口紅「テランス……、私に隠れて浮気したな?」
「え?」
くすくすとディオンは何故か楽しそうに微笑んでいる。ディオンが発した言葉の意味が分からず僕は首を傾げた。浮気? そんなこと僕はしていない。僕は前世の頃からずっとディオンのことだけを想っている。なのになぜディオンにそのようなことを言われなければならないのだろう?
「ほら、ここ」
ディオンが微笑みながら僕に近づき、僕の着ているスーツのシャツの部分をちょんちょん、と指で示す。僕は首を傾けてシャツを見てみた。
「え!?」
そこにあったのは誰が付けたのだろうか、口紅の跡が残されていた。どうして!? 何故こんなところに口紅が!? 僕は必死に今日一日の行動を思い返してみた。
「あ、もしかしてあのとき……!?」
今日は仕事で電車を使うときがあった。その電車は満員電車で、多くの人が混みあい、長時間揺られていた。その間に知らない女性から口紅を付けられたのだろうか?
「も、申し訳ございません! すぐに洗いますから!」
僕は慌てて口紅を洗い落とそうと着ているスーツに手をかけた。しかし、ディオンが何故かその手に触れて、制してくる。
「……? ディオン様?」
ディオンの行動の意味がわからず、僕はディオンの顔を見つめる。ディオンは「少し待っていろ」と僕に告げ、ディオンと僕の部屋へと移動してしまった。
部屋から戻ってきたディオンは何か二つ持っている。一つは手鏡、それにもう一つ、それは前に見たことがあった物だ。それは……。
「口紅?」
「ふふ……、そうだ」
ディオンは以前、女性用の口紅のコマーシャルのモデルを担当したことがある。女性用の口紅の宣伝に男性モデルを使うことにはじめはメーカー側は不安の声があがった。しかし実際に放送してみれば口紅を付けたディオンは凄まじく美しく、その口紅は売りきれ続出という成果をあげた。その口紅を、ディオンは今、手に持っている。
ディオンは口紅のキャップを外し、手鏡で顔を見ながら、唇に口紅を塗っていく。唇が紅く染まり、艶やかな印象に変わる。その姿に僕の心臓はドキリと跳ねた。コマーシャルを実際に観たときから思っていたが、口紅を塗ったディオンは本当に美しかった。唇を紅く染めただけで、こうも印象が変わるとは……と、感動したものだ。そして今は画面越しではなく今目の前で化粧をしたディオンがいる。
ディオンの美しさに緊張していた僕を見て、ディオンはにこり、と笑い、口紅を塗り終わったディオンは何を思ったのか、僕に身を寄せた。
「ディオン様……?」
「テランス……、私の夫……」
ディオンは潤んだ瞳でそう言うと僕の首に腕をまわし、顔を近づけ、唇を重ねた。合わさった僕の唇にディオンの付けた口紅が付いた感覚が伝わる。
「お前の唇に口紅を付けられるのは、私だけなのだぞ……」
ああ、そうか。ディオンは嫉妬していたのか。いくら事故だったとはいえ僕に口紅が付いたのが嫌だったのだろう。僕はそんなディオンの態度に愛おしさを感じ、ディオンをぎゅっと抱きしめた。
「テランス……」
今度はディオンは僕の唇だけでなく、シャツに口紅を付けた唇を落とす。唇を離すとディオンの唇の形に染まった口紅の跡が残った。困った。これじゃあ愛おしくて洗えないじゃないか。僕は困ったな、と微笑ましく思いながらディオンの頬にキスをした。その頬にはディオンが付けた口紅がうっすらと紅く色を付けた……。