怖いもの、は、あっただろうか。
例えば幼い頃、夜中にふと目覚めてしまった時の手洗い、それは母の起きている時間であって、家には灯がともっていたから怖くなかった。
例えば教訓や娯楽のために作られたおぞましい物語、それらも作り物だと強く信じれば立ち向かえた。
例えば幾度か遭遇した命の危機、その時も感じたのは恐怖よりも焦燥。
思い返してみれば心の底から震えるほどの恐ろしさなど、感じたことはなかった。なのに。
俺は今、想像しただけで喉が詰まって痛むほどの、そう、これこそが恐怖だと思い知らされるものを、目の当たりにしている。
想像と違う、もっと温かくて、浮き立つような、夢見心地の、それこそ幸福と言えるものだと思っていた。
536