【28】Phase XX「ちょ、ちょっと仁王先生、何を……わっ……!」
仁王は保健室に並んだベッドに向かって柳生の手を引き、ドンとその胸を押した。その反動で柳生はベッドに倒れ込む。
仁王が無駄のない動作でベッドとベッドを仕切るカーテンをシュッと引くと、四方を壁と水色のカーテンで仕切られた狭いベッドはふたりだけの世界になった。
呆気に取られて一瞬動作が遅れた柳生が逃げるより先に、仁王はひらりとベッドに飛び乗って柳生に覆いかぶさる。白いシーツのベッドに、柳生の着ている白衣がふわりと広がって、同じく仁王が着ている白衣も、柳生を包み込むように広がった。
首元までボタンのしめられた柳生のシャツに、ブランド物のシンプルな柄のネクタイが紅く映えていた。きっちりと結ばれたそのネクタイに指をかけて引くと、上質の布でできたそれはしゅる、と微かな音を立てて解けた。
「に、仁王先生……」
柳生が仁王を見上げると、柳生を見下ろしながら仁王はにっと笑った。その背景に、保健室の白い天井が映っていた。
「こんにちは、仁王先生。本日もよろしくお願いいたします」
「コンニチハ、柳生センセ。どうぞ」
初めて柳生がこの保健室を訪れたときから一貫して変わらない決まった挨拶を交わして、その部屋――保健室の責任者、養護教諭である仁王雅治はいつもそうするように、ドアを開けて校医の柳生比呂士を部屋の中へ通した。
普段は学校から車で10分ほどの場所で開業医をしている柳生は、この学校から依頼を受けている校医だった。
その職務は健康診断や予防注射の接種、校内の衛生チェック、保健委員会の出席や生徒に向けての健康指導など多岐にわたり、特に新年度は数日にわたって生徒の健康診断があるので学校に訪れる頻度も多くなる。そんな柳生にアポイントメントを取りつけてそのスケジュールの調整する学校側の窓口が養護教諭――いわゆる保健室の先生である仁王だった。
柳生は昨年の4月に前任の校医に代わって務め始めて、この4月から2年目の任務をスタートしたところだった。つまりふたりの関わりもちょうど1年を経過したところだ。
仕事上の関係でもあり、なにせ相手はお医者サマだからと最初はきちんと敬語を使っていたものの、堅苦しいことが嫌いな仁王は同じ年ということもあり柳生に対してだんだんとくだけた口調になっていった。もちろんそれができたのは柳生がそれを受け入れてくれたということが大きい。
柳生はそれほど大きく表情を変えるタイプではなかったけれど、慣れてくるとだんだんと自然な笑顔も見せてくれるようになった。たわいもない雑談に、口元に手を添えてフフッと上品に笑う姿が優美だった。
紅茶とスコーンが好きで、お気に入りだというスコーンを差し入れに持ってきてくれたこともあった。一緒に食べようと休憩時間に差し出したら、最初は差し入れたものだからと遠慮していたが、結局は仁王に付き合って食べてくれた。保健室に上質の茶葉なんか置いていないし、飲み物は安物のティーバッグの紅茶だったが、それでも柳生は文句を言わずに飲み干した。
仕事が遅い時間まで延びてしまったときに、仕事終わりに一緒に飲みに行ったこともあった。てっきり断られると思ってダメ元で仁王が誘ったら、柳生は二つ返事でOKしたのだ。仕事から離れてふたりで話してみると、柳生は思っていたよりも饒舌で、仕事と同じように性格も真面目だけれどノリは悪くはないし、会話も弾んで面白かった。
そのときは仁王がくだけた口調になってからしばらく経っているし、学校の外でまで柳生がいつまでも敬語のままなのは堅苦しい気がしなくはなかったが、「私は普段からどなたにでもこのような話し方なので」と言っていたので仁王もそれ以上は気にしないことにした。なにより眼鏡をかけて前髪はきっちり七三分け、いつも上質のシャツとネクタイをきっちり締めて背筋をぴしりと伸ばしている柳生に、その少し低い声で丁寧にゆっくり話す口調は良く似合っていた。
唯一、仁王のことを『仁王先生』と呼ぶことについては少々不満はあったが、先生と呼ばれるのは本当は柄に合わないからやめてくれ、と言っても、柳生はこれだけは変えることはなかった。余所余所しい感じがするのは残念だったが、もちろんそれくらいは許容範囲のことではある。
仁王はこの柔和な同い年の若い医師のことがとても気に入っていたのだ。
そんな柳生を気に入るだけでなくいつしか本気で惚れてしまった仁王が、柳生に対してアプローチをかけ始めたのは実は今回が初めてではない。いくらなんでもいきなりベッドに押し倒すなんて、スマートではない。今まできちんと段階は踏んできた、つもりだ。
それはあくまで仁王の段階であって、その段階を柳生がどう受け止めていたかは知らないけれど。
―Phase01―
保健室の真ん中に設置されているミーティング用のテーブルに向かい合わせに座って打ち合わせをするのが、昨年の4月から今までのふたりの定位置だった。
柳生の顔を見つめながら「柳生、好いとうよ」とその想いを告げたのは年も明けて1月になってからだ。柳生は形の良い眉を少しだけひそめてほんの少し首を傾げた。
「水筒……?」
「好いとう。好きってことじゃ」
にこりと笑いかけた仁王に対して柳生は表情一つ変えずに、「それは、どうもありがとうございます」と返した。
それから話は冬場の風邪やインフルエンザの発生状況の話に戻ってしまった。
―Phase02―
柳生は生徒だけでなく教職員の健康診断や面談も行っている。聴診器を仁王の胸と背中にあてたあと柳生はそれを耳から外して肩にかけた。
「異常な音は聴こえないようですので、服を整えて結構です。仁王先生、最近体調の変化の自覚症状や、何か気にかかることや心配事などはありますか」
「ある」
「どのような?」
「柳生センセのこと考えると胸がどきどきしてよう眠れん。恋患いで胸が苦しいんじゃ。柳生、治して」
そういって仁王は柳生の手を取り、まだシャツがはだけたままの自分の左胸に触れさせた。
「最近の睡眠時間はどれくらいですか」
「ぐっすり7時間」
「それだけ取れていれば問題ありません」
中指でくいと眼鏡を押し上げてから、柳生は『異常なし』の欄に丸を付けた。
もっときちんと迫ればいいということはわかっているのだけれど、こういうやり取りも面白くてついついふざけてしまったのは自分の悪いクセだと仁王は思った。
ただ、柳生のことを考えて胸が苦しくなることと、これを治すことができるのは柳生だけだということは、真実だ。
―Phase03―
いつものように保健室のテーブルに向かい合わせに座って、来年度の健康診断のスケジュールの相談をしていたときに、そっと柳生の右手に手を重ねてみた。柳生は手を振り払うでもなく、そのまま仁王がきゅ、と手を握ってもそのままだったけれど、にこりと笑う仁王にやはり表情を変えずに「仁王先生、メモを取りたいので手を離していただけますか」と淡々と返してきた。
表情はいつも通り変わらないけれど、視線を下に移して皮の手帳にスケジュールをメモしていく柳生の目元がほんの少しだけ赤く染まっているのを目ざとい仁王はもちろん見逃さなかった。些細な変化は、けれど仁王にとっては大きな一歩だった。
よくよく考えてみれば医者であれば患者の身体なんて毎日見ているだろうし、触れることもあるだろうから、慣れているだろう。けれどこうして手を握るなんてことはそうそうない。
もしかしたら、意外とこういう些細な触れ合いのほうがお好みなのだろうか……?
―Phase04―
「やーぎゅ!会いたかったぜよ」
保健室にやってきた柳生をいつものように招き入れてドアを閉めた後、背中からぎゅっとハグしてみた。
「先週もこちらでお会いしたばかりだと思いますが……」
「一週間ぶりじゃろ?」
「たった一週間ですよね」
普段は自分の医院で診察をしている柳生が校医としてやってくるのは、診察が休みの水曜日の午後だけだった。それも毎週というわけではなく、特段業務がなければ来校は月に1回ということもある。今回はたまたま用件があったから2週続けて訪れたが、これ以上短いスパンになることはないのだ。
仁王は抱きしめられても棒立ちのままリアクションをしない柳生の顔を覗き込んでみたが、柳生は無表情だった。まったくの、無。
「つれないのう……。ま、そういうところもいいんじゃが」
パッと腕を外して仁王は壁際の棚に置いてあるポットへ向かった。いつものように二人分の紅茶を入れるためだ。
その間に柳生はいつもの席に座って、仁王に気づかれないように小さく息をひとつ吐いた。
「……私に、いったいどうしろと……」
零した柳生のつぶやきは、その口の中だけで響いたもので、仁王の耳には届かなかった。
リアクションは、しなかったのではなくできなかっただけなのだけれど。もちろん仁王はそんなことを知るよしもない。
―Phase05―
今日は思い切ってキスをしてみようと考え、仁王はさっそく実行に移した。休憩時間にふたり分の紅茶をテーブルの上に置いて、「ありがとうございます」と律儀にお辞儀をする柳生のあごに手をかけて顔を近づけたが、さすがに仁王が何をしようとしているか柳生も気づき、ばっと顔を背けた。的を失った仁王のくちびるは柳生の頬をかすめた。
「な、何をするんですか、こんなところで……!」
「何って、キス」
今までと違って柳生は明らかに動揺していた。仁王の背中越しに見えるカーテンが開け放された窓ガラスに視線を移して珍しく少し声を荒げた。
「生徒に見られでもしたらどうするおつもりだったんですか!」
「体育の授業をしているやつらからはさすがに見えんぜよ」
保健室は一階にあって、怪我をした生徒が入りやすいように校庭に面している。とはいえ一口に校庭と言っても広いので、体育の授業をしている生徒が集まっているトラックまではかなり距離があるし、こちらからも生徒は小さく見えるくらいで誰かの判別がつかなった。あそこから保健室の中の様子まで見えるわけがない。
そのあと柳生は打ち合わせを早々に終えて「それでは今日はこれで」とそそくさと帰ってしまった。
最後まで頬は赤く染めたままだったけれど、それは怒りからなのか照れているからなのか。両方にも思えたけれど、さて。
―PhaseXX-2―
「なあ柳生、俺柳生のこと好きすぎて柳生のこと抱きたいんじゃ……、どうすれば柳生とエッチできる?」
その仁王の言葉を聞いたとき、柳生は口に含んでいた紅茶をなんとか噴き出すのをこらえてごくりと飲み込んでから、ゴホゴホと二、三度咳き込んだ。
「……私と、ということはさて置きまして」
「そこが一番重要なんじゃけど」
仁王の言葉は無視して柳生は淡々と話を先に進めた。
「ご存じかわかりませんが、男性同士の性行為は男女間よりもいろいろな準備が必要です」
「さすがやぎゅセンセ、詳しいのう」
「あなただってお仕事柄ご存じなのではないですか」
「あー……うん、そんなん仕事関係なくこんなこと言っとる時点で全部わかっちょる…その上で柳生としたいんじゃ。なあ、どうすればいい?俺がその準備も全部やればしてくれる?それとも柳生が準備してきてくれる?」
「え?」
最初に柳生に好きだと告げたのは1月、今は3月だ。
柳生の反応を見るのが楽しくて迂遠なことをしていたのは自分が悪いのだけれど、さすがの仁王もだんだんと切なくなってきてしまった。
「……はぁ……柳生とイチャイチャしたいぜよ……」
テーブルに突っ伏してため息をつく仁王に、柳生もどう対応すればいいか困ってしまった。
―PhaseXX-1―
そして年度が替わって4月の今日。
あんなことがあっても、というのもおかしな話だが、真面目な柳生はきちんと仕事をこなしに予定通り保健室へやってきた。仕事なので当たり前と言えば当たり前なのだが。
今までのことがまるでなかったかのようないつも通りの落ち着いた表情と声で、いつも通り保健室のテーブルに向かい合わせに座って、来週から始まる健康診断の最終打ち合わせを終わらせた。
校内の衛生チェックの巡回も終わって今日の予定業務はすべて終了というときに、仁王は柳生の腕を引いてベッドに押し倒したのだった。
「おまんの希望通り今日はドアの鍵も閉めたしカーテンも引いた。これで誰にも見られる心配はないぜよ。柳生、好いとうよ。今日こそ抱かせてくんしゃい」
ベッドに力なく投げ出された柳生の手を取ってその甲にキスを落とす。掛けている眼鏡をそっと外すと、いつもは見えないその瞳が裸になる。柳生は視線をふらふらと漂わせていた。
その手を拒まれないことをいいことに今度はくちびるにキスをしようとしたら、柳生は手のひらで仁王の顔をぐいっと押し戻した。
「駄目です!」
「ぶっ!………酷いことするのう……」
「仁王先生がヘンなことをしようとするからでしょう。あなた私のことを、だ、だ、抱くって、正気の沙汰とは思えません。先日の私の話は聞いていましたか、男同士は準備が必要で、いや、そもそも今は仕事中で……!」
「聞いた聞いた。で、今日はその準備、してきてないんか?」
首を少し傾げて仁王が問いかけると、柳生はぽかんと口を開けた。
「はあ?……あの、ご自分が何をおっしゃっているのかわかっていますか?なぜ私がそんなことをしないといけないのですか」
「キスしようとしたときに誰かに見られたらなんて心配してたから、見られないようにしたし、エッチするのに準備が必要だっていうから日をあらためた。俺は俺でここまで準備したのにのう……」
「え?は?あの……」
「じゃあ、いつにする?たしかにここじゃゆっくりできないし、できれば休みの日か、休みの前日の方がいいぜよ。ここで暴走するほど青くはないから待つのは構わんが、ま、なるべくなら早いほうが嬉しいのう」
「ちょっと待ってください、なぜあなたとするのが前提で話が進んでいるのですか」
「なぜって、そりゃあ、柳生が嫌がってないから」
「え……?」
仁王と柳生の視線が交錯する。眼鏡がなくてもこの近さなので、柳生の目には真剣な表情の仁王が見えた。
「自分で気づいとらんのか、おまんは最初から、一度も俺自身のことをイヤだと言ったことがない。いつも俺を拒む理由は別のことじゃ」
「それは……」
「そんで今日は準備がどうこう、仕事中がどうこうって。つまり、仕事中でなくて、準備が整えばOKってことじゃろ?」
「………」
柳生は視線を外して押し黙ってしまった。その沈黙は肯定とイコールだ。
仕事の関係もあるからはっきり嫌だと言えなかったとか、仁王のせいにしようと思えばいくらでも理由は思いつくはずだ。しかしそれを柳生が言うことはなかった。
「あ、あなただって……私たちは交際をしているわけでもないのになぜこんなことばかりしてくるのです」
しばらくしてやっとのことで柳生が絞り出したのはそんなセリフ。
「柳生のことを好いとうって、何度も言ったじゃろ。もしかして全部冗談だと思っとった?まあ俺もこんなんじゃき、信じてもらえんでもしょうがないけど」
「いえ、冗談と思っていたわけではありませんが、ただ、お付き合いするとか、そういうことは……」
「そこまでちゃんと言わなかったこと、気にしとんの?それは失敗したのう、俺が悪かった」
柳生に覆い被さっていた身体を起こして仁王はベッドの端に座った。それから柳生の左手を引いて起き上がらせてやる。押し倒された体勢からふたり同じ目線の高さになると、柳生は少し落ち着いたように見えた。
「柳生、好きじゃ。俺と付き合って」
「……っ…仁王先生……」
「そんで、俺と恋人同士のデートして、キスもさせて。それから柳生のこと抱きたい。場所はどこがいい?夜景の見えるホテル、俺の部屋、柳生の家、柳生が決めていいぜよ。あ、あとその『仁王先生』ってよそよそしい呼び方もいい加減やめて欲しいのう」
仁王は掴んでいた柳生の左手を持ち上げると、薬指の根元にちゅ、っと口づけた。柳生はピクッと驚いて反射的に手を引こうとしたけれど、逃さないように先回りしてぎゅっと握る。
「返事は?」
にこりと微笑んで柳生を見つめると、いつもきりっと上がった柳生の眉がへにゃりと下がっていくのが分かった。それから俯いてポツリと。
「―――れ、連絡先を……」
「連絡先?」
「私は仕事上必要なこちらの学校の連絡先しか知りませんので、仁王せん……仁王くん、の、連絡先を教えていただけますか。お返事は、あらためていたしますので」
「そりゃもちろん構わんけど、もうそれが返事のようなもんぜよ。あらためる必要あるか?」
あんなに頑なに『仁王先生』と呼んでいたのに『仁王くん』なんて呼ぶようになって、しかも返事のためにプライベートな連絡先まで聞いて。もしこれでこちらの告白を断るなんていったら、どれだけ性格がねじくれた人間なんだと罵っても許されるくらいだろう。
「あなたがどう考えようが勝手ですが、今は仕事中です。プライベートなことはしません」
照れ隠しなのか眼鏡のブリッジを中指で押し上げたけれど、何も隠せてはいない。柳生の頬は今までと明らかに違ってほんのりどころではなく真っ赤に染まっていた。仕事中にこんな顔をするのはええんか?とは思っていたけれど、もちろん仁王は口には出さなかった。
『お疲れ様です。
本日の件のお返事につきまして、今週の土曜日19:00ではご都合いかがでしょうか。
私の家でお待ちしております。』
そんな連絡が仁王のスマホに届いたのは、柳生が今日の仕事を終えて学校を去ってから、30分もしないうちだった。
ーPhaseXXー
This Saturday night
-fin-
***
白衣からいろいろ妄想して、仁王は医師というよりはこういう保健室の先生の方が合ってるな~と思ってちょっとしたSSを書こうとしたら長くなって収拾がつかなくなった話…。
勢いモノなのでベッターにはこのまま載せましたが、思い切ってざっくり切って短くするか、もっと詳細に書いて柳生の心理描写なども入れればよかったと思っています。あとでpixivに転載するときはちょっと変えるかもしれません。
これは養護教諭と校医の設定にしましたが、同じ学校の養護教諭と教員という同僚パロもいいと思ってます。