昔の話 気まぐれに誰かを指名した後、その人の知り合いを辿ってゆけば、いずれ己に辿り着くらしい。世界広しといえどもぐるりと巡れば繋がっていると聞いたところで、福沢諭吉には今ひとつわかりかねる話だった。もっともらしい話をした人物が、自分に説諭しようという輩だったから反発心を抱いたということもある。その節にはいくらか激論を戦わせてもの別れになり、以来すっかり忘れてしまっていた。
だが、こと情人である隠し刀に関していえば、全ての人と人が何某かの形で繋がっているのではないかという気にさせられる。勝海舟邸に出入りするようになって日が浅いが、訪れる人が悉く彼の知り合いだった、などは最早驚くに値しない。知らぬうちに篤姫からおやつを頂戴していた際には流石に仰天させられたし、勝の肝煎である神田医学所はもちろん、小石川植物園にまでちゃっかり縁を繋いでいる。幕府の役人でさえそう縦横無尽に出入りすることはままならない。彼の自由さは本物であり、語る冒険譚は講談の域に達している。
孫悟空のようだな、と今日も諭吉は心地よく耳を傾けていた。仕事の手は止まってしまったが、少しくらい構わないだろう。ちょうど考えが行き詰まっていたところでもある。
「――それでだ。楢崎先生が、少々気になる話をしてくれてな。諭吉ならば興味があるかもしれない」
「僕ならば?なんでしょう。異国絡みの話でしょうか」
「大当たり」
「ひゃ」
ちゅ、と頬に口付けられて心臓が飛び出しかける。ついで、どうして頬で終わりなのかと口惜しさが込み上げた。反撃したい、が、話の続きも気になる。双方同時に満たせない我が身のままならさよ!じ、と上目遣いに見やれば隠し刀は唇の端を持ち上げた。
「湯島の辺りに、希少な異国の書物を持つ人物がいるらしいんだ。ひょっとすると幕府が発禁処分しかねない、最先端の医術に関する書物だそうだ」
「医術書ですか……」
神田から湯島はそう遠くはない。楢崎将作はその気になれば、自分で探すこともできるだろう。恐らく何某かの因縁があるのか、将作の立場では頼みにくい相手なのだ。湯島は昌平坂学問所を筆頭に、儒学が盛んな地である。異国の学問に対し、風当たりが強いことは容易に想像された。自分も『拝借』を依頼した身の上としては、情人である隠し刀に頼めばもしかすれば、と期待する人間の心理は痛いほどにわかる。
「あまり足を運ばない場所ですし、気分転換に散歩するのも良いかもしれません。医術書の在処は目星がついているのですか?」
「いや、まだだ。行けばわかるだろう」
「秘蔵の品なのでしょう?そう簡単に誰彼に吹聴して回るとは思えません。湯島に行っても無駄足になるのではありませんか」
不可解なことを言い放つ男に冷静に尋ねるも、ただ散歩が楽しみだと鼻歌を歌うばかりである。ひょっとすると、彼の知り合いが持ち主なのだろうか。いかにもありそうな話だが、今わかるのは答えを教えてはもらえないということのみだった。
何事か過信されている。隠し刀は微かに目を泳がせた。散歩のための口実を話して以来、諭吉が探るような目をこちらに向けているのを感じている。猜疑心からのちくちくしたものではなく、キラキラと眩しいほどの期待を寄せられているような不穏さがある。前者は申開きを正々堂々とすれば良いのだが、後者に関してはとんと理由が思いつかない。かといって、格好つける絶好の機会をみすみす逃してしまうのも惜しい。
二人が連れ立って外出するのは、長らくご無沙汰だった。何しろ諭吉は忙しく、隠し刀が精一杯手伝ったところで到底支え切れるものではない。純粋に能力の問題であることは、隠し刀にとって手痛い事実だった。情熱を掲げ、血道を上げる理想があるのは幸福だろう。さりとて、そこに自分が入らないのは大層寂しい。寂しいという気持ちは、近頃しくしくと腹で泣くようになった。
こうして出かけてくれた、ということは一応自分が許されている証だろう。ただ書物探しをするだけではつまらない。おやつを食べようか、不忍池まで遠征しての水遊びというのも趣深い。春の花はすっかり溌剌とした緑へととって変わりつつあり、その清々しさを楽しむのも良いだろう。もっともらしい誘い文句を思案したところで小ぢんまりとしたお宮が目に入り、思わず隠し刀は足を止めた。
「諭吉、少し寄り道がしたい」
「構いませんよ」
ありがたく許可をいただいたところで、早速お宮の前に行く。近隣住民が大事にしているのだろう、古びた屋根がところどころ補修され、落ち葉が掃き清められている。野放図に寝転がる猫たちを尻目に隠し刀はお宮に向かって両手を合わせ、静かに参拝した。一、二、三。もう十分か、というところで諭吉の声が後ろから響いた。
「……信心深いんですね。あなたは神仏を恐れない人だと思っていました」
「恐れてはいないな」
体から力を抜くと、隠し刀は足元に落ちていた猫を撫でてやった。首に淡い繻子の帯が結ばれている。上等だ。薄雲から預かっていた香袋を嗅がせると、猫は主を思い出したようにぴょんと飛び上がって走り去った。
「神頼みをしたいことでも?ああ、片割れの方を探しているんでしたね」
「考えすぎだぞ、諭吉。私は神頼みもしなければ、加護も求めていない。ただ、地縁を得ているだけだ」
「地縁ねえ」
こればかりは上手く説明ができず、隠し刀は曖昧に微笑んで誤魔化した。宮参りをせよ、というのは元を糺せば黒洲藩での教えである。知らぬ土地に入った時には、必ず近隣の祠やお宮を、とりわけ小さなものに挨拶するように。さすれば其方は地縁を得るだろう。地域の要地に建造されることが多く、地の利を把握しやすい。そうして長年の経験が点と線とで結ばれた結果、隠し刀は獣や人里、どこに隠れた財宝があるか、などを自然と察知できるようになるのだ。現に、手を合わせた時点で先ほどの猫が薄雲の猫であることが察せられたのである。改めて考えるに、些か道を外れた能力なのかもしれない。つらつらと思案していると、玉砂利を蹴った諭吉が些か苛立った様子で続けた。
「人が信じることを無闇に卑下するわけではありません。ですが正直なところ、神仏など到底信じられたものではないと思いますね」
「ああ、以前にも言っていたな」
横浜で交わした会話を反芻すると、情人はこくりと頷いた。
「実は幼少期、神仏とやらがそんなに偉いのかと色々試してみたんです。……あなただから告白します。僕は幼い頃、御神体を暴いたことがあるんです」
「ほう」
謹厳実直さに合わぬ、向こう水な行動に隠し刀は目を瞬かせた。諭吉の口から彼の幼少期について語られるのは珍しいが、なるほど今と異なるからかと腑に落ちた。どうやら大分悪戯っけのある子供であったらしい。ならば無論、暴いたくらいでは済まされないだろう。むくむくと好奇心が頭をもたげ、隠し刀は臆面もなく問うた。
「それだけか?」
「それだけって……いえ、終いまで話しましょう。その、御神体の石と道端の石を交換して、また封をしておきました。今日まで何も起こっていません。つまり、神など存在しない証だと思います。ね、そうでしょう?」
「一理ある。諭吉は子供の頃から聡いんだな」
三つ子の魂百までも、と言う通り、諭吉の向こう気の強さは幼少期から変わらぬらしい。持論を証明するためとはいえ照れくさいのか、諭吉の耳が真っ赤に染まっている。もっと輪郭が丸く、柔らかくも芯が強い少年の片鱗を覗いた気持ちで、隠し刀は諭吉の肩を優しく叩いた。
「あなたならとは思いましたが、呆れないんですね。すみません、はしたない話をしてしまいました」
「いや、諭吉の話はいくらでも聞きたいから、どんな話でも大概嬉しいと思うぞ。それに、罰当たりかどうかを人に問えないのは私の方だ」
肩に置いた手を首筋に這わせると、それだけで諭吉の体がびくりと震える。大通りに戻ってきたから、人目を気にしているのだろう。それくらいは心得た上での行為だが、意識されていることの嬉しさから秘することにした。彷徨わせた手をパッと離せば、諭吉の体から緊張が抜ける。
「他にはどんな悪戯をしたんだ?」
「そうですね、御札を……おっと、僕ばかりが話すわけにはいきませんよ。あなたにも話していただかなくては。どうです?お互いの恥や悪事を一つずつ、話していくんです」
「受けてたとう」
思わぬ申し出に、ついつい笑みが溢れる。しかし何を話せば、悪いですね、と言われる程度で済むだろうか。人殺しや乱暴な話題は恐らく眉を顰めるだけでは収まるまい。諭吉が神様の名前を書いた御札を踏み潰した仔細にさしかかり、隠し刀は舌を巻いた。聡いだけでなく、大胆さと行動力を伴っている。幼少期から、福沢諭吉という人の核は出来上がっていたのだろう。
転じて自分はといえば、昔から泣き虫ばかりが目立つ、少々鈍臭い子供だった。悪事を悪事として認識もせず行い、あれは悪事だったのかと善悪の判断がつかぬままに大人になってしまっている。その点、片割れは最初から善悪の判断がついた上で当たり前のように必要なことをやってのける豪胆な人物だった。ある意味において、自分が長く側に居る人間の性質は似通っているのかもしれない。
居心地の良さに思いを馳せながら、一つ、悪事を話す。権蔵の賭博場に猫をけしかけてほしいという依頼をこなしたもので、一般的には悪事だろう。
「猫を?横浜の時から変わらず、あなたの貸し猫は器用ですね。権蔵さんも何を頼んでいるのやら」
「大分巻き上げられているようだったから、たまには良いだろうさ。諭吉も、幕府の仕事で面倒をかけられた時には遠慮なく頼ってくれ。猫の手だけでなし、私の手も貸そう」
「ふふ。頼みにしていますよ」
二つ、三つ、四つと交わした過去はさして悪くもなく、比較的害はない。もっと性質の悪い振る舞いはいくらでもあるというのに、不殺を頼む諭吉の態度は不変らしい。やはりどう鑑みても隠し刀の方が『悪人』ということなのだろう。他人から借りた本を長らく返す返すと言いながらも写し切るまで返さなかった、など可愛いではないか。
「『拝借』は悪事ではないだろう。それなら、私もお前と一緒に悪事を働いたことになる」
「あ!あれはですね……見てください、菖蒲を盆栽に植えていますよ。珍しいですね」
「菖蒲か。珍しいな」
わざとらしい指摘に従えば、確かに植木屋の前にすっくと真っ直ぐな葉がいくつも並んでいる。遠目には川縁かと錯覚を起こすように配置された盆栽は、どれも小ぶりで愛らしい。植物に関して薬になるかならぬかくらいしか興味のない隠し刀も、滅多に鉢植えでは見かけないことを知っている。物珍しさからか、立ち止まって眺める客の数は多い。
「もうすぐ端午の節句ですからね、当てこんだのかもしれません」
武家を中心に、毎年この薬効あらたかな植物を外壁に飾るのだという。元は大陸の習慣で、と諭吉の豊かな知識は途切れることがない。盆栽群に近づくと、すうっとした青い香りが鼻から腹の底へと駆け抜けていった。魔除けにはぴったりの匂いだろう。菖蒲の合間に配置された、紫の花菖蒲を女性たちが買ってゆく。植木屋の主人は心得たりで、花が売れるとひと束の菖蒲をその場で刈り取り渡していた。切り口から芳香が広がるので、香を炊いたかの如く店先から香りが湧き出でて行く。きっと客の帰り道もずっと香るのだ、と隠し刀も想像を膨らませた。
「一つ買って行こうか。勝が喜びそうだ」
「良いですね。……すみません、こちらの鉢植えを一つください」
「おやっさん、俺にも一つくれ」
諭吉とほぼ同時に店主の前に人影が飛び出る。勢い余った体をなんとか転げぬように押し留める仕草がなんとも野暮ったい。咄嗟に手を出して引き寄せてやると、医者らしい総髪が振り返った。
「すまんな、助けてくれてありがとうよ……おいおい、福沢ではないか」
が、その謝辞はつるりと隠し刀を逸れ、隣の諭吉へと対象を変えた。
「松下さん」
「知り合いか?」
ええ、と返す諭吉の態度はどこかぎこちない。混み合った店にいつまでもいては迷惑と、とりもあえず諭吉が鉢を受け取って往来に出た。同じく鉢を買い上げた松下何某も、当たり前のような顔をしてついてくる。諭吉とは正反対に、こちらは望外の再会に喜んでいるようだった。
「名も名乗らずにご無礼をいたしました。医師の松下元芳と申す」
「上方で懇意にしていただいた、医師仲間ですよ。私の先輩にあたります」
「ああ、上方の。道理で」
ざっと視線を走らせ、隠し刀は元芳の風体から上方の名残を読み取った。住み慣れた土地の暮らしは体に染み通っているもので、衣類や髪型はもちろん、間合いまでもが物語る。いくつかの特徴をとらえて驚いた風を醸せば、こちらが名を名乗らずとも元芳は乗ってきた。
「目端が利くご友人だ。おおい、手塚。福沢だぞ」
「福沢ですって」
元芳が連れを呼ぶと、こちらはこざっぱりとした坊主頭の男が反応を返した。いよいよ諭吉の体がぎちりと固まる。どうやら上方には相当の因縁があるらしい。乱暴沙汰になる風はないが、あまり都合が悪いのであれば理由を拵えて逃げの手を打つべきではないだろうか。チラリと諭吉を見やれば、ただ曖昧な微笑を浮かべるばかりでなんとも心許ない。
ふと、神仏をも恐れず、己の命を顧みずに遥々大陸へと渡った豪胆な男が恐れるのは何だろうか、という問いが隠し刀の頭を掠めた。己の悪事を並べ立てることさえ平然とやってのけたというのに、上方から来た男たちに身を縮ませるなど奇妙な話である。思えば悪事は幼少期に終始していたため、てっきり青年期には決別したと思っていたのだが、更なる恥部があるのかもしれない。
湯島近くをうろつく医師という、探し物の手がかりも気になるところだが、やはり興味をそそられるのは情人の知らぬ側面である。申し訳ないがしばし耳を傾けてからの退散としよう。そうと決まれば簡単で、隠し刀は大袈裟なまでに快く新顔を迎え入れた。自分の変化を感じ取ったのだろう、諭吉が軽く袖を引いてきたが気づかぬふりを決め込む。ぎゅうと力一杯腕を掴まれるも、その手を優しく叩いて慰めるにとどめた。
「いや本当に奇遇だな、こんなところで福沢に会うだなんて――」
過去の開陳が始まった。
因果だ。普段全く足を運ばない場所に出かけた矢先に、遠く離れた上方の過去が次々と絡んでくるなど、瓢箪から駒のような災難である。せっかく打ち解けて来た逢瀬が台無しだ。諭吉は心中密かに冷や汗をかいた。世間というものは、なるほどどうして自分が思う以上に狭いものであるらしい。
「植木屋で出くわすだなんて奇遇だなあ。覚えてるか?万引きに間違えられて、植木屋の主人を怒鳴りつけたろう」
「あはは、そんなことがありましたっけ」
空とぼけてみるも、医師の記憶力は侮れない。先輩であることもあり、元芳は諭吉が知人の前で言わぬ過去を詳らかにしても何ら問題はないと決めてかかっている向きすらある。上方の知り合いはわんさと居れども、よりにもよって元芳と、もはや苗字きりしか覚えていない手塚に会うとはこの世の不幸だった。既に切れ端を覗かせている通り、どちらも自分の上方での非道を共にした相手である。
才あり運あり希望あり、神仏さえも恐れぬ若人が、先々を顧みずに大それた不始末をしでかすというのはまま聞く話である。諭吉もご多聞に漏れずということなのだが、それにしても知られても構わない話と知られたくない話の区別くらいはあった。幼少期の行いなど、それに比べれば可愛いもので、情人とのちょっとした穏やかな一時に華を添える程度と言える。もちろんそれとて、隠し刀以外には決して話さない己の暗部だった。このご時世、何で足が掬われるかは定かではない。
「なんだ忘れちまったのか?打ち殺すだなんだと凄い剣幕で脅しただろう。まあ、私も一緒に馬鹿をしたんだが」
「松下さんも随分ひどいですね。いや、あの頃の塾生は大概与太者だったかもしれないな……蘭方医は怖いもの知らずでね、福沢も某も無茶をやったんですよ」
つい、と話の矛先を隠し刀に向けたのはやはり手塚だった。既に穴があったら入りたいほどの気恥ずかしさがどんどんと募っているというのに、悪行からは逃れられないらしい。情人の袖を何度か引いてみるも、どういうわけだか反応がない。呆れているのだろうか。否々、神仏をも恐れず、平然と人を殺すも是とした生業をしていた男が、今更こんなことで自分を見捨てるなど考えにくい。
だが、今現在の諭吉と比較すれば、何を涼しい顔をしているのかと軽蔑されかねない過去である。蘭方医の恐れ知らずが、この時ばかりはひどく恨めしかった。過去たちは寧ろ誇らしげでさえある。居酒屋で猪口やら小皿をしれっと万引きしたこと、遊女からだと偽って恋文を捏造したこと、河豚毒を恐れる人に鯛を河豚だと偽って驚かせたこと、並べ立てればキリがない。ああ自分はどれほど愚かだったことか!
「某は偽文で散々苦しめられましたがね、若気の至りと今では面白く思っています。ああそうだ、今は本当に丸坊主になりました」
ちら、と流し目を寄越す手塚の目に悪戯っけが瞬くも、根に持っているに相違なかった。他の塾生たちと共謀したとはいえ、遊女の偽手紙で誘き寄せ、乱暴に丸坊主にして行いを改めさせようとした主犯は諭吉である。あれから幾年、誰からか真相が耳に入るのもまた道理だった。相手に対する懸念からの行為とはいえ、過剰な手段である。謝罪するつもりはないものの、きまりは悪い。いつまでこの話題を続ければ良いのか、と己が生み出した地獄に嵌っていると、軽やかな声が風を吹かせた。
「緒方塾生は優秀だな。多少悪ふざけをしても、勉学に励んだことがよくわかる。御両人とも医師になられたのでしょう」
「それほどでも。湯島で蘭方医なぞやっているものだから、昌平坂の連中に突っ掛かられるのが迷惑で」
隠し刀の褒め言葉に、元芳がえへんと咳払いをする。異国を厭う人々の真っ只中で営むことに、ちょっとした自負があるのだろう。諭吉も素直に驚きを述べれば、手塚も張り合うようにして今の身分について話す。彼は果たせるかな、父親の職位を継いで藩医となったらしい。今は元芳の元に遊びに来ていて、と話したあたりで不意に先輩を突いた。
「いけませんよ、奥方をお待たせしています」
「おっと、そうだった。悪いな、福沢。そのうちまた暇な時に我が家に寄ってくれ」
「承知しました」
恐妻家なのか、二人して慌てて駆け出す。背中が随分小さくなるのを見届けると、諭吉は重いため息をついた。災厄はようやっと過ぎ去ったが、これからが肝心である。
「すみません、お耳汚しでしたね」
流石に呆れたか、あるいは軽蔑しただろう。何もかも自業自得の身から出た錆だが、彼らに出会いさえしなければ決して綻ばなかった過去である。この広い世界で、再び相対する災難に遭うなど不幸でしかない。誓っても、神仏の祟りなどではあるものか。俯きがちになる顔をなんとか情人に向けるも、陽にあたった端から肌が焼けるように肌がひりついた。羞恥心は身を損なうなら、このままでは自分は昇天するだろう。
「構わない。その、少々驚いたのは事実だが……過去は過去だろう。念の為、厄除けしておこう」
菖蒲の束を一振りし、隠し刀はさらりと返した。淀んだ過去の罪禍が、束の間清涼な空気に取って代わる。
「ありがとうございます」
この葉を飾る、本来の意味を知っているとは驚いた。菖蒲は現在、武家や男子の縁起物として持て囃されているが、その香りは邪気払いの効果があるとされている。鯉のぼりや鎧飾りといった、賑々しい飾りものが増えている中、素朴な緑の意味を知る人は今ではそう多くはないだろう。
「子供の頃、故郷でよく薬にしていたからな。昔はツンとしたこの匂いが嫌いだった」
爽やかな香りを撒き散らしながら、男は菓子屋の暖簾を指さす。このまま気分転換を続けようという腹づもりらしい。元より医術書は口実だとわかりきっているのだし、たまにはこんな散歩をするのも良いだろう。今でしか謳歌できない楽しみというものがあるのは確かなのだ。
「惜しいな。私がもっと早くに上方に出かけていたら、諭吉に早く会えただろうに。悪さとやらを一緒にやってみたかった」
「あなたがいたら、きっと調子に乗ったと思いますよ」
心底羨ましそうな口ぶりがおかしくて仕方がない。あの頃の自分に会いたいと、過去まで強請る素直さが胸に染み入る。確かにあの頃の自分は若くて、向こうみずで、容赦のない手ひどいことも行った。その善悪を糺さず、あくまで過去として受け止めてくれる存在に出会えたのは幸運と言える。
「何を食べましょうかね」
菓子屋に辿り着く前から、もう心は決まっていた。多分彼も同じものを求めるだろう。そんな呑気な気持ちを携えて、諭吉は紫色の暖簾を潜った。
〆