子犬の青い春 松本side 少ないバスケ部のオフ日、松本は親友と将棋をしていた。提出する課題があるわけでもない、最近の噂から注目される事もあり、バスケの自主練をしようという気持ちも起きず、ぼぅっとしていた時、目の前にやってきた黒井は折りたたみの将棋盤を掲げ「まっつー、久しぶりに将棋やろ」と誘ってきたのだ。
二人っきりの教室でパチと音を鳴らしながら、駒を指す。松本の人差し指と中指で持った駒は小さく見えた。6月の少し蒸し暑い時期、半袖から伸びる腕は入学した頃よりも筋肉がつき、指先の爪は綺麗に整えられ、松本がバスケに真摯に向き合っていることを物語っていた。お互い無言で駒を指し、松本の手が止まったところで黒井は口を開く。
「まっつーさぁ……最近、バスケ楽しい?」
「……なんで、そんな事聞くんだよ」
「うーん、雰囲気が暗く感じて?」
「疑問形かよ……」
「あとさぁ、なんか1年とバチってるらしいじゃん」
「あー、……噂話に疎いお前でも知ってんのか」
「噂には疎いけど、親友に関することは結構耳ざとい方だと思うよ俺。……それにココじゃあ、バスケ部ってだけでも注目されてるし、期待のエース候補で優等生の松本くんの話は回ってくるのも早いよ」
メガネのフレームを態とらしくカチャカチャと押し上げ、ニヤリと笑う。松本は「くく…」と笑いながら、パチっと音を立て駒を移動させた。
「で、実際どうなの?楽しいって思えてる?あと、マジでバチってるの?」
「お前、それ聞くか?」
「え〜、親友のことだもん。知りたいし、心配させてくれよ」
「今日、将棋に誘ったのはソレを聞くためか?」
「気分転換も含めてね」
パチ、…パチ、パチ、…………パチ、パチ
交互に、だが時間をかけて駒を指す松本の表情を伺う。表情は少し苦々しいものではあったが、悲壮感は感じられなかった。
黒井は松本が口を開くのを待ちながら、ふと廊下を見た。視線を感じたからだ。廊下には男子生徒が立ってこちらを見ていた。
(見たことない顔だな……1年か?こっち……というか、まっつーの事見てる?バスケ部か?……噂の1年くんかもな)
黒井は(邪魔しないなら、ほっとくか)と思考を切り替え、男子生徒から視線を外し松本へ視線を戻す。松本はそんな黒井に気づかないまま、将棋盤を見ながら口を開いた。
「黒井さ……」
「んー?」
「将棋部の中でも強いだろ」
「うん、まあ、上から数えた方が早いね」
「……キッパリと言うな。照れたり謙遜したりしない所が黒井のいい所だけど。…………そんな強い黒井は将棋のプロになりたいって思うか?」
「そうだな……ぶっちゃけ、プロになるほど将棋が強いわけじゃないし、プロで食って行けるレベルじゃない……プロ試験受けようって考えもないなー。そもそも、俺くらいのレベルじゃ受からん……どこの世界もプロはバケモンばっかだよ。俺は、そんな世界で生きていけない」
両手を上にあげ、無理〜とジェスチャーをする黒井に松本は話を続ける。
「噂になってるヤツはさ、バスケのプレーで観衆を惹きつけることができるし、実力もある。あいつは、きっと大人になってもバスケをしてる側の人間だと、……俺は思う。海外でプロになるヤツだよ」
「バスケのプロねえ……」
「俺だって、バスケの実力がないとは言わないが、ココではレギュラーになる事も厳しい環境だし、観衆が湧き立つプレーを俺がするには難しい事は理解してる。正直、将来の進路にプロになるっていう道は、選択肢に今は無い」
「うん」
「今、山王の中でプロになるって気持ちのヤツがどの程度いるか分からないけど、15歳でずっとバスケしていくって思ってるヤツに、今の俺は負けてるんじゃないかとは思ってる」
「まっつーの弱気発言きたー」
「茶化すなよ……」
眉を少し下げ、松本はそのまま言葉を続けた。
「苛立たつ気持ちは正直あるし、アイツに負けっぱなしで……バスケを楽しいかと言われると、分からなくなってきた……」
ポツリと口から溢れた言葉は、静かな教室に木霊した。松本の表情は、噂の後輩に対して怒りや嫉妬とあった負の表情ではなかったことは救いだが、黒井は胸がキュっとなり息が詰まりそうだった。
廊下からはヒュッと息の詰まる音が聞こえたが、黒井は気にせずに松本に視線を向け、話を続けるように急かした。
「苛立つ気持ちは……沢北に、……じゃなくて自分自身にだけどな」
「相変わらず真面目だねぇ」
「それに、バスケを辞めたいと思ってはいない……バッシュの音、ボールが弾む音、シュートを決めたネットの音を聞かないと落ち着かない。ボールに触りたくなる。…………きっと、バスケを嫌いになれない」
松本の声は穏やかだった。言葉に嘘は無いのだろう。黒井は安心し、小さく息を吐いた。
松本は思い出したかのように駒を指す。……と同時に顔を顰めた。完全な悪手だったからだ。思考がまとまらない内に指したであろう手に黒井はパチっと駒を指し、松本の駒を流れるように持ち駒に加えた。一呼吸おいて、松本が口を開く。
「言葉にしたく無いけど…………次の山王のエースは、……きっと沢北になる」
「そっか…………そっかあ」
松本の苦々しい表情と言葉に黒井は穏やかに頷くしかなかった。松本は黒井の言葉は必要としていないからだ。
「でも、レギュラーの座は譲るつもりはないし、プレーで負かしてやる。…………沢北に負けないと言ってても、エースはアイツだ…なんて言って…………矛盾してるな」
「いいんじゃね?俺たちまだ高校生だぜ、気持ちの切り替えや言語化なんて上手くできねえよ。ま、俺から言えるのは、まっつーのしたいようにやれば良いよって事だけだわ」
「ん、あんがとな……」
「でも、まっつーが弱音吐きたくなったら、俺の肩でも胸でも貸すから、溜め込むことだけはするなよ」
「はいはい……その時はお願いする」
先程までの苦々しい表情を崩し、苦笑する姿を見た黒井は、いつの間にか強張っていた肩から力を抜く。
「沢北はさ……俺との事で色々言われてる筈なのに、何度も俺に1on1を挑んでくるんだよ……なんかアイツを嫌いになれないんだよな」
「ほーん」
「見離されないか確認しているみたい…というか、……力関係のマウントを取りたい感じでもないし」
「うーん、憶測で言うけどさ……後輩くん、えーっと、沢北くんって中学時代になんかあったのかもね。だから、センパイに対して、どの程度まででダメなのか確認しているのかも。まっつーに甘えてるって感じかもね。……あ、でも、沢北くんがしつこくて、苛立って暴力……てのは無しだからな!まっつーのパンチ受けたら、歯が抜けるかも……」
「そんな事しねえよ!した事もねえだろ!!」
「そうだな。そんな事、まっつーしないもんな。問題になるし!…………で、続きどうする?投了でいい?」
「………参りました」
「はーい。ありがとうございましたー」
お互いに頭を下げ、将棋盤の駒を片付けていると廊下から生徒が入ってきた。先程からいた男子生徒だ。身長は松本よりも少し低く、あどけなさが残る顔立ちの生徒は、こちらまでくると「松本さん」と声をかけてきた。
「……沢北どうした?」
「あの……」
「(やっぱ、噂の1年だったのか。まっつーに懐いてるようだし、手助けしてやるか)……まっつーとバスケしたいの?今日、オフ日でしょ?自主練、頼みたい感じ?」
「あっ……うす」
先程まで沢北の話をしていた手前、少し居心地の悪そうにしている松本に沢北は何か言おうと口を開いてはモゴモゴとするものだから、思わず助け舟を出してしまう黒井。
黒井の言葉に、ぱあっと表情を明るくさせた沢北は頷きながら、松本を見つめる。
「……黒井、また明日」
「おー」
「松本さっ……!「沢北、準備するから先に体育館行ってろ」」
「…っはい!準備して待ってますから、来てくださいね!!」
沢北の言葉に被せるように放った松本の言葉に頷き、「失礼します」と笑顔で挨拶をした沢北は、足取り軽く教室から出ていく。二人はそれを見送り、「じゃあ」と言って椅子から立ち上がる松本に黒井は口を開いた。
「松本センパイ、やさしーね♡」
「うっせ」
「サワキタくん、子犬みたいに懐いてんね」
「子犬って……」
「いい子そうじゃん?俺らの話聞いてた筈だけど、なーんも言わなかったし」
「……」
「負けんなよ松本センパイ」
「ああ」
黒井の方を一切振り向かず、松本は教室から出て行った。黒井からは松本の表情は見えなかったが、きっと瞳に闘志を宿していることは想像に容易い。
松本が出て行った入口を眺めながら黒井は考える。
(子犬のように純粋そうだったけど……なーんか気になるんだよな沢北くん)
松本を見つめていた沢北の表情は、どこかセンパイに対しての信頼といった感情だけではなかったような気がする黒井は、次に将棋を指す時は、沢北くんとの話を振ってみるか……と考えながら、誰もいない教室でポツリと呟いた。
「うーん、青春の予感……かも?」
つづく