失敗した。
カフェで紅茶を一口飲みながらそう思うのには理由がある。
仕事が休みの今日。家にいるより新しいスーツでも買いにと、外に出たのが間違いだったのかしら。それともナンパ男に絡まれた女性に声を掛けたせい? いえ、職業柄無視をする訳にもいかないからそのせいなのかも……。でも、まさか助けてくれたお礼をしたいとカフェに連れられてこうなるなんて、誰が予想出来るかしら。
「ちょっと! 聞いてるの!?」
バンッとテーブルを叩いたせいでカップの中のコーヒーが揺れて溢れる。
「聞いてるわよ。けどね、あなたの言い分を聞いたとしても私に出来る事なんてないわよ」
「じゃあ、あなたはあんな女に獠ちゃんをとられても良いって言う訳?」
睨みつけても怖くないわよ。それより、あんな女の言葉の方が気になるわ。
「あなたがどう思うかなんて勝手だけど。でもね、獠自身が香さんを選んだ事実に私から何か言う事なんてないわ」
「嘘よっ! 獠ちゃんがあんな女を選ぶなんてあり得ない!」
また勢いよくテーブルを叩く。彼女、癇癪持ちなのかしら?
「じゃあ、獠本人に訊いてみたらいいわ」
「そんなの……訊いたって獠ちゃんはぐらかすだけだもの」
まぁ、確かに。あの男の本心を掴める人なんて極めて少ないわね。ましてや彼女……獠が行きつけの店のキャストなら尚更本心なんて口にしないだろうし。
「私、ずっと獠ちゃんに好きだって言ってたのよ。獠ちゃんだって喜んでたし……なのになんで……」
涙ぐむ彼女の姿にため息が出る前に私はティーカップに口をつけた。
「獠ちゃんが選んだ相手があなたみたいな美人ならまだ分かる……。私がお店で働く前から噂があったみたいだし……」
彼女は以前から私を知ってたようね。そしてその噂がなんなのか。訊かなくても予想がつくけど。今更、獠との関係がどうとか話したいとも思わない。
「ねぇ、獠ちゃんはあんなどこにでもいるような人を選んだの? 仕事のパートナーだって言ってたのに」
私は答えず黙ったままでいても、彼女はを口を閉ざそうとはしない。
「まさか、あの人、獠ちゃんの弱みを握って無理矢理彼女になったんじゃ」
「それはないわ。彼女はそんな事するような人じゃない」
「だったらどうして!」
ふぅ、と私は小さく息を吐いて彼女の目を見つめ口を開く。
「私が手を伸ばせばあなたに触れられる。それだけ距離が近い」
「……急になに?」
「最後まで聞いて。これはあくまで私の考えだけど、獠は近くにいても遠い存在なの」
同じ空間にいても獠と他人の間には深い溝がある。それは彼がいる世界がそうさせている。
「獠はあの性格だから簡単にその溝を飛び越える事ができる。でもね、どんなに近い存在だとしても彼は自分がいる場所に独りで戻るの」
誰にも近寄らせない。それは私だけじゃなく槇村にでもそうしていたと思う。
「どうして、獠ちゃんはそんな事をするの?」
「自分に関わる人を守る為よ」
いつでも離れられるように。
いつでも他者の命を守る為に。
自分独りで何もかもを背負う覚悟を持って彼は彼だけの世界にいる。
「けど、今は違って獠の隣には香さんがいる。それは獠自身が決めた事なのよ」
香さんをパートナーにして数年。獠はずっと考え悩んでいたのだと香さんから聞いた。
「そんな事言われても納得できないわ……」
「ねぇ、あなたは獠がどんな仕事をしているか知ってる?」
「バカにしないで……、全部じゃないけどある程度は知っているわ」
「そうね、あなたも獠を見てきたのよね」
だから、敢えて私はもう一つ考えを口にした。
「もし、仮にあなたが誰かに操られて獠の命を狙おうとしたら彼、どうすると思う?」
「獠ちゃんなら私を助けてくれるわ。絶対に」
「そうね。その通りよ」
獠なら彼女が持つ銃を撃ち弾く。けど、もし香さんが相手だったら?
「あの人にも同じ事をするでしょ。じゃないと獠ちゃんが撃たれるじゃない」
「えぇ、そうね。でも、私は違うと思う」
「……え?」
もし、相手が香さんだったら獠は銃口を彼女に向けたりはしない。香さんが引き金を引き自分が傷を負いながらも香さんを正気に戻そうとするだろう。
「……そんなの……、私がどう足掻いても無理じゃない……」
膝の上の拳に彼女の涙が落ちる。
「あなた、お店のママや他のキャストに話したりしたの?」
「ママたちからは、獠ちゃんはやめとけって……」
やはりそうよね。店のママは獠と付き合いが長い。どんなに獠が好きでも身近にいる者は彼女を応援する事はないわね。まぁ、幸いなのは獠や香さんに直接話しをしなかった事ね。そうじゃないと、近いうちに彼女は店を辞めていたかもしれない。
「最後に一つだけ。香さんに魅力があるってあなた自身も判ってるわよね?」
ぐっと彼女の口が閉じる。
やっぱり。好きな人をとられたと思って誰かに愚痴をきいてほしかったのね。きっと、もし獠が選んだ相手が私だったら今ここに座っているのは香さんだったかもしれない。
「あなた、甘いものは好きかしら?」
「……嫌いじゃないわ。でも、なんで?」
「ここのオススメケーキがあるわ。それを食べ終わるまで付き合ってあげる」
店員を呼んでケーキ二つ注文する。その間も彼女の涙は止まってはいない。まぁ、大きな声で泣かれるよりマシよね。
ようやく涙が止まった彼女はテーブルにあるケーキを口に運ぶ。
「美味しい〜 ケーキなんて久しぶりだわ」
「それはよかった」
私はフォークじゃなくスマホを手にしてメッセージを送る。ここは新宿にあるカフェ。遅かれ早かれ私と彼女の事をあの男は耳にするだろう。
「ん? 何してるの?」
クリームを口の端に付けた彼女に私は微笑み「ちょっとね」と返した。
──借りから十発引いておいてね♡
了