪のように泳ぎ続けねばならない。
無意識のままに簡単に身支度を整え、ここが勝海舟の邸だということを再認する。要するに仕事で一日を食い潰したのだろう。どこを向いても自分くらいしかできないだろうという未来が転がっているので、少しも気の休まる日がない。顔を洗ってもしっくりしないので、朝食を終えたら(もちろん太っ腹な勝であれば出してくれるに決まっている)朝湯に行って仕切り直しを図ろうか。鏡を見て、自分の髪を整え直し――諭吉は鏡の端に写った相手に会釈した。
「おはようございます。今日は早いですね」 「おはよう、諭吉」
鏡越しに挨拶を返した男は、諭吉の情人である隠し刀だった。自分の整えたばかりの髪と正反対に、今日の彼は髪を下ろして何やら普段と様子が異なる。歪さを読み取って振り向くも、ぼんやりとした頭はまだうまく判断をつけられなくて諭吉は呻吟した。何かがしっくりとこない。そば近くに座った隠し刀もまとわりつく視線には感じているようで、照れくさそうにぎこちない笑みを浮かべた。
「朝一番で申し訳ないが、お前に頼みたいことがあって来たんだ。今頃ならば起きているだろうと思って」
藩邸の自室ではなく、勝邸から足を運んだあたり、情人の自分に対する理解力の深さが窺える。それに反して自分はどうだろう。下ろされた相手の髪に手を当てて、そのまま指で遊ばせているうちにはたと空を掴んで諭吉は首を傾げた。胸がヒヤリとする。
「あなた、髪をどうしたんですか」
「少し油断してしまったんだ」
話せば少々長くなるが、という隠し刀の声を耳にしながら、諭吉は何度も指で相手の髪を確かめた。右手で触れて、左手では触れないもの。ざくりと刈られた、お世辞にも手入れが行き届いたとは言えない髪は、左右で長ささえ均衡を欠いていた。
「昨日御前試合に参加して、勝ち抜いた最後に上様の頼みで追加で勝負をすることになった。真剣での勝負だ」
「ではこれは相手に?」
ほんの少し、左手を右に移動させる。ちょうど首のいい角度、跳ね飛ばすには最良の位置だった。もし、切先がここに届いてしまったらば――ゾゾっと背中に怖気が走って、諭吉はぶるりと体を震わせた。
「真剣勝負と言われたが、殺さずにどこまで相手をするかを考えていたんだ。傲慢だろう?向こうは真剣だった」
怪我をさせるか迷ううちに、鋭い一撃が飛んだのだという。避け方を少しでも間違えれば、相手もただでは済まない。思案した結果、犠牲になったのは隠し刀の髪だった。恐らく彼にとってはいっそ殺した方が簡単だったに違いない。素性も腕も気性も知っている諭吉は、彼が秘した心の揺らぎを推測って手のひらを湿らせる。
「お相手は無事ですか」
「怪我ひとつないさ」
やり切った、というように男の表情は澄み渡っている。殺さず、怪我をさせず、ついでそれなりに歯応えのある戦いがなされたのだろう。相手は相当の手だれだったに違いない。ご褒美でももらったんですか、といえば、もらったかもしれない、と実に頼りない返事をされたものだから諭吉は思わず髪を掴んだ。
「なんです、そんなあやふやな!あなたは死にかけたんですよ」
「痛っ」
ピリリとした鋭い声にパッと手を離せば、くすくすと笑って逆に手を捕まえられる。制されたお陰で、さして強く力を込めずに済んだらしい。僅かに開いた自分の手のひらに髪の毛が数本残っているのを見てとり、諭吉は相手の頭から血が出ていはすまいかと訝しんだ。罷り間違えれば頭皮を剥がしかねない。
「流れで仕方なく戦っただけだから、褒美と言われてもすんなりと受け入れられなくてな。勝が後でくれるらしい。……まあ偶然とはいえ、相手の度量を測れて私も十分満足した」
勝の手配であれば、漏れなく何かは頂戴できるだろう。幕府の懐具合は承知しているものの、身命を賭した戦いに見合ったものであって欲しいとは思う。隠し刀が五体満足で、ついで心も充足したのであれば、諭吉に異論はない。流れとはいえ、ホイホイと悪戯に己の身を投げ打たないで欲しいと願うものの、自分も危ういことに引き込んだ覚えがあるため、あまり強くは言うまい。こうして自分の元に戻って、言葉を尽くしてくれる誠意を諭吉は受け入れた。
「自分を負かす相手がいたことを喜べるほど器が大きい人ならば、諭吉が夢を叶える力になってくれるだろう?安心したよ」
それが誰かは言えないのだが、と隠し刀は言葉を濁した。きっと大層な御仁が相手だったのだろう。想像すれば簡単に辿れそうだが、諭吉は敢えて取りやめた。流れで仕方なく戦った癖に、ちゃっかり自分と関連付けていたという事実が只管に嬉しい。
「……良かったですね。それで、僕に頼み事とはなんでしょう」
「うん」
懐に手をやり、隠し刀はちょこんと小さな鋏を取り出した。掴んでいた諭吉の手に握らせると、己の髪を指し示す。
「私の髪を切ってくれないか。左右同じになるように、整える程度で構わない」
「承知しました」
なるほど、と虚空を掴む。わざわざ日を跨いで自分に会いに来るまでの間、彼は一体どれほど迷ったのだろうと想いを馳せる。結構な量を失っているのだ。左右同じと言えども、斜めに切れた分をもう片方も、となると随分風通しが良くなるには違いない。
迷ってくれている。諭吉の手が頼りなげに彷徨う様子に、隠し刀は申し訳なさと喜びとがないまぜになって、胸が押し潰されそうだった。情人が自分の失った一部に、自分以上に惜しむ気持ちが漣のように押し寄せてきている。囲いを解いて離れると、いつもの場所に勝手にまとまっていた反故紙を掴んで床に敷く。その上に座って待つと、吸い寄せられるようにして諭吉が背に張り付いた。むわっと湿り気を帯びて伝わる匂いに、まだ風呂に入っていないのだと気づいて唇の端が上がる。昨日も遅くまで職務に励んでいた姿が容易に想像された。
御前試合の後、髪型がおかしなことになった件で徳川慶喜やら勝海舟やら、周囲の人間がなんやかやと世話をしようとしてきたが、隠し刀は全て跳ね除けた。自分で体裁を整えるくらいは朝飯前である。それ以上に、他人が刃物を持って自分の背後に立つことは避けたかった。身に染みついた悲しい性と言えよう。十分にもてなされて帰宅を果たし、髪に手をやって――結局何もせず、まんじりとしないまま朝を迎えた。ただ頭に思い浮かんだのは、たった一人の許せる相手の顔である。
「諭吉、頼む。お前にしか頼めないんだ」
「あなたは全く、そんなことばかり言って」
だめですよ、と言いながらも上向いた声色に胸がくすぐられる。真実だと伝わっているのかわからないが、相手の気を楽にさせるために言葉を重ねた。
「本当だぞ。なんなら、丸坊主にしてくれたって良いんだ。髪型なんざ、鬘をかぶればどうとでもなるからな」
「駄目ですよ」
ゾッとするほど冷たい声に慄く。一体何が気に障ったのだろう?髪の毛の長さを測るように手を動かしながら、諭吉はすいー、っと鋏を滑らせた。
「あなたを減らすだなんて、僕は嫌です」
「爪は切るのに?」
いつぞや爪を手ずから切ってもらったことを思い返しながら言えば、あれは切らねばなりませんからとさらりと言い逃れられる。
「僕も髷は切りましたから、髪を切ること自体には反対しません。ですが、面倒がって全てをなくすことには反対です。第一、髪が頭に生えているには生きるために必要だからでしょう。暑さ寒さを凌いでくれる、大事な役割がありますし」
いつまでも生えるつもりでいたらば間違いであると付け加えられれば、ぐうの音も出ない。確かに諭吉の言説には一理あった。自分は相当に良い鬘を作る自信があるものの、僅かながらの己を惜しみ、懸命に訴えんとする情人の姿は岩をも穿つ。じ、じじっと髪が切れて宙を舞う。さして時間もかけず、ちょいちょいと最後に切れ込みを入れて諭吉は鋏を離した。
「おしまいです。鏡をご覧ください」
「流石だな。見栄えがいい」
鏡台に背を向けて座り、手鏡に後ろ姿を映せば、左右同じ長さに切り揃えられた髪が靡いていた。そのまま結い紐で結んでも、形は変に崩れることがない。惜しんだからには、ひょっとすると殆ど切らないのではないかとも思ったが、存外思案して整えてくれたらしい。こざっぱりとした首筋を撫でると、隠し刀は改めて礼を述べた。
「ありがとう。諭吉に頼んで良かった」
「どういたしまして」
散らばった髪の毛を諭吉が紙にまとめ、なぜだか屑籠でなしに書物の上に置いた。またぞろ何かしようと言うのだろう、隠し刀は追求を放棄した。たかが枝一本、されど枝一本、枝葉末節さえも大事にしようとする姿勢にはいじましささえ覚える。
「今度、私に諭吉の髪を整えさせてくれないか」
「構いませんよ。そうだ、朝湯に行きませんか?少し休みも取りたいですし、髪は切った後の手入れが重要とも言いますしね」
「それは重要だな」
何しろ自分はまだ丸坊主にする予定ではないのだ。あれこれ考えて疲れた相手を労いたいと快諾し、隠し刀は改めて自分の髪先に触れた。無意識に、以前の長さまでに手を伸ばして虚空を測る。
御前試合のおまけの一戦、頭を下げた先に公方様が不在であることはすぐさま解った。試合を所望した相手が観ていないはずがない。ならばこそ、目の前の人物こそは公方様その人だと推察し、その無謀さをひどく惜しんだ。征夷大将軍は幕府の頂点、諭吉が夢を叶える職場の最上位である。彼が思うままに走るためには、黒洲藩にとっては不幸であろうとも大器を持つ人物が望ましい。悪戯に身を擲つ無鉄砲さは不要だろう。自分が度々その節悲しませてきた身の上なので、痛ましささえ覚える。
失った故郷のことや、捨て去った自分の出自については刀に乗せなかった。腕を振るって迷ったのは、ここで相手を怪我させ、殺すことが正しいかどうか、ただそれだけである。生半な腕前では真剣勝負なぞ出来はしない。一方、情人の将来を案じる上では、痛い目くらいは見せた方がいいのではないかとも思う。慢心だった。傲慢にも勝負なぞはなから棚に上げている。
一合、二合と打ち合って、上の空を突いたのが、髪を切らせた本気の一撃だった。避けなければこの身が危うかった。真剣勝負、なのである。殺し合いとはまた違う危うさに肝を冷やしながらも、隠し刀はそれでも正しさが分からずに煩悶した。殺さず、互いに怪我をせずに終えられたのは快挙といえよう。
「……やはり、気になりますか?」
「逆だ。これから先もしてもらいたい、と思うほどに気に入っている」
記憶を反芻しているうちに、玄関先まで出てしまっていた。髪を撫でていた手を下ろすと、もの思わしげな情人に首を振る。
「そうだな、痛快という奴だ」
「なんですか、それ」
不安が苦笑にとって代わり、朝の空気が甘くなった。彼には妄言に聞こえるだろうと、承知した上での発言である。真剣勝負に負けたことが痛快ならば、本来の仇敵を殺さずに髪を失ったこともまた、痛快だ。転じてどちらも幸福に通じる。慶喜の場合は途方もない日本の未来という大計であり、自分の場合は諭吉との安寧というささやかなものである。
さらりと諭吉首筋をなぞる。くすぐったさに完璧な笑い声を上げる情人は愛らしい。彼の髪をどんな風に整えようか?短くもふわふわとして、艶やかな髪を指先で弄ぶ。ちょっとでも損ねれば、この完璧な均衡が崩れてしまうようで、隠し刀は珍しくも自分の腕前に不安を抱いた。髪の毛一本、されど一本。
その一毫は何よりも尊かった。
〆.