ハデスは酒に強い。
兄弟たちも強いほうだが、その中でも唯一潰れたことがない。
兄弟で飲めば、酔い潰れた弟たちを介抱して後片付けまでを一人で行い、翌朝には二日酔いでヨレヨレの彼らを完璧に磨き上げる。その後、胃に優しい食事を準備するなどアフターケアまで万全だ。
神々の宴においても同様で、オーディンあたりと小難しい会話をしながらロキの絡みを片手であしらい寝かし付け、アフロディーテがその豊満な肢体でしなだれかかろうと顔色一つ変えず夫に返却する。
ゼウスが音頭を掛ければ何度でも乾杯するし、アダマスが泣き崩れれば水を飲ませながら慰める。
周りがどれだけ乱痴気騒ぎを起こそうが、阿鼻叫喚の様相を作り上げようが、ひたすらに延々と酒を食らい続ける様はある意味恐怖だ。
むしろ真顔で淡々とひたすらに酒を食らい続けることが酔いの証なのかもしれないとはヘルメスの見立てである。異様な恐ろしさにアレスはその場で腰を抜かしたが。
まあとにかくハデスは酒に強い。
だが酔わないわけではない。
それはラグナロク参加者のみの宴であった。
何だかんだでウマがあった始皇帝がほろ酔いで絡み、既に遺恨はない佐々木小次郎や彼らの相棒たちも含めて穏やかに歓談していたのだ。
ポセイドンとベルゼブブも早々に両隣を陣取り、たまの小競り合いがあろうとほぼ問題はなかった。
それが所要で二柱が席を離れたほんの数分だ。
戻った二柱の眼に飛び込んできたのは、真っ赤な顔で所謂ごめん寝をしている佐々木小次郎とハデスに後ろから抱き着いて肩に顔を押し付けている始皇帝である。
傍らではフリストが蹲り、アルヴィトに至っては胡座をかいたハデスの腿あたりでごめん寝になっていた。
その頭を大きな手がやさしく撫でているのだが、本神は無表情で休むことなく酒を呷っている。
端的に言って怖い。
「どういう状況?」
呆気にとられながらも言葉を絞り出したベルゼブブの横で、ポセイドンは片手で顔を覆っていた。
腹の底から吐き出した溜息はなんとも重苦しい。
「ハデスの酒癖だ」
「酒癖?え、あれ酔ってるの?」
「酔ってる。顔色がまったく変わらぬから解りづらいが、ハデスは酔うと・・・」
「ポセイドン」
苦々しく言葉を紡いでいた唇がぴたりと閉じる。
ベルゼブブが見る限りはいつも通りのハデスがポセイドンを呼んだだけだ。
だというのにポセイドンは慄いていた。
あの大海の暴君と謳われるポセイドンが、兄の一声に凍り付いている。視線をウロウロと彷徨わせているのも珍しい。しかし特段恐ろしい言葉でもない。
説明が欲しいともう一人の弟を探すが見当たらない。
ならばこの場にいない最後の一人に聞くかと通信機を取り出した。
「ベルゼブブ」
「はい」
見ればハデスがベルゼブブを見ていた。
ポセイドンは?と横を見ると何故か崩れ落ちている。
辛うじてごめん寝は免れているが、そこまできたらもうしちゃったほうが良くない?くらいまで崩れ落ちている。
そして髪で顔は隠れているが、それ以外の肌色は須く真っ赤である。
「え、なんで?」
訳が分からない。
アダマスからハデスを酔わすなと厳命され、とりあえず隣をキープしていたのだが理由までは聞いていなかった。
ハデスが酒に強いことは知っているので、そうそう酔うまいと高を括っていたのもある。
それが数分でこの大惨事。ベルゼブブの好奇心がうずうずとしていた。
「・・・ゼウスを呼べ」
足元からか細い声が這い上がる。
顔は伏せたままだが、裾を握ったポセイドンからの圧がひしひしと感じられた。
「なんで?」
「奴が一番耐性がある」
なんの?とは問えなかった。
「ベルゼブブ」
再度呼ばれた名に顔を上げると薄い色の瞳とかち合う。綺麗だなと瞬間的に思い、そこで思考は停止した。
濃さを増した瞳がゆるりと笑み、仄かに赤みが差した目元がゾクリとするような色を添える。薄めの唇が弧を描き、僅かに傾いた首元で銀糸がさらりと揺れた。
視覚情報は入るものの、焦点は動かせない。
眼が、愛しくて堪らないとでもいうかのような眼が、逸らすことを許さない。
そんな眼で見られたことなんて、
ふら、と引き寄せられるように踏み出した足がガクンと崩れた。両手を地に着いて理解する。
アレは駄目だ。
まるで世界で一番幸福なものになれたような気がして、絶対的な安心感が力を奪ってしまう。
奇しくもポセイドンと同じポーズで崩れ落ちたベルゼブブは思う。
ハデスを酔わせたのは誰だ、と。
彼の影に小さな猪口が転がっていることには終ぞ気付けなかった。