答え 今年も春は鬱陶しいほどに浮かれていた。だんだんと陽が熟していくのだが、見せかけばかりでちっとも中身が伴わない。自分の中での季節は死んでしまったのだ、と隠し刀は長屋の庭に咲く蒲公英に虚な瞳を向けた。季節を感じ取れるようになったのはつい数年前だと言うのに、人並みの感覚を理解した端から既に呪わしく感じている。いっそ人間ではなく木石であれば、どんなに気が楽だったろう。
それもこれも、縁のもつれ、自分の思い通りにならぬ執着に端を発する。三年前、たったの三年前に、隠し刀は恋に落ちた。相手は自分のような血腥い人生からは丸切り程遠い、福沢諭吉である。幕府の官吏であり、西洋というまだ見ぬ世界への強い憧れを抱く、明るい未来を宿した人だった。身綺麗で清廉潔白なようで、酒と煙草が大好物だし、愚痴もこぼす、子供っぽい甘えや悪戯っけを浴びているうちに深みに嵌ったと言って良い。彼と過ごした時間に一切恥はなく、また彼と一緒に歩んでいきたいともがく自分自身は好きだった。
だが、全ては過去であり、再び縁が結ばれるかは定かではない。人と人が再び巡り会えるのは、必定ではない。会おうとしなければ会えないものなのだ。今や諭吉は洋上に出、既に大陸の人となって久しい。米国に行くまでの間にはちらほらと文のやりとりをしていたものの、船が出た後はどうすることもできなかった。とうに覚悟はできていた――直接顔を合わせることが叶わぬまま、一年が過ぎた後だったのだ。
月日が、海が二人を隔てたのではない。遠くあって想い続けることは可能だし、実際今でも隠し刀は諭吉を想っている。満開の桜に、彼と散歩したことを思い出し、友と酌み交わす盃の中に、彼に取ってやった月を見出す。生活の一つ一つ、季節の移ろい全てが思い出に満ちており、まだ経験し得ぬ日々と繋がっているのだと感じることは、当初喜びでさえあった。
未来に期待し、希望を持てていたのだ、と今ではよくわかる。それがどうだろう?今では、すっかり全てが遠く隔たっていた。
「暗いのう」
声をする方へぎこちなく顔を向ければ、坂本龍馬が草鞋を脱ぐところだった。粗雑だが、何も言わずに長屋に上がり込む無作法な人間ではない。恐らく何度か外で声掛けしたのではあるまいか。億劫ながらに口を動かすと、龍馬はそうじゃ、とやはり塩辛い表情で受け合った。どうやら、燦々と差し込む春の陽光に影を見出したのは、自分だけではないらしい。
「横浜にいた頃とは大違いじゃ。さっきも、通りで岡っ引きが浪人を捕まえちょった。ちっくとでも疑われでもしたら、すぐ引っ立てられる。息苦しい時代になったのう」
こんな未来になるはずではなかった、と龍馬が深くため息をつく。辛気臭い会話ではあったが、泥濘になった自分の思考を彷徨うよりはずっとましだ。第一、自分以外にこの気ぶっせいを理解できるのは龍馬を置いて他にない。途中酒屋に寄ったのだろう、龍馬は徳利を掲げて戯けるように揺らして見せた。
「どいてこないな状態になったのかのう」
どっかりと隣に座り込むと、黙って酒を飲み始める。徳利を直接口につけてぐいぐいと勢いよく飲む様は意気盛んだが、その癖全く覇気はない。龍馬の長所はその海を思わせるゆったりとした心構えや、人懐こさにあるのだが、そのどちらもなりを潜めていた。暗い海は全てを吸い込むような魔性の気配がある。片割れと黒船に乗り込んだあの日の海は、人生の中で最も暗い色を宿していた。
「……以前から、少しずつおかしくなってはいたと思う」
黒船の到来、コロリの流行、幕府と異国とのぶつかり合い、それに口を挟もうとする者たちへの容赦ない弾圧、隠し刀はその全てを横浜にたどり着くまでに見聞きしている。黒洲藩の中にいた際には日本全体の情勢など無関係に過ぎゆく空模様だったが、片割れを探して全国を行脚するうちに、せめて世間の変化くらいは理解できるようになったいた。
それを己のことだと認識したのは、ひとえに龍馬や諭吉のような生身の人間たちとの結びつきに他ならない。人間、そう、
「吉田松陰が亡くなってから、私の周りがおかしくなる速さが変わった」
「ちゃ、ちゃ。松蔭先生の存在は大きかった」
一見、全てを一歩引いて眺めている風であった龍馬でさえも、吉田松陰という人物が引き寄せる力には逆らえなかった。隠し刀ももう少し早くに知己になっていれば、あるいは一緒に狂っていたかもしれない。ただの一人物で人生全てが変わるとは妙な話に聞こえるも、片割れを、諭吉を失った人生の節目を迎えた今では頷ける。
松蔭の死をきっかけに、隠し刀の周囲で最もおかしくなってしまったのは久坂玄瑞で、本来冷静さを売りとしていた桂小五郎や高杉晋作までも追随した。横浜で穏やかに、時に小さな衝突を交えながらも関わってきた隠し刀にしてみれば、その変化は到底受け入れ難かった。いつだって理由は片割れ探しにかこつけていたけれども、初めて得た友情に引きずられるのは流石に戸惑ってしまう。
前々から、彼らは暗く静かに狂気を育てていたのだろう。ほんの少し手を加えるだけで破裂してしまいそうな、危ういものをじっくりと熟成させてきたのだ。松蔭は起爆剤に過ぎないし、松蔭が理由にならなければ、いつか別の理由ができたに違いない。人の思いとは、目に映る一夜の花火だけではなく、積もり積もった今が詰め込まれて打ち上がったものとして見るべきだろう。
「赤鬼を斬っても、変わらんかったのう」
世の中どころか、気持ちが晴れることさえなかった。たかが死んだという肉薄した経験を伴い参加した襲撃事件が、ただ虚しさだけを与えてくれたならば、まだ良かったのだろう。虚しさを追い風にして走り出す熱狂の波に乗れず、飲み込まれる感覚は自分が自分でないようで気分が悪い。最悪なのは、それもまた自分が選び取った結果だということだ。
「あん時は、聞かんようにしちょったが……おまん、どいて赤鬼にとどめを刺さなかったんじゃ」
「ふ」
徳利を傾ける動きから、龍馬のソワソワとした気持ちが伝わっておかしい。心のどこかではずっと聞きたかったが、なかなか切り出せずにいたのだろう。猫のように忍び寄り、人の懐に入り込むのが得意技の男が自分には遠慮しているらしい。それほど大切に思ってくれていると自惚れてもいい事象だ。
「今更聞いてくれるなよ。橋の下で寝た時にでも聞いてくれれば、寝物語にもなっただろうに」
「寝物語はいつしたってえいもんじゃ」
空になった徳利をどんと乱暴に床に置くと、龍馬はゴロリと寝転がった。仰向けになった顔に差す陽光が、いつぞや逃げ惑った際に夜影を走った龕灯(がんどう)を思い起こさせる。脱藩をした時でさえ、ああも落ち着かないことはなかったものだ。横浜で過ごしていた日々のなんと穏やかで甘やかなことか!諭吉との日々は今となっては繊細な砂糖菓子のように得がたく儚い。
「……私は自分が正しいかどうか、わからなかった。今もわからない。わからないことはやらずに悩もうと思った、それだけの話だ。おかしいだろう?お前たちの目には、あの時しか好機がなかったように見えていたはずだ。私は違う。私は本当にやろうと思えば、一人でだってやってのける」
隠し刀は幕府に対抗する秘められた武力として作り上げられた存在だ。やったことはないが、江戸城に侵入しようと思えば侵入しただろうし、必要があれば誰であれ斬る。言葉を重ねるうちに思考は研ぎ澄まされ、隠し刀は瞼の奥に諭吉の後ろ姿を捉えた。人を斬る己を責める時の、その無意味さを詰る未来の希望である。ただ流されるだけであった自分でも、多少なりとももがこうとしたと言えるのかもしれない。
「これで安心して寝られるか、龍馬。英国公使館では随分辛そうだったな」
「そいはおまんもじゃろ。あー!考えても考えても、何にもわからん。難しうてかなわんき」
「考え続ければ、いつか答えは出るさ」
気を逸らすべく先日の一件を持ちかけると、龍馬は分かりやすく顔をしわくちゃにして嘆いた。英国公使館を焼き払ったのは、つい二日前のことである。半ばいつものように隠し刀は片割れ探しをするべく参加したのだが、図らずも後味の悪い結果を迎えるに至った。返す返す思うだに、如何に自分が周囲に目を配っていなかったかを痛感せずにはいられない。
確かに片割れはいたが、ろくろく話すこともできずに物別れした。残されたのは、理想のままに向けられた正義で傷ついた市井の人々だった。横浜と同じく、ここでも働く日本の人は多かったのである。彼らが何をしたというのか?異人を追い払うために、全く無関係の日本国民を巻き添えにするのは悪手だろう。戦としては大失敗だ。悪戯に民の間に不安をばら撒き、恐怖に震える彼らは攘夷志士が何を考えているかなど聞く耳を持たぬに違いない。
志も新しい日本の形も他人事である隠し刀を持ってしても、あからさまに自分が為した『悪事』が無意味な醜悪だと突きつけられる事実は堪えた。ラザフォード・オールコックの方が余程事実を客観視できている。自分たちは野蛮で、正義を振りかざすにはあまりにも縦に振る舞いすぎた。到底、諭吉に知られるわけにはいかない。彼は斬った張ったを厭うているし、隠し刀が何の意思も乗せずに加担した事実を軽蔑することだろう。合わせる顔がないとはまさに読んで字の如くである。何も知らぬ赤子ならばまだしも、今の自分は半ば引きずられて巻き込まれたとは言っても、他人の狂気を理解した上で手を貸したのだ。
横浜を追われ、点々と居を移して暮らすのは、横浜に居着く以前の生活と変わらない。ただ、残しておきたい繋がりがあって、自分で断ち切ってしまった痛みは今だに続いている。近所の住民には随分迷惑をかけてしまった。彼らには二度と会うまい。平穏な日々も甘い思い出も、今となっては遥か遠くだ。仲間ではなく、利害関係もない人々に温かな感情を抱く自分がおかしくて、隠し刀は瞬きを繰り返した。
「考えるといえば、おまん。まだあん先生のことを考えておるのかえ」
「私は一途だからな」
冗談めかして言ってのけるも、果たしてそうだろうかと首を傾げてしまう。二人がつながることのできた、心がつながっていることを確かめあえた時代の熱はない。記憶に対する愛着からか、生活に染み通った相手の面影を追いかけるだけの日々は、果たして同じ情と呼んで差し支えて良いものだろうか。彼を想っている瞬間に感じる心地良さを手放し難いのではあるまいか?
人でなしなりに、人並みに近づいたような、あの柔らかくくすぐったい湿り気を帯びた温度をもう一度手にしたいか、と言われたらば、間違いなく今こそ必要だと答えることができる。あれは夜露の冷たさ、頼るべき身分のない辛さを分かち合った友人では得られない喜びだ。諭吉の顔を一目見るや否や、たちまち思い出して手にしたくなるだろう。信じもしない神頼みまでして祝福を得ようとした関係に代わりはない。
ただ、今の自分は過去とは違う。無知のままにしでかして良いことの範疇はとうに過ぎ、またぞろ人でなしになってしまった。今度こそ、成り下がったのだと言い切ることができよう。自分が傷つけたのは、過去の自分自身だ。米国で夢を叶え、希望を育てた諭吉とは立場が違う。会いたい。だが、会って何を話そうか、どう反応しようか、彼とて過去の彼とは違ってしまっているだろうに――優柔不断な問いは今日も答えが出ぬままだ。
「吉原で、玄瑞が一席設けるそうじゃ。……公使館の焼き討ちが上手くいったお祝い、らしいぜよ」
「そうか」
玄瑞たちは何も恐ろしくないのか、と隠し刀は鼻で笑った。熱に浮かされたままでいられる人々が、心の底から羨ましかった。その勢いがあれば、迷わず諭吉を探しに海だって渡れるというのに――結局何もしていない。それでも何かをしている振りがしたくて、腰に釣った棒くないを揺れる蒲公英めがけて投げる。後ろに引くことなく、迷わず放ったはずの線は花びら一枚を掠めて地に落ちた。千切れた黄色の雫が霧散する。ふん、と龍馬が面白くなさそうにため息をついた。
「元気がないのう。今は、考えても仕方ないぜよ。パーっとやれば、少しは気分が晴れるかもしれんぞ。よし、おまんも一緒に行くぜよ」
「あ、おい!」
「行くぞ!」
突如としてやる気になった龍馬に引き上げられ、隠し刀は声を上げるも相手の瞳を見て抵抗をやめた。気持ちを切り替えようと行動を起こす活力は、まるで蒲公英のように溌剌として気分が良い。萎れさせるには惜しかった。彼の言い分ももっともで、鬱々としたところで今すぐ何かを変えることはできまい。肩を掴む手を振り払うことなく靴を履き直すと、隠し刀は友人と仲良く人間の街へと繰り出した。
何故、この国は煩わしいことが多いのだろう。酒宴に誘われ、吉原のとある遊郭に足を運んだ諭吉は、やむにやまれぬ事情とはいえ誘いに乗った己を恥じていた。いつもの通りに、体調が悪くなっただの、親兄弟に不幸があっただの、口先だけの理由はいくらでも積み上げられたはずである。事実、帰国して以来、諭吉は外聞が悪くなることもものともせずにすげなく断ってきた。
だが、今日の相手は一味違う。一つ船に乗った勝海舟からの誘いであり、米国の話をしてほしいと招いた人物は幕府の高官であるらしい。歯に衣着せぬ物言いをする勝には珍しく、相手の素性についてはぼやかして話していたが、今や幕府の推進力となっている男でさえも難儀する相手は数少ない。咸臨丸では散々剣つくした相手とはいえ、諭吉も非情ではない。むしろ、勝には――勝が手を組む相手には独り立ちできるようになるまで自分の後ろ盾になってもらう必要がある。
公明正大にお役所仕事から解放され、普段口にできぬ高級な酒や肴に舌鼓が打てると約束される機会は甘美に響いた。おまけに、宴席の主人と同伴者はただ物見遊山の手合いではなく、心底米国の新技術や国としてのあり方を身につけようという姿勢が垣間見得たのも心の慰めである。
「なるほど、米国では身分が定められていないのか。それでいて、民は治っているんだな」
洒脱な話し方の酒宴の主人は、端正な顔立ちで神妙そうにため息をついた。夢物語を聴いているような気分なのだろう。もう幾度も目にした反応を冷めた気分で眺めつつ、諭吉は恒例の口上を続ける。前向きに質問を投げてくる分、この相手は真っ当だ。
「身分というよりも、彼らは互いが持つ権利に従って互いを尊重しあっているようですね。雇われた人間であっても、本質的には同等の身分だと看做され、労働の交渉を行います。政府は彼らが選んだ代表者の集団ですから、ある程度民意が通じていると理解されているのでしょう」
「社会全体がお互いの約束を信じてるってわけだ。急に信じろと民にいうのは、難しい話だな」
「米国も今の形が成立するまでには長い時間を要していますからね。ただ、形だけでも変えて、人々を説得し続けるより他にないでしょう」
ほら、すぐに意気地を失ってしまう。どれだけ偉いご身分かは定かではないが、従来の世の中で美味い汁を吸った手合いにとって、諭吉の語る異国の流儀は到底受け入れ難い。諭吉自身、口先ばかりで何も変えられぬ己に歯軋りしてしまう。結局、自分はどれ程知識を詰め込み、咀嚼することができても、今日明日で人々に浸透させる力がない。
米国に出かけ、大陸の広大さを肌身に感じた。見渡す限りが大地で、何もない場所にも何かを詰め込んでやろうという国全体の野心が立ち上る様子は、思わず怯むほどに力強い。都市は目が眩むほどに人と技術、文化が育ち、どっしりとした石造りの建物群に守られている。その高さは目が眩むほどだ。都市の空気はひどいものだったが、地方に住み暮らす人々が目標とする理由は大いに理解できた。あれは文化の香りだ!
米国の人々は闇雲に夢を語っているのではなく、点と点を結ぶ鉄道に乗せられ気持ちを走らせているらしい。数珠繋ぎになった鉄の箱が一斉に動き出す様!大地が移動するような気分を日本で味わうには、相当時間を要するだろう。隠し刀にも、流れる異国の景色を見せてやりたかった。柄にもなく慌てふためくかもしれない。大丈夫ですよ、と宥めるやり取りまで想像したのは、もう随分遠くのことだった。
米国滞在中は刺激だらけで、その折々に音信不通となった情人の幻を思い返していた。故郷や家族とはまた違う、自分にとっての故国の宝物なので道理だろう。彼は今頃、横浜でどう過ごしているのだろう。片割れとは再会したのだろうか。別れた時のまま、自分を思い続けてくれているだろうか。一刻も早く自分が持ち帰った時間を伝えたいというのに、帰国以降は隙間なく公務に追われていて息つく暇もない。
否、隠し刀は横浜にいないのだった。先日会った飯塚伊賀七から、諭吉は情人が慌ただしく江戸に去ってしまったという現実を突きつけられている。隠し刀に会わなくなって、早三年が過ぎていた。片割れ以外にこだわる理由を持たなかった男が、今一度放浪するには十分な時間だった。
人が、再び巡り会うのは余程の偶然でない限りはあり得ない。伊賀七は、彼が江戸に移るにあたって居所を中津藩江戸邸に連絡してきたからこそ再会することができたのである。互いに会おうという努力をしない限り、起伏しを伴わぬ誰かと会うことはかくも困難だとはついぞ想像だにしていなかった。隠し刀の居所を諭吉が知らないように、相手は自分の帰国を知らないだろう。
絶望的な事実を突きつけられた諭吉を包んだのは、不可抗力という怠惰な安心感だった。もう二度と、顔を合わせることができないかもしれない可能性は重々承知しての出国である。政情も不安定で、無事帰国が受け入れられるかも危ぶまれた。だからこそ変わらぬ彼の姿を見たかったのが、出会ってどうにかなってしまうかが丸切り見当がつかない。思い描く未来のために今を消費し続けていて、抱えている以上の今も未来も考える余裕がなかった――否、どうにかなってしまうのが恐ろしかった。
三年は短いようで長い。生まれた赤子が子供と認識されるに十分な時間で、人が疎遠になっても不思議はない。不確かな煩わしさに振り回されるくらいならば、仕方がないと現実を受け入れた方が楽ではないか。甘く、狡い気持ちで思い出を反芻しながら、諭吉は忙しさの中に自分の全てを投じて誤魔化し続けていた。
遠い大陸の話をしつつ、浮かび上がった遥かに前の思い出の影を脳裏から拭い去る。このままで良いかもしれない。自分は新しいこの国の形を作りたいと思っているのであって、福沢諭吉個人の幸福のみを追求しようという考えは一毫くらいなものだ。格好つけたことを言った端から寂しさを覚える。隠し刀と過ごしたのは、二年にも満たない。異国にいた時間の方が長いにも関わらず、今となってはただの過去だと置いていくには惜しい日々だった、そういうことなのだろう。
時間に身を任せるべきか、何かしようとしたって良いではないかと気持ちを行ったり来たりさせて、今日も景色は変わらない。隠し刀は変わってしまっただろうか。
「ためになる話を色々聞かせてもらえて、良かった。感謝する」
「お帰りですかい」
気もそぞろなうちに話していたらば、時間は勝手に過ぎてくれたらしい。主人が立ち上がると、一緒に来ていたいく人かが打ち合わせたようにばらばらに座敷を出て行った。勝が何か自分に話したそうにしている風であるのが気に食わず、諭吉もふらりとその一団に加わる。
「福沢!まだ帰るなよ」
「少し酔いを覚ましてくるだけです」
案の定かかった声にヒラヒラと手を振って、こもった座敷の空気から逃れるように外へ出た。気短な勝が追いかけてくると面倒なので、少しばかり離れた廊下に立つ。あちらこちらからひゃらひゃらした嬌声や喝采が聞こえてやかましい。音曲は好きだが、遊郭はやはり俗っぽい、穢らわしい場所だという思いで憂鬱になる。
はふ、とあくびが浮かび、目を擦る。酔い覚ましは座敷を抜け出す口実だったが、今日は本当に酒が回っているらしい。あるいは心が描く幻想か、思わぬ姿を間近に見つけ、諭吉は無造作に足を踏み出した。
「おや、こんなところで会えるとは。実は……おかげさまで米国へ渡り、先日帰国したところなんです」
行手を遮られた男が、無言のままに居住いを正す。隠し刀、夢にまで見た情人だ!もし、出会うとしたらばどんな風だろうとあれこれ想像を巡らせてきたが、現実は勝手が違うらしい。熱烈な歓迎、あるいは拒絶、そうした強い反応は一切なく、酔眼に霞んで映る男の様子は、昔日のままに泰然自若としていた。少し、疲れているのだろうか。浮かれ騒ぐ周囲を他所に、遊びに来たはずの男の表情は心持ち憔悴しているように見受けられる。待つこと数瞬、隠し刀の唇がゆるりと開いた。
「……誰だ、お前は?」
やはりこれは夢なのかもしれない。よりにもよってそんな言葉をかけられることがあるだろうか?ざぶりと水をかぶせてくるような台詞に、思わず唇が戦慄いた。
「忘れるなんて酷いなあ……福沢です、福沢諭吉。一緒にハリス殿に会いに行って以来の付きあいでしょう?」
動揺する自分を奮い立たせるべく、もつれそうになる舌を必死に蠢かす。もしかしたら、どうして自分がここにいるのか、意外な余りに信じてもらえていないのやもしれない。遊郭は嫌いだという話は随分前に話したはずだ。隠し刀は友人の付き合いが幅広く、その一環としてしばしば訪れている。今回もきっと、誰かに誘われての行動なのだろう。互いの偶然が重なっただなんて、もうそれだけで嬉しくなってしまう。否応なしに気分は舞い上がり、諭吉は急かされるようにして自分がここにいる目的を捲し立てた。
「――酒の肴がてら話せと命じられては、来ざるを得ません。費用を出してくれた相手ですから」
「どんな話をしたんだ?」
まだ他人行儀さは消えないが、歩み寄るような言葉に俄然心臓が高鳴った。正面からはっしと目と目を合わせ、諭吉は轟々と自分の血潮がうねるのを耳にした。会いたかった、話したかった、もっと、そうだ、今は何を話していただろう。
「例えば、船での苦労話ですかね」
かつて話に上らせていた勝についてここぞとばかりに触れるも、相手の反応は鈍い。戸惑う様子を感じ取り、諭吉はざあっと顔が青ざめた。久々に思わぬ再会を果たした挙句に愚痴を聞かされたらば、困ってしまうのも無理からぬことではないか。もっと気の利いた台詞が言える人間であればどんなに良かっただろう。自分ばかりが舞い上がってしまってどうしようもない。
「おっと、酒が入るとついつい愚痴が……続きはまた、日を改めて。あなたには、相談したいこともありますしね」
「ああ」
距離を測りかねたままに、思い切った約束をすることはついぞできなかった。こんな都合の良い夢を見て、叶うなどとは信じ難い。そう、本当に目の前の男が隠し刀かどうかなぞ、今の自分には確かめようもないのだ。
「おーい!ゆっくりはできんぞ」
奥の方から、聞き覚えのある誰かの声がする。隠し刀が短く応じるに合わせて、諭吉は尻尾を巻いて逃げ出した。
「僕はもう少しここで酔いを覚ましていきますよ。それでは、また」
探して欲しい、会いに来て欲しいと願うのは甘えだろう。とうに覚め切った眼差しで見る人工の理想郷を泳いで、諭吉は自分のいるべき今へと舞い戻った。
「おう、帰ぇったか。あとは好きに飲んでいいとさ。しかしお前さん、前々から言ってるが、なんでも思ったことを全部口にするのはやめにしておけ。あのお方が捌けた方だから今回は大丈夫だったが、次があるかなんざわからんからな」
「はいはい、そんな調子だから何も変わらないんですよ」
座敷に残ったのは勝一人だった。芸妓もつけずに一人で飲んでいたのは、諭吉と話そうと思って待っていたためだろう。先ほどは隠し刀に愚痴をこぼしたものの、勝のこうした細かな気配りは得難い妙味だ。自分にはできない芸当で、だからこそ彼は幕府の中心へと登りつつあるのだろう。前に進むためには、自分は彼が切り開いた後ろに続くことが一番の近道だった。とは言え素直に相手の言い分を認めるのも癪で、諭吉は乱雑に腰を下ろして手酌で酒を杯に注いだ。とっとっとっと、とろろ、っと走る酒が溢れて革手袋に染みる。溢れてから冷たさを感じるまでの僅かな間を埋めるように指を舐める。とっくに飽きてしまったか、酒の味も俗世の味も判然としない。
「頭でっかちで敵わねぇったら……なんだ、しけたツラしやがって。良からぬことをやらかしたってんなら、バレる前にさっさと吐いちまいな」
「さっき、そこで情人に会ったんです」
「情人だ?何言ってやがるんだお前さん、そんな相手がいるたあおくびにも出さなかったじゃねぇか。いや、待てよ……まさかお前さん、横浜で一緒だった奴の話をしてるんじゃねぇだろうな」
「他に誰もいませんよ。僕はフラフラする暇も趣味もありませんからね。やめてください、そういう目をするのは」
鬱陶しさから手を振ると、持っていた盃から着物にハタハタと酒をこぼしてしまった。ああ、これはいよいよ酔いが回っている。勝が盛大なため息をつくのももっともだった。
「……そうですよ、思っているのは僕だけかもしれませんからね。信じられます?久しぶりに顔を合わせたら、誰かを問われたんですよ」
「ははあ、きつい一発を喰らったモンだな。大方お前さん、酔っ払って他人と間違えたんじゃねぇか?」
「かもしれません。でも、もう良いんです」
大事なのは、先ほどの逢瀬が夢か現かではない。酒に身を浸しながら、諭吉はスルスルと思考を純化させていった。
「勝さん、人探しをお願いできませんか?もちろん、その分しっかり働かせていただきますよ」
「よしきた。情けは人のためならず、持ちつ持たれつで行こうや」
打てば響く調子は、陸上であるためか大層頼もしく轟いた。夢を夢のままにするのはおしまいだった。
「おや、こんなところで会えるとは。実は……おかげさまで米国へ渡り、先日帰国したところなんです」
懐かしい声が耳に届いた瞬間、隠し刀は耳を疑うと同時に心を弾ませた。無意識にぼやかしていた視界があっという間に色づき鮮明になる。記憶と眼前の景色が結びつき、全身が強張った。諭吉だ、諭吉だ、本物の諭吉だ!生きて、無事帰国をしてくれたのかと叫んで駆け寄りたい気持ちが高まるも、隠し刀は先を行く龍馬の背中に己の立場を思い出してグッと堪えた。
自分は、唾棄すべき出来事に手を染めた人間だ。情を交わしていた頃よりも一層血生臭く、暗い道を歩んでいる。離れ離れの数年間は、彼にとって輝かしい未来への礎だったろうが、自分はそれに対して話せることが一つもない。何を話したら良いのか、いざとなってもやはり判断が難しい。ぼんやりとした様子で返事を待つ諭吉の顔が、ほんのりと朱に染まっているのを見てとり、隠し刀は逃げの一手を打つことにした。
「……誰だ、お前は?」
言った端から、相手の暗い落胆を読みとって後悔する。どうやら酒は諭吉の理性を陥落させてはいなかったようだ。眠そうな眉をぎゅ、といつぞやのように寄せると、彼は舌ったらずのままに囀った。
「忘れるなんて酷いなあ……福沢です、福沢諭吉。一緒にハリス殿に会いに行って以来の付きあいでしょう?」
覚えてくれていた。純粋な思慕が、胸に痛いほど突き刺さる。想い出が一気に頭の中を駆け回り、諭吉が必死で紡ぐ言葉が逃げ道を塞いでゆく。ここに居たい。卑怯で、惨めで、軽蔑すべき選択をしてきた過去を洗い流して手を取りたい。だが、それは虫の良すぎる考えだろう。
「――酒の肴がてら話せと命じられては、来ざるを得ません。費用を出してくれた相手ですから」
「どんな話をしたんだ?」
相変わらずのちゃっかりとした発言に釣られ、思わずかつてのような返しをしてしまい、隠し刀は失敗を悟った。諭吉の表情がパッと輝き、軽妙な台詞が続く。
「例えば、船での苦労話ですかね」
他愛もない、横浜で一度顔を合わせたこともある勝海舟に対する愚痴がだらりと続く。誰かに話せたことが嬉しいのだろう、気が緩んだ様子が愛らしい。こんなにも無防備で無事に幕府を渡り歩いて行けるのか、甚だ心配になった。どこまでも真っ直ぐで、公明正大に突き進むことを恐れない彼は、玄瑞とは異なる方向で他人と衝突しやすい。こと非戦を守る諭吉は危うく、誰かが気を配ってやらねば今の日本では生き延びられるかも怪しい。誰かが?堂々と名乗りを上げられない立場で、一体何を考えているのだろう。益々己の不始末に淀みが広がる。
「おっと、酒が入るとついつい愚痴が……続きはまた、日を改めて。あなたには、相談したいこともありますしね」
「ああ」
こんな自分に、まだできることがあるのであれば喜んで手を貸したかった。舞い上がるな、安請け合いをするな、そんな明日を掴みたいならば、せめて前を向けることをなさねばなるまい。しかし、一体何を?
「おーい!ゆっくりはできんぞ」
「すまん」
足を止めていたことにいい加減気づいたのか、龍馬が奥から声を上げる。潮時だ。答えの出せない夢から抜け出すのは今しかない。諭吉はまだ微睡んでいるのか、目をこすりながら軽く頭を下げた。
「僕はもう少しここで酔いを覚ましていきますよ。それでは、また」
また、の二文字が後ろ髪を引く。いっそ、酔いと一緒に自分のことを幻だと思って捨て去ってはくれまいか。曖昧な言葉で濁して歩き続けるも気はそぞろで、心は置いて行かれたままだ。客と揉める小五郎に掴み掛かられるのをいなし、他所に差し向けても全てが上の空である。こんな時には、表情の乏しい己の顔がありがたい。
酒を呑まずして酔うことがあるだろうか?もしかしたら、夢幻の空間に人知れず惑い、都合の良い夢に浸っていただけなのかも知れない。どれほど可能性を打ち立てようとしても、出会ってしまったという喜びが心にどっかりと鎮座している。座敷に用意された席に着いても、隠し刀の頭はない知恵を絞ることで忙しい。
祝いの席に相応しくない態度を咎める参加者はいなかった。新しく知り合った山縣有朋と伊藤博文が声を弾ませて勝利を讃えようと気炎を上げている。彼らを盛り立てる玄瑞や、いつの間にか戻ってきた小五郎も意気軒昂で、今にも一人二人斬りかかりそうな剣呑さである。パーっとやって気を晴らすつもりの龍馬はといえば、やはり神妙な面持ちで酒をチロチロと舐めていた。話の内容が機密であるとして、芸者たちを下がらせたため、気分を誤魔化す手立ても失ったというところか。
ぼんやりと宴会の賑わいを花火のように眺めていると、伊藤が隅田川の花火大会について話し始めた。コロリの犠牲者を慰霊する目的で、幕府が大花火を打ち上げるらしい。諭吉は煩くて嫌がるだろうか、と埒外もないことが思い浮かぶのを首を横に振って追いやる。音曲は好きだが騒ぎは嫌がる彼のこと、きっと誘っても、などと考えるだけ無駄な話だ。
晋作は花火が好きだと言い、他の皆はこれという意見はないのか丸切り無関心である。生真面目に考えを突き詰めるからこそ、極端へと走る勢いを止められないのやもしれない。故郷の山奥にひっそりと閉ざされた集落が思い起こされ、頬に冷たい雪の感触が蘇る。あの頃の自分は下知を疑うことを思いつきもしなかった。考えないことは唯一生きる術であり、常識であり楽だった。そこに正しいも間違いもない。
今では全て自分でなさねばならない。正しい時もあれば間違っている時もあり、答えは自分で見つけようとしなければ見つからないのだ。世の人々は、全くうまく生きているものだと頭が下がる思いである。
「倒幕への第一歩として皆に提案がある。……勝海舟を、斬る!」
不意に、聞き慣れた名前が放たれ、隠し刀の集中は発言者の玄瑞に向けられた。玄瑞曰く、勝は現在幕府の中枢を担いつつある要注意人物であり、隅田川花火大会にも出る予定だという。晋作がまぜっかえすもまるで取り合わず、玄瑞はカッと見開いた目をこちらに合わせた。いっぺんの曇りもない意思の熱さに、ぞわりと鳥肌が立つ。
「今から我らで隅田川に向かい、勝を斬る。どうだ?」
同志の誰にでもなく、自分に向けられた誘いかけを信頼の証だと喜ぶべきだろうか。上がった熱を少しでも冷まそうと躊躇って見せても揺るがぬ玄瑞に、隠し刀は暗澹たる思いで頷いた。龍馬も道連れになったが、彼は彼で気乗りがしない風である。むしろ、何も考えずに流れに乗った方が楽になれるという思いに傾きつつあるのかもしれない。
だからこそ隙がある。先に吾妻橋に行くと消えていった玄瑞を見送り、隠し刀は心中密かに決意した。これは自分にしかできない仕事だ。逃すべからざる千載一遇の好機である。
季節外れの川開きよろしく、隅田川には大小様々な納涼船が浮かんで薄紅色に染まっている。夕陽はこれから立ち上る人が作る太陽を一緒に観たいのか、やけにゆっくりと沈んでゆくようであった。川の両岸や橋にはぎっしりと人が詰めかけ、少しでも高さを作れた場所には簡易な桟敷が設けられている。誰しもが花火が上がるその時を待ち望んでいた。
近頃は異国騒ぎでピリリとした緊張感が漂い、どことなく沈鬱な空気に満ちていた街が、一時本来の活気を取り戻したかのようである。幕府が用立てた納涼船の上で仕掛けを眺める勝海舟も、これには思わず頬を緩ませた。
「火事と喧嘩は江戸の華たぁ言うがよ、やっぱり平和に眺められる花火が一番だな」
空が紺色に染まった、と思うと細い線が地上から伸びてゆく。ひゅううう、どどん。どん、どどん、ぼん、ぽ、ぱららっ。轟音に先んじて次々と火花が弾け、大輪の光の花が夜空に咲いた。玉屋ぁ、と掛け声が続く。昔ながらの情趣も加われば、懐かしさは否応なしに増した。
「素直にパーっと楽しみゃあ良いモンなのによ、ったくどこの野暮助だってんだ」
が、『今』は自分を捕らえて離さぬ気でいるらしい。舌打ち一つすると、勝は暗がりに移動して船尾に降り立った不審者の様子を伺った。男が二人、風体からすると浪人か。途中途中にあった警護の船(不要としたのだが治安のために必要だと押し切られたのだ)を物ともせず近づいてきた目的は、特等席での宴会に参加しようという酔狂ではあるまい。攘夷志士なぞ血気に逸った頭の硬い連中だろうが、だからこそ手練れであることが惜しまれる。
「穏やかじゃないねえ。ただの喧嘩ってことにしねえか?」
先んじて声をかけると、きらりきらりと侵入者たちが刀を抜く。その一瞬が命取りという奴だ。どん、と船板を蹴って打って出ると、勝は鞘のままで水心子正秀で一人を上から斬って落とした。どどん、と花火が打ち上がれば、パッと明るくなった空が侵入者を浮かび上がらせる。反応良く打ち返す相手の顔に既視感を覚え、もう一合刀を交える。
「お前さん、もしや……」
言葉が耳に届いたか、男は緩い太刀筋でくるりと剣舞を見せた。近づくようで離れ、触れられそうで届かない。さも暗殺劇を繰り広げているかのような動きにため息が出る。意図を読めぬままに背後から襲いかかる刀を捌き、一合、二合、こちらは打ち合うたびに小さな花火が上がった。つまり、一人は本気、一人は見せかけだけの手合いということか。
「一枚岩じゃないってか。面白ぇ」
パン、と正面から短銃が火を吹くも、はなから威嚇のつもりなのか、弾は頭ひとつ分高くを飛んで行った。音から察するに、武器自体は良品であるようだが、射手からは殺人の道具に使おうという意図を感じられない。繰り出される刀の覇気と釣り合わぬのは、併用した経験が浅いためか。ならば迷いを打ち砕くべく、一刻も早く手仕舞いとしよう。
刀を鞘から抜き、キンと打ち鳴らして記憶を辿る。刀身に映る花火もなかなか乙なものだ。こんな物騒で優雅な見せ物を楽しむ人間はそういるまい。真剣に向き合ってくる相手にも花火の熱気は伝わったのか、ぽん、と一等高く打ち上がった光にぼうと目を奪われる。今だ!勝はすかさず、相手の得物を力一杯打って弾いた。くるくると弧を描いた刀が数間先の船板に刺さる。取りにゆこうとする鼻先に刀身を沿わせれば、男の体がエレキテルが伝ったようにびくりと震えて止まった。
「龍馬、もう良い」
あからさまに手を抜いていた男が、刀をパチンと鞘に収める。龍馬と呼ばれた方は驚いた風だが、攘夷志士にありがちな血生臭い掛け声はついぞ出なかった。それで良い。花火の掛け声は決まった口上が一番だ。
「ま、大方、幕府と戦をおっ始めようって輩に吹き込まれたんだろうな」
戦意が失われたのを見てとり、刀を引く。虚を突かれ、事態を把握しきれぬ様子の龍馬の様子に、勝はこの喧嘩の勝利を確信した。厄介を避け、期せずにして待ち人に巡り会う。ついでに戦力も手に入るやもしれない。
「戦なんざぁ、つまらねえ」
火薬を使うならば、全て集めて花火にしてしまった方が余程綺麗で楽しい。呼水を撒けば、龍馬が険しい顔で食ってかかるものだから面白い。議論は異なる見解を持つもの同士で一層の進展がある。論戦は勝のお箱で得意技だ。何が相手の興味を引くのか、どんな言葉であれば波風を立てられるのか、如何様にも転がせることができる。
寧ろ、やりにくいのはもう一人のように押し黙り、なんの表情も浮かべない、一切の交流を断ち切った人物の方だ。一段と大きく上がった花火に照らし出された顔と、記憶の中で静かに福沢諭吉を連れて行った人物の顔とが重なる。彼こそが、諭吉の探す人物――隠し刀に違いない。飛んで火に入るなんとやらだ。
「……暗殺や焼き討ちなんざ、寝覚が悪いだろ?」
とどめの一言を放てばやはり思うところがあったのか、龍馬が苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべる。先ほどの論戦で吉田松陰の名前を持ち出してきたので幕府に対する暗い因縁があれども、人らしさは失っていないらしい。米国で習った流儀よろしく手を差し出すと、龍馬はチラチラと隠し刀にお伺いを立ててからはっしと握り返した。短銃をぶら下げているだけではなく、道具が持つ文化をも嗜んでいるとは滅多に会えぬ逸材だ。
「よし、それじゃ仕切り直しと行こう」
粋な江戸っ子を見せてやろう。勝は打ち上がる花火に向かって、腹の底からの勝鬨を上げた。
白い綿毛が煙のように空を流れている。庭に好き勝手に生えた蒲公英は揃って春を終え、新たな地へと旅立とうとしていた。道端に咲く野花も同じく、誇らしげに存在を主張する役割を交代している。花火が上がってまだ二日経ったばかりであるにも関わらず、季節は黙って夏へと傾きつつあるらしい。袖に張り付いた綿毛を摘んで風に乗せると、隠し刀は隣を歩く龍馬の様子を伺った。
「まだ、迷いはあるけんど……」
と口はばったい調子で話す友人の季節も変わったようだ。鬱陶しいほどに覆っていた憂は消え、梅雨明けの空にも似た清々しさを漂わせていた。それは取りも直さず、自分にも同じことを言うことができる。
万が一の時には、仲間を昏倒させてでも勝を逃がそうと思っていたが、事態は存外自分に都合よく運んでいた。龍馬と勝は意気投合し、今は赤坂にある勝の自邸に向かう最中である。新しい日本の形、については未だ難しく縁遠い。しかしながら、勝や龍馬が走ろうとする道のりで役立てることができれば、前を向ける可能性が高いと踏んでいた。
「よう、来やがったか。一応念押ししとくが、もうお前さんたちとやりあうのは御免だからな」
「大丈夫じゃ。勝さんを信じてみることにしたき」
着いて早々待ち構えていた勝と龍馬のやり取りは軽妙で心地が良い。自分たちに依頼したいという事案の説明を受けても気分は変わらず、隠し刀は久々に明るく受け合った。軍事、医学、武芸の人材を集める助けとは、地道ながらも礎となる重要事だ。全てを覆す道筋などありはしないが、日向の道を目指すことはできるだろう。
「そうか。じゃあ、ひとつよろしく頼むぜ」
「頼まれた。わしは、ひと足さきに千葉道場に向かうき、後で合流しよう」
清河八郎なる知己の紹介を頼まれた龍馬が、弾むような足取りで屋敷を出てゆく。ろくろく辞去の挨拶もせずにたったと去る龍馬に、勝は呆れるよりも好ましげな目で見送っていた。良い傾向だ。自分もぼやぼやせずに去ろうとすると、勝はちょい、と手招きをした。
「お前さんにはもう一つ、特別な依頼がある」
「私にできることならば良いが」
自分にだけ、というのは流石に引っかかるものを覚える。後を着いて歩くと、勝は笑って背後の襖に手をかけた。
「はは、お前さんにしかできないさ。……開けるぜ」
「何ですか、急に。あ!」
「諭吉」
思わず、つるりと言葉が溢れる。襖の向こうにいたのは誰あろう、大量の洋書と首っぴきで格闘する諭吉だった。イッヒッヒ、と勝が悪戯が成功した子供のような顔つきで肩を揺らす。
「こいつも今、困ってるんだとさ。手ぇ貸してやっておくんな。それじゃ、あとは頼んだぜ」
「わかった」
景気付けに思い切り叩かれた肩が痛い。船上で刃を交えた際に思ったが、勝は老いた身ながらまだまだ現役で力が強い。同年齢くらいだったろうか、と研ぎ師を重ねかけて取りやめた。自分で折り取った未来を考えるよりも、今は目前に目をむける時だ。
「……誰だ、とは言わないでくださいね」
恨めしげな声が、過日の再会で吐いた嘘をなじった。否、詰るというよりは懇願するような、拗ねの入った声音である。後ろ暗いのは自分の方だというのに、酔った姿で出会ったためなのか、諭吉はどこか及び腰だった。引かれたらば追いかけたくなるのは執着だろうか。卓を挟んで正面に座ると、隠し刀は至極真面目な表情を取り繕った。ふわりと髪油の香りが鼻をくすぐる。
「またお前に会うことができて、嬉しい。あの時はすまなかった」
「 」
かつて、諭吉が自分につけた名前が耳をくすぐる。世界中が生き生きとする感覚に、隠し刀は眩暈がしそうだった。互いに流れていた空白の時間が、あたかも最初からなかったような居心地の良ささえ漂う。身を乗り出してきた諭吉をやんわりと手で制すると、隠し刀は相手の顔色を変えぬよう急いで口を挟んだ。
「少し、会わなかった間の話を聞いてほしい。聞いた上で、お前がどうしたいかを今一度考えてくれ。私は恥知らずなんだ」
「世間知らずですしね」
「混ぜっ返さないでくれ」
戯れる調子を正せば、諭吉はぎゅっと眉根を寄せた。眉間に口付けしたい衝動に駆られる己を叱咤する。昔の自分は本当に恵まれていた。過去に羨望の眼差しを投げて切り捨て、今に向き合う。
「お前に会えなくなってから」
そうして白日の下に全てを晒す。これが等身大の己、どうにかしてまた諭吉と歩めたらともがく浅ましい生き物だ。歳月は想い出を幻想や執着に変えたが、こうして目の前にいるだけでこんこんと新たな欲望が湧き出でる。久しくない情動に戸惑いながらも、舌は淀みなく過去を読み上げた。言い訳がましく響かぬよう、ただ事実を並べるが、古道具はどれもぼろぼろでひどい有様だった。売り物にする厚顔無恥さはなかったから、拒絶されたとて道理である。
途中で聞き手が立ち去る可能性は大いに高い。芝居の人情ものより醜悪で、忌避すべき話だ。凡そ諭吉の価値観とも合わない。が、理性の人は静かに全てに耳を傾けるのみだった。戸惑い、憤り、軽蔑、落胆、仮面を付け替える如く感情が表情を変えてゆく。全て語り終えた最後に浮かび上がったのは、至極穏やかで読めない顔つきだった。
「以上だ。聞き届けてくれてありがとう」
「こちらこそ、話してくださってありがとうございます。……あなたがしてきたことは、やはり到底受け入れられません」
覚悟はしていた。せめてもう少し、顔向けできるような状況で挑みたかったが、泣き言を喚いても仕方がない。腰を浮かせて辞去しようとしたところで、ずい、と諭吉が一層前へと乗り出してきた。
「ですが、僕はあなたが生きて、こうして話してくれたことを嬉しく思います。……僕はこれまでずっと、あなたに会ったらどうなるかを想像してきました」
考えるだけ無駄でした、と諭吉は呟くように言って静かに抱きついた。背を撫で、胸板に顔を擦り寄せる。思慕ではなく、対象が実在しているのかを確かめるような動きに、隠し刀は大人しくされるがままになることを選んだ。
「あなたはこれから、僕に会うたびに辛くなるんでしょうね」
「ああ」
「であれば、毎回辛くなってください」
思いもよらぬ発言に耳を疑い相手の顔を伺うと、濡れた瞳が喜色を浮かべていた。
「あはは、僕も大概、恥知らずかもしれませんね。おかしいでしょう?あなたが辛いのに、嬉しいんです。どうかしている。こんなひどいこと、他の誰にも言ったことなんてなかったのに」
「ひどいな」
だが、無条件に許されるよりも自分にはしっくりくる処遇だった。身じろぎして自分の腕を相手の腰に回す。服の上から判断するに、いくらか痩せた風である。
「それでお前に会えるなら、いくらでも耐えるさ」
「忘れてはいけませんからね」
「忘れないとも」
他人のふりをしたことを相当に根に持っているのだろう。そうした負の感情も真っ直ぐに全てぶつける相手が自分だけであって欲しいと願ったらば、気味悪がられるかもしれない。
「そうだ、諭吉。大事なことを一つ言い忘れていた」
「今度はなんです?」
もう、と唸る情人――もうそう呼んでいいだろう――の愛らしさに頬が緩む。胸がくすぐったさでいっぱいだ。
「おかえり、諭吉」
「ただいま帰りました」
顔を上げた、その額に口付ける。額に、瞼に、鼻に。遠回りに焦れたのか、手が伸びてきて唇に唇がかぶりついてきた。湿って、熱くて、心地が良いからもう一度。苦い記憶がツー、と頬を伝って落ちる。幸福な地獄というものが存在するのであれば、きっと始終楽しくて辛くて落ち着かないだろう。それが自分の居場所だ。
答えはこれで良い。
〆.