常世の唄声 歌が、聞こえる。誰かが俺を呼ぶ声がする。
目を開けてまず飛び込んできたのは、大きな泉だった。薄暗い森の中、俺は泉の縁に立っている。こんな不可思議な状況だというのに、どうしてもあの声の元に行かなければならない気がしてならない。
泉に向かって一歩、足を踏み出す。水の上なんて歩けないはずなのに、踏み出した足は沈む事なく身体を支え、気が付けば水面に立っていた。
——……、頭の奥で知らない鈴の音が鳴る。
心のどこかで、これ以上進んでいいのかと不安が過った。せめて相手と意思疎通が取れたなら、安心してそっちへ向かう事が出来るのに。歌声の主は何も答えず、ただ静かに俺に向かって手を伸ばすだけ。白くぼんやりとした光を纏った腕はとても神秘的で、深い水の底にでもいるみたいに、全体が揺らめいていた。
別に、良いんじゃないか? こんなに綺麗な歌声で俺を呼んでくれているんだ。その方がきっと、心地好い。
一歩、また一歩と泉の中心へと進んで行く。あと少し、あと少しで――あの手を、掴める。
そんな俺の思考を遮るように、随分と音の外れた歌声が鼓膜を震わせた。
耳慣れた不協和音は、いつもなら不快でしかないはずなのに。目の前の歌声の方が、何倍も美しく綺麗なはずなのに。伸ばした手をそれ以上、動かす事が出来ない。
「俺、は……行けない。帰る、場所が……ある、から」
何に対して言っているのか、自分でもよく分からない。でも、これ以上は駄目な気がした。
伸ばした腕を下ろし、弾かれるように後ろを振り返って走り出す。アイツって誰だ? 思い出せない。自分の思考を塗り潰されていくように、今すぐ足を止めなきゃいけない気がしてくるのが、酷く恐ろしく感じた。
泉の縁まで戻って来る頃には、あの綺麗な歌声は聞こえなくなっていた。吐き出す息で肺がキリキリと痛むのを感じる。軽く息を整えて顔を上げれば、暗い森を背にして黒い影がこちらへと、枯れ木のように細い手を伸ばしているのが見える。
普通は、疑うべきなのだろう。先程の事を思えば、こんな空間で簡単に何かを信じてしまうなんて馬鹿げている。だとしても、コイツは信じられる気がして。
「……俺を、連れ帰ってくれるんだろ?」
そう言って差し出した俺の右手を黒い影が掴めば、胸の奥にじんわりした懐かしさが広がっていくようだった。
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目を開けると、俺の視界には一面の薄暗い夜空が映り込む。外で仰向けに寝っ転がってるのか? なんでだっけ。よく、思い出せない。
「……やぁ、起きたかい? 寝坊助め」
「あ? ……なんだよ、ドラ公じゃねぇか」
「なんだとは失礼な奴だな。君が起きるまで、せっかく待っててやったと言うのに」
声のする方に顔を向けると、いつもよりも若干静かな表情を浮かべたドラルクがこちらを見下ろしていた。寝っ転がってる俺に合わせてか、隣に膝を立てた姿勢で腰を下ろしているらしい。
「なぁ、俺なんでドラ公に右手掴まれてんの」
「さてねぇ……君が人気者だからじゃない?」
「答えになってねぇんだけど。変な夢も見るしさぁ」
「……夢に出来て良かったな」
「夢、って、いや……なんの話だよ」
含みのある言い方をするドラルクだったが、それ以上は語るつもりが無いらしく、するりと立ち上がって先に歩き出してしまった。アイツがあんなに感情の抜けた顔をするなんて、久しぶりに見た気がするな。
「……ロナルドくん? 早く行こうよ」
「っ、分かってるって! そう急かすんじゃねぇよ」
呼ばれた声に慌てて立ち上がり、ドラルクの後を追う。少し遅れて追い付いた俺を見て、ドラルクは何故か満足そうに微笑むと、急に俺の左手を掴み取り、手を繋ぐ形で再び歩き出し始めた。
「お、オイ おま、なにして……ッ」
「ん~? いやね、これは私のなんだからって思ったら、ちゃんと掴んでおきたくなっちゃって」
「いやお前、さっきからなに言ってんのか分かんねぇんだけど……」
「いいよ、別に。今は分からなくてもさ」
「はぁ」
「あはは! なんだか気分が良いんだよね、私」
上機嫌に歌い出す酷く音の外れた鼻歌を聞きながら、俺はそれ以上の抗議を諦めた。こういう時のコイツには、何を言ったところで聞きゃしねぇ。
繋がれたドラルクの右手は夢で見たあの黒い影のように、細くて頼りないくせに妙に安心する気持ちにさせるのだった。