それだけで満足するかと問われたら──目まぐるしく過ぎていった二か月。
暗闇の中で細い糸の先端を掴むかのような僅かな情報から始まった担当事件は、じわじわと神経をすり減らしていって最終的には捜査企画室全体で取り掛かる程の大きな案件となった。
特にこの二週間は行確からの潜入、摘発──と息付く間も無い程、全力で駆け抜けた日々。
漸くまともに取れる休暇を前にして、浮き立つ気持ちがお月さまと共に浮かび上がってくる。
(先ずは溜まった洗濯をして……あぁ、天気が良かったらお布団も干しちゃおう)
この二か月、満足に出来なかった事を頭の中に思い浮かべて、優先順位をつける。そうして一日の予定が決まった頃、私は身を沈めていた温かな浴槽から出たのであった。
お風呂から上がって暫く怠っていた諸々のお手入れを済ませた後、冷蔵庫からカクテルの缶とおつまみにと買ってきたスーパーの惣菜を取り出しながら頭を掠めたのは〝彼〟の背中だった。
(服部さん、忙しそうだったなぁ)
捜査企画課が事件で慌ただしくしていると同時に捜査一課も厄介な事件を抱えていたらしく、プライベートでは会えてなかった。
昨日の午後に関さんから頼まれた書類を一課に届けに行った際に見かけた彼の後ろ姿。いつもはのんびりとした様に歩く彼が早足で廊下を歩く様子にまだまだ多忙さは続いているのだと予想出来た。
用意した晩酌セットをテーブルに置き、缶のプルタブを持ち上げるとプシュっと良い音が鳴る。まずは一口、とカクテルを喉に流し込むと炭酸の爽快さが口の中を駆け抜け、果実の甘さが追随して広がっていった。
(そういえば連絡も最近はあまりしてなかったっけ)
カクテルをちびちびと飲みながらスマホを持つと、LIMEのトーク画面を開いた。しかしそこに表示されたメッセージは五日前と何ら変わらずである。
幾らこちらが落ち着いたとはいえ、多忙な彼を邪魔しないような気の利いた言葉が思い付く訳も無く、入力欄をタップしては戻る、という事を何回も繰り返し。やがては一旦頭を落ち着かせようとテーブルの上にスマホを置き、独り晩酌を再開したのだった。
「わぁ……綺麗……」
時計の針が夜半を指す頃。ゆっくりと飲んでいたカクテルが疲れていた体に案外効いたらしく、少しだけ思考がふわふわとし始めた。
このままだと深く眠ってしまいそうだと、酔い覚ましも兼ねてベランダへと出て夜空を見上げると深紺の空には見事な月が浮かんでいた。
満月かと思いじっと見つめていると、ほんの僅か欠けている事に気付く。それが自分の心の中のようだと頭を過ると、急に寂しさが襲いかかってきた。
「……会いたいなぁ。ぎゅってして欲しい……」
思い出すのは此処に引っ越してきたばかりの頃。
あれよあれよという間に決まってしまった転居先はまさかの彼の自宅の階下。あの時もこうして夜にベランダで様々な事に考えを巡らせていると、頻繁に上から水滴が滴り落ちてきて、それがお風呂上りの彼の髪からだったと知ってからはタオルドライをしながらの〝業務報告会〟。
今でも時折タオルドライを口実に部屋へお邪魔する事は有るけれど、あの時の心境を思い出しては胸の奥が騒めいて落ち着かなくなる。
そんな気持ちを落ち着かせる為に手摺に乗せた腕に顔を埋めて呟いた言葉は、夜半の静寂にしては大きかったらしく思っている以上に酔っている自分に失笑が漏れた。
(……これ以上空を見てると、寂しくなっちゃうな)
この家は防音もしっかりしていて上階の生活音も聴こえず、ベランダから見上げても電気が付いているかという生活感を安易には窺えない。それ程までに住人のプライベートはしっかりと守られているマンションだ。
たった一階、されど一階。
前よりも二人の距離はぐっと近いものになったとは言え、各々の〝部屋〟に入ってしまえば物理的な壁は出来る訳で。私はこれ以上思考が深みに沈まないように部屋へと戻ると、ソファに置き去りにしていたスマホの画面が通知を表示したまま暗くなったのを視界のど真ん中で捉えた。
急いで画面を開くと、LIMEの通知が一つのメッセージが届いた事を知らせている。タップして開いたトーク画面の名前は〝服部耀〟だった。
《いま家。直ぐにおいで》
余計な言葉もない簡潔なメッセージ。いつもなら『お好きな時にどうぞ』とか私の都合に合わせてくれる文だけど、今晩はそれとは異なる。
ほんの少しだけ驚きながら慌てて平らげた惣菜のパックと空き缶を片付けると、寝間着のまま服部さんの部屋へと向かう為に戸締りをしっかりとして部屋を出た。
春と夏の境目、昼は汗ばむ陽気でも夜は存外にも冷える。お気に入りのふわふわ素材のショートパンツから晒されている足元が少し寒い気もするが、アルコールの手伝いも有って体は温まっている。大丈夫だと腹を据えてエレベーターに乗り込むと、一個上の階のボタンを押しすぐ《閉》を押す。
扉が閉まって数秒。静かに開いたエレベーターを出て迷いなく進み、彼の部屋のインターホンを押すと少し置いて扉が開かれた。
「こんばんは」
「はい、いらっしゃい。入りなさいな」
のっそりと扉を開いた服部さんの視線が一度だけ顔から足元へと向けられたが、その表情はいつも通り。お風呂上りの濡れた髪も平常だった。
促されるままに玄関へお邪魔すると、手を引かれてリビングへと連れて行かれる。
(んん……?)
いつもはこんな風に強制的に手を掴まれ部屋へ招かれる事は無い。
促されて腰を下ろしたソファがまずは私の重さで僅かに沈み、続いて服部さんの重さでもう少し深いものになる。隣にぴったりとくっついて座った服部さんは私の肩から背へと撫で、やがて腰に留まりぴくりとも動かなくなってしまった。
「……服部さん?」
「なあに、マトリちゃん」
不思議に思い彼を見上げると、目を細めた服部さんと視線がぶつかった。
そして返された呼び名にハッとして耀さん、と小さく言い直すと、『ん』と短い返事と共に静かな圧が消え去って腰ごと抱き寄せられる。
「なんか……怒ってます?」
「んー? 何か悪い事したって心当たりでも?」
「……心当たりが有るような無いような……うん。やっぱり無いと……って……?」
体の半分に服部さんの体温を感じながら必死に考えを巡らせる。ここ暫く合同捜査は無かったし、提出するスタンド関連の書類は無かった──と可能性の一つを思い浮かべては打ち消し、と繰り返していると、次第に右肩が重くなっていく。
視線だけを横に向ければ、服部さんの頭が凭れ掛かっていた。
(……眠いのかな?)
すっかりと重くなった右肩を見るように首を傾けるとアクアグレーの瞳がこちらを見上げている──何かを訴えるように。
いつもは煙に捲くような言葉を紡ぐ唇は閉じられてはいるが、心の中で何かを言われている気がする。けれども明確なものが掴めず必死で考える。
(え、何だろう……? 少し不機嫌な気はするけど……)
そろそろお手上げだ、と静かな瞳から視線を外した刹那、腰に回されていた手がするりと剥き出しの腿を撫でる。
「ひゃ……っ」
予想していなかった服部さんの行動への驚きと擽ったさが混ざり合い、素っ頓狂な声が出る。
「──呼んで直ぐ来たのは合格。だけど上階とは言えそんな格好で来るのは減点だねえ」
髪からぽたりと水滴が落ちる。それは服部さんの首元と、私の太腿に落ちてツ、と流れていく。
減点内容の意味が理解出来ると、頬が熱くなる。静かに窘める視線から逃げるように顔を伏せると、腿を撫でていた手が顎に触れそのまま長い指先で持ち上げられた。
否応無く再び絡められた視線。ゆっくりと細められた服部さんの双眸は、艶を含んでいる。
「──ぎゅってするだけで満足?」
「え……っ?」
何故その事を、と問う前に唇を塞がれる。お風呂上りの服部さんの唇は熱いくらいで、ほろ酔いも手伝って直ぐに頭がぼうっとしてくる。
下唇を何度も食まれて、上唇を緩く吸われて。身体の奥底から熱を引っ張り出すには十分な程の愛撫だった。
「……満足出来ないかもです」
ゆっくりと唇が離れて鼻先が触れる距離で、視線で返答を促され。私は緩く首を振ると『そう』とだけ返してきた服部さんの腕に抱き上げられる。その足が向かうのは彼の寝室だ。
「ふ……なら満足させるのも飼い主の務めだねえ」
抱き上げられた浮遊感に襲われ、私は思わず服部さんの首に両腕を回してしがみ付くと、彼の首元に顔を近付ける格好となった。
目の前に見える逞しい首回りに視線を向け、擦り寄ると石鹸の香りが鼻腔に広がる。無防備な首筋が目の前にあって、私は引き寄せられるようにかぷりと甘く噛みついた。
「ッ……。こら、じゃれ付かない」
「ふふっ、ごめんなさい」
「仕方ないワンコだこと。それなら」
寝室に入ると真っ直ぐにベッドの上に下ろされ、柔らかい掛け布団に背中が沈み両手を頭上で纏め上げられてしまった。
「──躾け直さないといけないねえ……何度でも」
『覚悟しんさい』と低く囁いた服部さんに唇を貪られるまでの短い間。
深い色の瞳に激しい熱を孕んでいて、私はそれを享受する時間が始まったのであった。