星渡 折からの長雨は梅雨を経て、尚も止まぬようであった。蒸し暑さが冷えて一安心、と思ったが、いよいよ寒いと慌てて質屋に冬布団を取り戻そうと人が押しかけたほどである。さては今年は凶作になりはすまいか、と一部が心配したのも無理からぬことだろう。てるてる坊主をいくつも吊るして、さながら大獄後のようだと背筋が凍るような狂歌が高札に掲げられたのは人心の荒廃を憂えずにはいられない。
しかし夏至を越え、流石に日が伸びた後はいくらか空も笑顔を見せるようになった。夜が必ず明けるように、悩み苦しみというのはいつしか晴れるものだ。人の心はうつろいやすく、お役御免となったてるてる坊主を片付け、軒先に笹飾りを並べるなどする。揺らめく色とりどりの短冊に目を引かれ、福沢諭吉はついこの前までは同じ場所に菖蒲を飾っていたことを思い出した。つくづく時間が経つ早さは増水時の川の流れとは比べるまでもなく早い。寧ろ、歳を重ねるごとに勢いを増しているかのように感じられる。
「お願い事は何にしたの?」
吹き流しを弄っていた少女が、短冊を結ぶ少女にかける声が耳に優しく響く。まだ神仏を疑わずに頭から飲み込んでいるあどけなさを嘆かわしいと評すべきか、愛すべきと微笑むべきか。原始的な迷妄なぞ少年時代に踏みつけたというのに惑う己に驚くうち、少女の願いは遠くにちぎれて行方知れずだ。大人の足は無意識のままに目的地へと向かっていて、朝顔を植えた鉢が整然と並べられた民家の前へと辿り着く。
愛しい情人である隠し刀の家なのだが、実はこの訪問が初めてであった。諭吉も隠し刀も、さながら実家の如く勝海舟邸に入り浸っているので、互いの家を行き来する必要がまるでなかったのである。それでも一度は訪ってみたいと強請ったところ、ならば家で待っていよう、と綻んだ情人の唇からチラリと覗く歯がありありと思い出される。他人の家でなしに寛ぐことは、様々な可能性を秘めているだろう――そんな気持ちで戸口に立つも、ハタハタと叩くべき扉は大きく開け放たれている。
「お邪魔します」
物騒な理由でなければ良いのだが。迎え入れられているはずであるが警戒心を高め、諭吉はそろりと中に入った。と、拗ねた濁声が奥から上がる。
「そんなに切れ込みを大きくしたら落ちるだろうが。わかっちゃいねえなあ」
耳馴染みのある物言いは、横浜で幾度も顔を合わせた権蔵らしい。誘われるままに縁側に出れば、権蔵と情人は横浜の時のように並んで手を動かしている。散らばる緑は笹の葉で、どうやら細工物を作っているらしい。
「さあ。存外早く流れるかもしれないぞ」
「へ、言ってらあ」
「おや、笹舟ですか?懐かしいなあ」
掛け合いも一度聞けばもう限界で、諭吉はたまらず声を上げた。隠し刀がへにゃりと相合を崩す。人の気配に敏感な男のことだ、自分が来たことくらいはわかっていただろうに無視をしたのだろうか。あるいは安穏とした日々に鈍ったのか、どちらの可能性もあって欲しくはなかった。向っ腹を立てるのは見当違い、何も二人きりで会う約束ではなかったと思い当たるも恨めしい。鼻を鳴らして二人の間に陣取ると、板間の上に大小様々な笹舟が隊列を組んで出港を待っていた。
「店子に配って欲しいと、大家から頼まれてな。権蔵がその道の腕利きだと聞いて二人で作っていたんだ。もうすぐ終わる」
「夜に蛍を眺めながら大人は酒だ。その間に子供に遊ばせるんだとよ」
「良い趣向ですね」
ただの願い事を飾るよりも実がある。残り数個だというので、諭吉も笹の葉を奪うようにして舟を編んだ。切れ込みを入れ、結って強度を確かめる。作るのは数十年ぶりになるが、存外手は覚えてくれていたらしい。迷うことなく建造された舟は、朋輩たちに負けず劣らずの出来である。今すぐにでも川に流して競いたい気持ちをグッと堪えると、権蔵が差し出した手桶に並べた。全ての笹の葉を収めると、権蔵が立ち上がって手桶を持った。
「じゃ、またな」
「大家によろしく頼む」
鷹揚に答える隠し刀の様子を怪訝に思う間も無く、権蔵は当たり前のような顔をして一人で去ってゆく。どうやら彼が大家に届ける役割を担うらしい。
「すまない、諭吉。待たせてしまったな。諭吉が訪れる前に仕上がると鷹をくくっていた。久々だと手が遅くなるな」
「いえ、気に病まないでください。久方ぶりに作ることができて、僕は楽しかったですよ」
それに加えて、ひどく気が楽になっていた。長らく会っていなかった権蔵が少しも鯱張らずに去ったこと、縁側に並んで見上げる空の青さ、庭に揺れる薬草の緑、何もかもが横浜に居た頃のままで、時間が止まっていたかのように錯覚される。自分は上手に泳ぎつけただろうか?時の流れに抜き手で力強く泳いでも、ふとした折に気が逸り、焦りが滲み出る。
じわりと皮膚から汗が滲み出る。ふと、銀河を泳ぎ渡ろうとして流された牽牛の姿が思い浮かび、諭吉はその冴えざえとした夜空の冷たさに、束の間暑さを忘れた。さああ、と風が庭に舞い込み開けたきりの玄関口を出て行った。なるほど、扉はこのために開かれていたのだ。軒先に吊るされた風鈴がりりと鳴り、涼しさが広がる。
「暑いなあ。暑さ寒さが堪える時は歳を重ねた証だと勝が話していたのも頷ける」
「ふふ」
手拭いで額の汗を拭う隠し刀の横顔は、どこにでもいる人間そのもので、人殺しの道具であったとは信じ難い。彼の生臭さに、過去からまた一つ自分に近づいてくれたのだと喜ぶのは不謹慎だろうか?他人の老いを喜ぶのは矢張り人道に外れた思いかもしれない。
「研師や片割れが聞けば怒ると思うが、実のところ気分が良いんだ。感覚が鈍るのも、人並みに暑さや寒さを感じられるのも――諭吉と同じ気持ちになれるということだろう?」
「呆れた人ですね」
折角涼を得たと言うのに、灼熱の太陽に焼かれたかのようにカッカと体が火照り出すのだから参ってしまう。ばん、と板間を叩くと隠し刀の瞳が微かに揺らぐ。いっそ勝利に酔う驕りまで抱けたらば完璧だろうに、ただ不安の淵に止まる男は実に愛しい。全くこれだから――
「あんまり僕を誑かさないでください。暑さがぶり返してしまったでしょう」
「ん、悪かった」
川遊びに涼みに出かけよう、と誘い出す隠し刀は至極純粋でくらくらしてしまう。この暑さでは正常な判断を下す方が難しい。どうせいつでも会えるのだ、会えなかったとしても牽牛と織女よりも気楽な別離だろうし、カササギの助けなしにお互い星屑を捌き切るだろう。やむなく立ち上がると、せめてもの意地で腕を掴む。往来に出れば手放さなければならぬ俗世が馬鹿らしい。
「そういえば、七夕の願いは何かしますか?」
「一つだけ」
短く言い切ると、隠し刀は片目を下手くそにつぶって見せた。
五色の短冊が往来を賑わせる。川遊びに向かう道中、隠し刀は人の思いを盗み見ていた。趣味が悪いと理解しつつも、なかなか拝めぬ人間の心情が吐露されているのだ、学びを得たいと励むのは身についた隠し刀の本分と言えるだろう。いつぞや諭吉も過去の悪行として、お宮で願掛けを盗み見たと言う。似たもの同士、気が合って良いことだ。
七夕は織女にあやかるために、技芸の上達を願うものが多い。手習、琴、鞠に茶道。俳句を願った人は相当に苦労しているのか、字にも大いに難があった。時折千々にもつれた思慕が垣間見られるのは、織女と牽牛の逸話に思いを重ねている向きがあるからだろう。知識として、隠し刀も昔語でのんびりと幸せを貪った二人の話を知っていた。二人で過ごす時間が楽しいあまりに余所事を丸切り放り投げられる放埒さを昔は呆れたものだが、今は微かに羨ましい。隣に並ぶ人が謹厳実直でなければ誘いかけたいほどに隠し刀は日常に焦がれていた。
「人事を尽くして天命を待つ、だな」
「何か言いましたか?」
「ああ、願い事について考えていた。おっと、諭吉にも良い話だぞ」
「僕にも、ですか」
すぐさま釣り出せる情人は幼さを漂わせていて、隠し刀は自分が悪い大人になったような気がした。実際、誑かすなと嗜められたばかりである。彼の指摘は尤もで、隠し刀はいつだって機会があれば呼び水を撒こうとしていた。唇の端を持ち上げ、だが神妙さを保ったままで情人の耳に秘め事を流し込む。
「西洋式共寝の手技を極めたいと願っているんだ。良い師がいないものだから、諭吉には苦労をさせているだろう?」
「……良い師が見つかる前に笹ごと燃やしますよ。どこに飾ったんです」
「さあ、どこだったかな」
空惚ければ、むすくれた情人が歩みを速める。そんな調子だから目が離せないのだ。笑って袖を捕まえて、今度は自分の方から走り出す。冷たい水が歓迎してくれるのは、もうすぐそこだ。
『諭吉の気持ちを、より多く理解できますように』
人並外れた願いは、心の中の笹に飾ってある。ぎらつく太陽に澄み渡った夜空を期待して、風に乗った。
〆.