毛布は思考する。アンナが変だ。
その日ロードワークを終えて家に帰ると、お茶と、半分こしたたい焼きの頭の部分を寄越された。ちょうど前日オイラがそうしたのと同じように。妙だ、と首を捻りながら夕飯を作ったせいで尻尾が炭のように焦げたシシャモを口にしてもなお、「おいしいわありがとう」。挙げ句の果てには食後、自分でリンゴを剥いて運んできた。嬉しいとか以前に、恐怖だ。
オイラ何か悪いこと……
思い返すまでもなかった。思い当たる節しかなかった。
ーーーあんたは、そういう目的でしかあたしと寝れないの?
責めるような口調でもなく、どこかただ、淋しげな声であった。さすがに、反省した。そんなつもりはなかったが、それ以外の目的で一緒に寝るなど考えたこともなかったから。
ーーーあたしは、こうやってあんたにくっついているのが好きなんだけど。
男の欲を否定するわけではなく、許嫁はずいぶんと健気なことを呟いていた。それならよほど正面から嫌がられるなり殴られるなりしたほうが、まだ良かったのだが。
「あーーーー……」
風呂に沈みながら、唸る。露骨だったか。がっつきすぎている自覚はあった。が、普段のアンナから考えたら、嫌なら殴り飛ばしてくるだろうとたかを括っていたのだ。
もしや本格的に避けられとんのかな、と思って、いやしかしならなぜたい焼き?リンゴ?と疑問は尽きない。考えても埒は明かないのに思考は堂々巡りをして、結局、長風呂になってしまった。
髪を生乾きにしたまま自室の電気をつけると、真下に敷いた布団がもぞりと動いたので思わず「ぎゃあ」と叫んだ。
「…なによ人を化け物みたいに」
「い、いいいいいやおまえ、な…にしてるんよっ!?」
「遅いのよ」
アンナは布団を纏ったまま体を起こすと、スン、と小さく鼻を啜った。
「いつまで経っても出てこないし、すっかり冷えたわ」
「そ、そりゃあ…どうもすまん…」
なぜ責められているのかわからないがとりあえず謝ると、アンナは口を尖らせながら、両手をこちらに伸ばしてきた。
「ハイ」
「……ハイって言われても」
「来なさいよ毛布」
「……」
これはなんの冗談か。昨日の話はまるでなかったことのようにあまりに無防備に、その体を晒してくる。
しかも。
「…ほら何してんのよ。さっさと温めて」
オイラを見上げてくる頬が赤い。目はいつもより水気を帯びていて、困ったように下がった眉もツンと結んだ唇も、いやになる程煽ってくる。これはもしや彼女なりの仕返しなのだろうか。
「…オイラは毛布じゃねえ」
「いいじゃない、長風呂した分あったかいんだし」
言い方こそきついが、声がやけに甘い…ように聞こえた。ちょっとそわそわしているような、真意が他にありそうな。
「…いいけどよ。ここであったまっても部屋に戻ったらまた冷えんじゃねえか」
気分気分気分……アンナの気分を察することに集中する。失敗は許されない。散々煽っといて鬼のように冷酷な仕打ちをされるかもしれない。腹にぐっと力を入れて精神統一する。オイラは毛布だ。匂いとか、甘い声とか、さっきから目の端に入ってくるいつもより緩やかな浴衣の襟元とか、しなやかな腰のラインだとか、それらすべて意識の外に追い出しオイラは毛布に
「ここで寝ればいいじゃない」
「!?」
毛布の心でアンナを包もうとしていた全身に衝撃が走る。途端に布だったはずの体はアンナの体温を感知し、急に自我が暴れはじめた。
これは。この許嫁は、いったい…
「おっ、おまえなあ!」
「……なに?」
「昨日、どんだけ大変だったと……」
ため息混じりに思わず弱音が出る。背中を向けて寝息を立て始めたアンナのうなじを睨みながら、どれだけの熱を抑えて眠りについたと思っているのか。
「さあ。朝はよく寝てたみたいだったけど」
「……からかっとるんか?」
緩く、腕で包む。いつでも逃げていいぞと、それだけが目的じゃないぞと……今更アピールしながら。本音はもう全然それどころではないが。なるべく目を合わさないようにして、つらい修業のことなどを思い出すようにした。よし……まだいける。
アンナはその中でじっとオイラの胸元を見ていたかと思うと、大きく息を吐いて、それから口を開いた。
「…ちょっとだけ、待っていたのよ。本当は」
「………ん?」
「昨日。あんたがいびきかき始めたから、寝ちゃったけど」
「……へ?」
「バカね、本当に嫌なら蹴飛ばすわよ…。変なところで真面目なんだから」
アンナは拗ねたような声で言って、急に抱きついてきた。思考が追いつかない。
えーとつまり、なんだ?昨日のあれは、なんだ?
「……けど、ありがと。温めてくれて」
「アンナ…」
「…今日はあんたの布団で寝たい気分だったけど、迷惑なら戻るわ。おやす」
「いや!?いやいやいや!!!」
布団から這い出ようとしたアンナの細い腕を掴み、そのままごろんと仰向けにし直す。困ったように揺れる瞳を真正面から見下ろすと、今度は躊躇わずに唇を塞いだ。何度か角度を変えて啄んでいるうちにすっかりとその気になってしまった己に呆れながら、今ここで地獄の修業を思い起こしたところでなんの効果もないだろうなあ、とか思う。
「……疲れる、なら、その」
「……それは」
「……やめるなら今、だぞ」
「……」
沈黙が痛い。ああ今日も…ていうか同じ布団でただ寝るとかさすがに無理だ。けどこれはオイラの布団だし、ここを出たらオイラはどうしたらいいんだろうとかぐるぐる考えていたら、アンナは目を逸らして、何事かつぶやいた。
「……から」
「…え?」
「…今日はただくっついてるだけじゃ、温まりそうにない……から」
言って、その細くて白い、まだ少し冷たいままの指でオイラの頬をなぞってきた。
「……疲れても、いい」
キラキラの目に吸い込まれるように。
花みたいに柔らかな匂いと砂糖菓子みたいに甘やかな声に誘われて。
「おお。しっかり温めてやるから、安心しろ」
雪みたいに白い肌にキスを落として、けれど溶けちまわないように注意しながらゆっくりと、丁寧に。
オイラはアンナの体を温める毛布の仕事をまっとうすることにした。
終わり。