手を伸ばした先「副所長!お久しぶりです!」
「あぁ、お久しぶりです。育児休暇中でしたよね。どうされたんですか?」
「保育園の審査に必要な書類を作成していただいたので散歩ついでに取りにきたんです」
変わらない笑顔の彼女の腕には、まだふにゃとした柔らかそうな子供が抱かれている。
「副所長、今日は?」
「事務作業のみの予定ですので事務所にいますよ」
そう答えた俺に彼女は目をキラキラさせて1歩近付くなり『抱っこしてください!』と、すやすや寝ている子供を不慣れな俺の胸へと差し出してきた。
「あ、あの…」
「お願いします!」
断るにも押しの強さに負けおずおずと見様見真似で抱いてみる。
初めて触れた小さな命。
小さいのに重くて温かい。
緊張のあまり腕に力が入る。
そんな俺を他所にパシャっと目の前でカメラのシャッターが切られる音がする。そのシャッター音を皮切りに色々な方向からも聞こえてくる。
「…何してるんです?」
「尊いなって!!」
静かに事務作業をしていた事務員たちも、ここぞとばかりにスマホを取り出しシャッターを切っている。
「すごい…!副所ちょ…七種茨が赤ちゃん抱っこしてるって破壊力抜群……尊い…」
咎めたいところ…。
なのに腕に抱いている子供の存在が意外と大きくて今日はまぁ…と注意する気を失せる。
こんな状況になっていると言うのにすやすやと知らない人の腕で寝ている子供に目を向けた。
「満足しました!夢叶いました…」
「そうですか。では…」
「少しの間お願いします!」
彼女はそそくさと人事の席へと向かい取り残されてしまった。そんな俺を他の事務員たちは、何とも言えないほわっとした表情をしてこちらを見ている。
「はぁ…」
小さな溜息が出る。
一緒になって写真を撮っていた事務員たちも、さっきとは打って変わって静かに仕事に戻っている。
子供を片手に出来る事…と思ったが出来ない。なら戻ってくるまで空いている椅子に座っていることにした。
こんなに小さい子供を抱いて、近くでまじまじと見たのは初めてだ。呼吸をしているのか心配するほど静かで、時々ぴくっと動く、その背中を無意識にリズムよく叩いていた。
……俺も誰かに大切に抱かれたことはあるのだろうか。
考えなくてもいいことに胸辺りがチクっとした。けど、いまさらだ、いまさら考えたって仕方がない。
別に抱かれていたってなくたって、どっちだっていい。
ただ、どうか俺のような人にならないで…と祈るばかりだ。
「……!!」
やばい、忘れていた。
午前中までに猊下に渡す書類を不意に思い出す。時計を見ればもう少しで昼だ。
…何を言われるか。
渡さなかったら渡さなかったで言われる。どっちみちどっちもどっちだ。副所長室へと向かい猊下に渡す書類を取り、近くにいた事務員にスタプロへと行くと伝えて慌てて向かう。すれ違う人すれ違う人、視線を送ってくるが原因は分かっている。スタプロについても好機な視線は落ち着くことはなく早足で猊下がいる部屋へと入る。
「やぁ…あれ七種くんに子供がいるなんて聞いてないんだけどな」
「私もです。おめでとうございます」
弓弦がいるのは計算外だったことに頭が痛む。
「七種くん、おめでとう。弓弦、お祝い渡さないとね」
「えぇ用意して参ります」
分かってて言ってることがなお質が悪い。いつもなら全力の全否定で話を遮るのにさっきから気持ち良さそうに寝ている子供を起こしてしまわないかが怖くて言動を考えてしまう。
「ち、がいますので…!」
「漣様との子ではないのですか(笑)」
「………は、なんで知って!」
意味有りげに楽しそうに笑う猊下と弓弦という2対1のこの状況に早く帰りたい。
「漣様あなたといると花飛んでますし、あなたと話をしていますと分かりやすく嫉妬剥き出しなので」
あいつ!!!締める…!
「それで七種くん。その書類渡しに来てくれたんだよね」
猊下に言われ手に持っていた書類を、わざわざこちらへと取りに来た弓弦に渡すと猊下へ渡る。
「うん、ありがとう。またあとで連絡するね」
「はい。よろしくお願いいたします!では自分はこれで…」
目があった。
もうぱっちり開かれた瞳が俺をじっと見てる。
「起きられたのですね」
「ゆずる…!」
「大丈夫ですよ」
慌てる俺に子供はにこっと笑い手を伸ばしてくる。
「人見知りもまだでしょうし」
こんな風に笑うんだってムズムズする。伸ばされた手は髪の毛を束で掴み楽しそうに引っ張る。
「痛いのでやめていただますか?」
そう言うと弓弦が優しく手を開かせてくれる。
「茨がこうして抱っこしているのは不思議ですね」
「……無理矢理ですけどね」
「どうですか?」
「…………重いです。……温かくて、重いです。俺はどうだったのだろうかって。こんな風に抱いてくれた人がいたのかって考えてしまって嫌になります」
何を言ってんだろうか。
こんなこと弓弦に言わなくたって、と思うのに冷たく眠りについていたものに気づいて触れてしまい手に負えない程に大きく膨れ上がっている。
「俺という存在をほんのわずかな間でも認め愛されていたんだろうか、と考えたって仕方がないのに」
静まり返る室内の冷えたような空気に言わなきゃ良かったと後悔する。目元が熱いな、なんて感じていると弓弦の温かい声色が響く。
「……軽々しくは言えませんが、いた、と思いますよ」
「っ……」
「それに今はたくさんいます」
弓弦の言葉を聞いて軽くなった気がした。何がって言われたら分からない。けど、見ないようにしていた、こびり付いて取れないでいたものが取れたような感じ。
「君はきっと言葉にしないと伝わらないだろうから伝えるけど君は愛されてる。弓弦に敵意を向けるほどの温かい愛を漣くんから受けているし、漣くん以外にも日和くんや凪砂くん、僕や弓弦だって七種茨という存在を認めているから、もっと自信持っていいと思うよ」
「………」
「七種くんはもっと自分から手を伸ばしてみてもいいと思うけどね」
こんな雰囲気嫌いだ。
いつものように口を動かしたいのに口元が震えて上手く声が出せない。
「だぁ〜」
小さな手が頬を触れた。
まるで大丈夫?と聞かれているように。
「……大丈夫ですよ。母親のところへ帰りましょうか」
柔らかな頬を撫で返すとにこにこと安心した表情で俺の頬をペタペタ触ったり服を掴んでみたりしている。
「そんな君の漣くんだけど血眼で君を探してると思うよ」
「はい?」
「ほら」
楽しそうにホールハンズを見せられる。
「君が子供を抱いている写真が出回っているみたいだね」
「それは大変ですね」
くすくすと笑う2人に背を向け部屋を出て行こうとドアノブに手を掛ける。
「……ありがとうございました」
小さく声に出た。
この2人にお礼を言う日が来るなんて想像すらしたことなかった。でも過去の自分を抱きしめてあげることができた気がした。
帰りも好機な視線を浴びながらコズプロへと向かう。その間にも子供はご機嫌そうで俺を見上げては1人言葉にならないお喋りをしている。
「着きましたよ」
「やぁーっと帰ってきたね!!!」
コズプロへと入ると殿下の大きな声に迎えられる。
「殿下?どうされたんで、」
「茨ぁ〜!!!!誰との子ですか!!おれ、おれぇぇ〜…!!!聞いてませんよ!!」
目元を赤く染めたジュンが掴みかかる勢いで現れた。
「いや、誰って、」
殿下に視線をやるとやれやれと呆れている。
「ホールハンズで君が子供を抱いている写真が出回ってから、ず〜〜っとその調子だね!で、君の子供なの?」
「違いますよ。この子はそちらの育児休暇中の彼女の子供ですよ」
「ほらね!ジュンくん!」
Eveのやり取りを横目に、この子を母親の元へ戻す。
「ありがとうございました」
「いえ」
やはり母親だと分かるのか手を出して嬉しそうに笑う。
「泣きませんでした?」
「とてもいい子でしたよ」
「パパだと大泣きなのにね。また連れてきたときはお願いします!」
「……そうですね。時間があれば、ですが」
少しだけ屈んで視線を合わせる。
「…先程はありがとうございました」
伸ばされた小さな手のひらはまた俺の頬を触り、にこっと笑う。さっきからジュンが後ろで何か言っている。あとが大変そうだな、ってクスッと笑いが出そうになる。頬から伝わっていた大人より高めの体温が離れていく。
「では、またよろしくお願いします!」
「はい。こちらこそ。また」
ずっと抱っこしていたせいか腕が痛い。小さいけど存在していることを十分に実感させられた。
……どんな大人になるんでしょうね。
🐣🐥
「茨は、子供欲しいとか思いましたか?」
「…分かりません。でも可愛いとは思いました」
「………」
「将来」
「はい」
「ジュンがどうしても、というなら養子縁組を考えてもいいですよ」
「…なんですかねぇそれ」
「その頃には俺たちどうなっているか分かりませんけどね」
「そんなの変わらずオレは茨の隣にいて忙しくも幸せな日々を送っていますよ」
ソファーがぎしっと鳴り、体ごとこちらを向いたジュンの手のひらが俺の手を包み込む。冷えた指先が温かい。
「ずっと幸せでいましょうね。そして幸せにしましょう。将来出会う、オレたちの子供も」
「……はい」
触れた唇は少しだけ冷たかった。
「ところでジュン」
「はい?」
「……付き合ってることバレてしまっているのですが」
当分ES内での接近を禁じたが、事務員たちからは別れたのかという、何故だか悲鳴に近い問い合わせが自分へ殺到し1週間もしないで解除することになった。
「かっかぁ〜〜!!!」
「…私が茨に仕事を取って来てあげたんだよ」
なんて胸を張っているが、Adam・Edenの七種茨のイメージを崩すなんてどうしてくれんですか〜!!!
「さぁすが凪砂くん!」
「さすがじゃないですよ!」
ホールハンズで広まってしまった子供を抱いている写真を仕事先々で『うちの茨。かわいいでしょ』と自慢げにプロデューサーやらスタッフに見せていたそうで子供関連の仕事の依頼が俺宛にどっさりと舞い込んで頭を抱える日々だ。
「オレは待受にしています!」
「消せ!今すぐ!!」
「…初めまして」
手を伸ばす温もりをそっと抱き寄せる。
あなたも、確かに存在していますよ。