猫の日「コンニチハ」
時刻は昼過ぎ。リビングの天井まである大きな窓から太陽の光がさんさんと射し込んできている。やや眩しくはあるが、日の光の暖かさは嫌いではない。ソファに腰掛け、アッシュに用意させた紅茶をひとり傾けていた時のこと。
音もなくリビングに侵入してきていたらしいそれの、わざとらしい挨拶に私は思わず肩を震わせてしまう。
「……スマイル。突然声を掛けるなと何度」
言えば分かるのか。私は不機嫌さを隠さず振り向き奴を見上げ……そして言葉を失った。
「にゃーん」
私が振り向いたタイミングに合わせ、にっこりと満面の笑みを浮かべたスマイル……の頭頂部には、いわゆる猫耳が生えていた。黒くつやつやとした毛並みのそれは、一見すると本物のようにも見える。身につけているものも、モックネックの黒いセーターに黒いスラックスと珍しく全身黒ずくめだ。
するとスマイルは日本の「マネキネコ」のように、両手を丸めると顔の近くに持ってくるなりこれまたわざとらしく鳴き真似までしてみせたではないか。ぽかんとしたまま視線を下にやれば、奴の腰の後ろからはこれまた黒くつやつやとした尻尾が垂れ下がっている。……今、ゆらりと動いたように見えたのは目の錯覚だろうか。
「なんだそれは」
「黒猫のスマイルくんデス。お邪魔しマ~ス」
「あ、こら!」
ようやく口から出た問い掛けは我ながら実にぎこちないものだった。元々妙な衣類を着ていることが多い奴ではあるが、こういうもの(つけ耳?)も持っているのか……などと考えている内に、スマイルはソファの背凭れに片手を添え軽々と飛び越えてきた。重力を感じさせないそのしなやかな仕草はいっそ鮮やかな程で、咎める間もなく流れるような仕草で私の太ももを枕にして身体を横たえると「まるで猫のように」丸くなり、所謂膝枕の態勢を取られてしまった。
普段より耳の数が多い癖に、私の話を聞く耳は持ち合わせていないようだ。諦めた私は手にしていた紅茶が奴の顔面に零れないよう、カップをテーブルに置いてやることにした。
「どういう風の吹き回しだ?」
スマイルの突拍子な行動には慣れていたつもりだったが、今日のこれは輪を掛けて意味が分からない上に何かが引っかかる。
奴が仰向けになると両の瞳と目が合った。そういえば、今日は包帯を巻いていない。スマイルが得意気な笑みを浮かべて口を開く。
「猫の行動にヒトが納得する理由なんて無いのサ~強いて言えばぼくがしたいからこうする、それだけ」
ふぁ~っと、大きく欠伸をひとつ。
答えにならない答えに私は眉間に手を当てる。ごっこ遊びのつもりならあまりにも真面目すぎるし、大真面目なのであれば意味不明。先からの違和感を取り払いたくて、右手でそっと奴の左目を覆った。
「今日は城にアッシュがいるのに、いいのか」
「何の話?」
「…………覚えていないのか」
他人には頑なに隠し続けている左目、遠い日の2人だけの秘密。……言い出しっぺの方が忘れているという状況に苛立ちを覚え、腹いせに右手でそのまま猫耳を抓ってやった。途端、スマイルが悲鳴を上げる。
「イテテテ痛い痛い痛い!! ちょっと、止めてよユーリ~!」
どういう仕組みなのかこの猫耳はほんのりと体温がする上に奴の頭皮から生えているようにすら見える。抓っていない方の片耳は痛みに耐えるようにひくひくと痙攣しているが、こいつのことだから何か上手いこと仕込んでいるに違いない。
「演技が上手いな」
「ちょま、本当に、痛いん、だって、ばっ!」
うっすらと涙を浮かべたスマイルに右手を叩き落とされる。勿論私の手に怪我を負わせるような力加減ではないが、普段はそもそも私に手を上げることは決してしないが故に、拒絶された、と。思ってしまっても仕方がないだろう? ……一体私は何に言い訳をしているのだろうか。
「ユーリ」
俯き、黙ったまま悶々と思考を巡らせている内にいつの間にかスマイルが身体を起こしていた。太ももの上の体温がいなくなったせいで、普段ならば気にならないのに余計にひんやりとした感覚がよぎる。
名を呼ばれ、顔を上げるとすぐ目の前に奴の顔がありぎょっとする。じっと、こちらの顔を見つめてきているその表情に笑顔はなく、どことなく愁いを漂わせていた。反射的に身を引こうとしたが、背と肩に手を回されてそれは叶わない。そのまま顔が近づき、視界が暗くなる。
次の瞬間、予想とは違ったところに湿った感触。スマイルが私の目尻を舐め上げていた。
「ねえ、泣かないで」
「……泣いてなどいない」
「泣いてるよ」
「泣いてるのはお前だろう」
「そりゃあれだけ思いっきり抓られたらねぇ……」
顔を寄せたまま、囁き声での応酬はそのつもりがないのに内緒話をしているようで。表情の全ては伺えないが、声色から拗ねているのが丸分かりのスマイルの様子に思わず笑い声を零す。
「ユーリ」
「なんだ」
途端、ぎゅうと抱きしめられて互いの顔が見えなくなる。今日のこれは、普段より体温が高いようで触れ合っているとぽかぽかと心地がよい。
「ぼくは何処へも行かないよ」
優しく。
形容するとしたら、陳腐だろうがその言葉がぴったりだ。そんな声色で、奴は言った。
……2人の秘密を忘れている癖に。猫のように気まぐれに何処かへ行って、気まぐれに戻ってくる癖に。
私の心の一番一番深い底を、猫の舌のようにザラザラとした感触で撫でられた気がして、落ち着かない。見透かされているようなそんな居心地の悪さと、触れ合っていることの心地よさが一緒くたになって私の心をかき混ぜる。
そのまま体重を掛けられて、半ば押しつぶされるようにソファに横にされた。背にスマイル、目の前にはソファの背もたれ。両腕を前に回され、背中からすっぽりと抱き込まれた。重いから退けろ、と言おうと思ったが何故か妙に重みがないし暖かい。
「スマイル」
「おやすみ、ユーリ」
何か言わなくては。
ぐるぐる回る思考回路の中で口を開いたけれど、それすら見透かされたようなタイミングでそっとスマイルの手で目隠しをされる。耳たぶに唇を落とされる。脚に何かが絡みついてきたような感覚は……スマイルの尻尾だろうか。くあぁ、とまた大きな欠伸が聞こえて、そのまますぐ耳の後ろからすうすうと安らかな寝息。耳たぶに吐息が掛かってくすぐったい…………
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結局。
すっかり日が落ち、目が覚めた時にスマイル(猫)の姿はなく。
「アッシュくん! 今日の晩ご飯は何カレー?!」
「今日はポークカレーっス、割とスタンダードなやつですね」
「ン~~~そういうのもいいよネ、普通があってこそイレギュラーが輝くってものだし」
城に漂っていた香りから夕飯を察知していたスマイルは至って上機嫌、いつも通り全身に包帯を巻いた上に原色が激しいギャンブラーZのTシャツやら何やらを着ていて、勿論猫耳など生えてはおらず。
夕飯を食べている間、「そういえば今日って猫の日なんだってネ」と言い出したもののそこから話が発展することもなく。
あの衣装はアレだけの為に用意したのかだとか、冗談も休み休みにしろだとか。……何処にも行かないというのは本気なのか、だとか。
聞きたいことは山程あれど、余りにも奴が普段と変わらない様子でいるものだから、問い質すタイミングを逃したまま一日が終わっていったのであった。
……なんて、自分への下手な言い訳だ。
真に結局のところ、私はあいつに問うのが怖いだけだ。「本当だよ」と言われても一時の安堵にしかならない。互いに悠久の時を生きる者同士、不変のものは無いと知っているから。ならばいっそ「どうだろうね」とはぐらかされた方がいいとすら思う自分に嫌気がさす。触れては離れ、離れては触れる。確たるものを抱かぬように……繋ぎ留めておける自信がないから、曖昧な関係性に甘えている。
それでも……離れ難い存在なのだと。今日のアレが自分の創り出した幻影だろうが、スマイルの悪ふざけだろうが、最早どちらでも構わない。「あの言葉」を望んでいたのだと理解してしまったからには、伝えるべきだろう。気紛れな猫が、自分から姿を消してしまう前に。