ふと、誰かの声が聞こえてきた。
それはどこか慌てているような、焦っているような、そんな感じの声音で。
……五月蠅いな……
心地良い微睡みを邪魔された気分になり、ほんの少し苛立ちを覚える。
無視する事も考えたその時、滑りのある生温かいものが頬に触れ、反射的に瞼を開けてしまった。
視界に飛び込んできたのは灰色の雲が広がる空と、雪に覆われた一面の銀世界。それから──
「あ、あの! 大丈夫ですか!?」
「…………?」
こちらを見つめる水色の瞳と目が合って、思わず瞬きを繰り返す。
僕の顔を覗き込んでいるのは、頭にゴーグルを掛けた赤毛の少年だった。
年の頃は……まだ十代だろうか。童顔寄りな事も相まって随分と若い印象を受けるが、レザー装備と思しき格好に、背中の操虫棍。これらを見る限り、どうやら僕と同業のようだ。
そんな彼の傍らに鎮座している、一匹の犬。……いや、これはガルクだ。カムラの里のハンターが連れている、優秀なオトモ。先程の妙な感触は、成る程こいつの舌か。
君は? と問い掛けようとして、別の疑問が頭を過った。
そもそも僕は何故こんな場所に倒れているんだ?
上半身を起こしながら、記憶の糸を必死に手繰り寄せる。
……そうだ。
カムラの里に赴いて、鎚使いの男と、里の英雄──猛き炎と呼ばれている青年と僕の3人で挑んだ、ベリオロス狩り。
長引く狩猟で疲弊していく中、突如出現したクシャルダオラに混乱し、諍いを始めた彼らを何とか落ち着かせようとした。僕は咄嗟に鎚の男の腕を押さえ込んで、そして──
直前まで争っていたふたりの、ぽかんとした表情。伸ばされた手。次第に遠ざかっていくそれが、自分の覚えている最後の光景だった。
「ガルクが妙に吠えるから気になって……下を覗いてみたら、貴方が倒れていたんです」
僕が相当混乱していると思ったのか、静かな声で語りかけてくる少年。
雪の深いところで良かったですね、と言われて、改めて辺りに目をやる。
眼前にそびえ立っている断崖。その壁面には岩肌の出っ張った箇所がいくつもあり、落下する際に激突しなかったのは運が良かったとしか言い様がない。また、僕が倒れていた周辺には、雪が少なくて薄らと地面が見えている箇所もあった。場所が少しでもズレていたら、こんなものでは済まなかった──いや、下手をしたら命を落としていた可能性がある。……僕は本当に幸運だった。
「立てそうですか?」
少年の問いに、ああ、と答えて身動ぎした途端──
「つっ……!」
右足首に痛みを感じ、動きが一瞬止まってしまう。それでも立ち上がろうとしていたら、少年が片手を翳して僕を制した。
「……足、痛めてるみたいですね。とりあえず里まで戻って、お医者さんに診てもらいましょう」
里……というのはカムラの里の事だろうか。
そう言って少年は僕の片腕を取り、自分の肩に引っ掛ける。彼の力を借りて立ち上がると、僕の側にガルクが身を寄せ、チラリと視線を向けてきた。
「乗れって言ってるんですよ」
ふふ、と笑う少年。
何だか申し訳なく思いながらも彼に手伝ってもらい、ガルクに跨がる。
「済まない……ありがとう」
「いえ。同じハンター同士、困った時はお互い様ですから」
……彼とは出会ってまだ間もないが、今の笑顔を見ていると、性根の真っ直ぐな良い子なのだろうな、と思った。
世の中には、負傷やら何やらで行き倒れ掛けているハンターから、もしくは既に動かなくなった者から、非常事態でもないのに平然と金品や装備品を奪い取っていく輩もいる。だがこの子はそういった類の人間ではなく、純粋に僕を助けようとしてくれているのがよく分かるし、とても有り難かった。
「お前も、ありがとうな」
ガルクにも礼を述べて頭を撫でたが、落下した僕に気付いてくれた事といい、後ほど改めて──そうだな、美味い肉でも奢らせて頂こう。喜んでくれると良いのだが。
少年も、そしてガルクもゆっくりした足取りで歩みを進めていく。僕の怪我に気を遣ってくれているのだろう。
ざくざくと雪を踏みしめる音を聞きながら、頭の中では相変わらずいくつもの疑問が渦巻いていた。
姿の見えないあの2人は一体どこに行ってしまったのか。
手負いのベリオロスは? そしてクシャルダオラは?
……彼に何か聞いてみようか。少し前を歩いている少年の背に目をやる。
とりあえず、近くに他のハンターが居なかったか、それだけでも──
──と、そこで。少年が急に立ち止まった。それに伴いガルクも動きをぴたりと止める。どうかしたのかと僕が口を開く前に、
「この先の広場、ティガレックスがいます」
「……なんだって!?」
小声を発した少年につられ、僕も声を潜めて聞き返す。
「ここを抜けないといけないんだけど……厄介だな……」
彼ひとりならまだしも、僕というお荷物を抱えていては、気付かれずに突破するのが容易ではないという事か。
本来、砂原に生息しているティガレックスがこんな寒冷地まで来ているなら、腹を空かせている可能性が高い。それに加えてティガレックスはもともと獰猛な性質だ。僕達などヤツの視界に入れば、ちょうどいいエサが自ら飛び込んできたとしか認識されないだろう。
少年は背中の操虫棍を手に取り、ガルクの頭を軽く撫で、
「俺もすぐに合流するから。ちょっと先に行っててくれ」
その言葉に頷くかのように、ガルクがクゥンと鼻を鳴らした。
「君、まさか囮に……?」
「はい。俺があいつの気を引いてる間に進んで下さい」
「いや、それは──」
駄目だ。
君のような若い子に、しかも命の恩人にそんな危険を負わせる訳には。
とにかく彼を思い留まらせたくて、何か代案は無いかと考えを巡らせ始めたその時。
「すみません。足に響くかも知れませんが、少し我慢して下さいね」
そう言うが早いか、彼は頭のゴーグルを降ろして目深に被ると、
「──行け!」
少年の鋭い声と共に、ガルクが急に走り出した。
「ぅわ!?」
先程までの移動速度とは比べものにならない速さに慌てて身を伏せ、ガルクにしがみつく。確かに揺れと衝撃が伝わってきて少々痛いが、それに不平を申し立てている場合ではない。
そして背後から聞こえた、大気を震わせるようなティガレックスの咆哮。
彼が交戦しているのか。
すぐに合流するとは言っていたが、本当に大丈夫だろうか。
雪の積もった道を暫く走り、段差を幾つか越えたところで、ガルクのスピードが緩やかになった。
僕も周りの風景を見る余裕が出てきて、伏せていた身体を起こし視線を巡らせると、見覚えのあるテントが視界に映る。
どうやらベースキャンプまで無事辿り着いたらしい。ここまで来ればあのティガレックスはもとより、他のモンスターの襲撃を心配する必要もない。
だが、あの子は──?
どうか無事に戻ってきてくれ、と祈るような気持ちで来た道をじっと見つめていると、ふいにガルクが顔を横に向ける。同時に横手にある斜面から、ざざざ、と何かが滑り落ちてくるような音が聞こえてきた。
そちらを見上げれば、先程の少年が雪の積もった斜面を滑り降りてきて、途中で大きくジャンプし──翔蟲を使い一度宙に留まった後、軽やかに着地する。
「──君! 良かった、無事だったんだな!」
僕がそう声を掛けると、彼はゴーグルを上げて笑顔を覗かせ、
「適当に相手して、撒いてきました。さ、帰りましょ!」
あっさりと言ってのける少年に、正直驚きを隠せなかった。
ティガレックスの動く速度や、執拗さはかなりのものだ。それをいとも簡単に……?
「凄いな……その年で随分と手練れているんだな」
「お、俺じゃなくて、いろいろ教えてくれた教官が凄いんですよ! 俺の師匠にも当たる人なんですけど、その人がめちゃくちゃ強くて──」
再び歩みを進めながら、彼は件の教官について色々話してくれた。人物像やその教え、他にもなかなか興味深い話があり、
「へぇ……鉄蟲糸技もその人が?」
「はい! ほんとすごい人なんです、教官は……!」
まるで自分の事のように、嬉しそうに語る少年。余程その教官──師匠の事が好きなのだろうな、と微笑ましく思う。
……そういえば、彼は師と喧嘩をしてしまったと言っていたな。
随分と気に病んでいたようだったし、仲直りできると良いのだが。
何とはなしに後ろを振り向き、少し前まで一緒だった2人の顔を思い描きながら──
僕は少年と共に、寒冷群島を後にしたのだった。
◆ ◆ ◆
そして、少年に案内されて辿り着いた場所。
入り口にある大きな門も、特徴的な赤い橋も、その奥にあるたたら場も、全て見覚えがあった。やはりここはカムラの里だ。ほんの数日前に訪れたばかりなのだから、間違えようも無い。
そうだ、カムラに戻ってきたなら、彼の事が何か分かるかも知れない。診療所はこっちです、と先導してくれる少年に、
「君、この里に──」
里の英雄でもある人物の名前を口にして所在を尋ねてみたが、彼は少し考え込む素振りを見せ、
「いえ……里にはいないと思います。俺、ここで16年間暮らしてますけど、そのひとの名前は聞いた事が無いです」
彼の口から出た答えに、絶句する。
この少年が嘘をついているようには見えないし、何より僕を騙すメリットなどありはしない筈だ。しかし、これは──
「人探しをしてるんですか? すみません、力になれなくて……」
「あ、いや……この里で『猛き炎』と呼ばれて、英雄扱いされている人だと聞いてね。ちょっと興味があったんだよ」
「た……」
彼の知名度を考えたら、不自然ではない誤魔化し方だと思ったのだが。
目の前の少年は、何故か目を丸くして──かと思えば、少し頬を赤くしながら視線を彷徨わせている。
「どうかしたのかい?」
「猛き炎って……それ、多分、俺の事、です……」
どこか恥ずかしそうな様子で呟いた彼を前に。
間違いなく僕の頭は、本日で1番の混乱を来していた。
あの崖下で目を覚ましてからというもの、訳の分からない事だらけだ。
ひとまず足が治るまで里の宿に滞在する運びとなり、その間にも可能な限り探りを入れてみた。
僕を助けてくれたあの少年が、この里で『猛き炎』と呼ばれているのはどうやら間違いないようだ。だが、数日前に集会所で顔を合わせた『彼』とは外見は元より、名前までもが違っている。
共にベリオロス狩りへ出発した彼は、一体何者だったのか。
しかしあの青年が英雄を騙っているとも思えなかった。彼の戦い方を目の当たりにしたお陰で、よく分かる。洗練された太刀捌きを始め、身のこなしなど、あの強さは本物だ。だが、里の住人に僕が知っている『猛き炎』の名を尋ねてみても、返ってきた答えはやはり『聞いた事がない』というものばかり。
そして集会所の受付を担っている竜人族の女性に、2日程前ベリオロス狩りへ出発した3人組が居なかったかと聞いてみたりもしたのだが──どこか想像していた通り、彼女も首を横に振るだけだった。
一体、どういう事なんだ。
ここは確かにカムラの里の筈なのに、あの青年の痕跡も無ければ、自分達がここを訪れた気配すらない。
……何が何だか分からない。
結局、里の中ではやれる事も限られていて。これ以上里の人達に食い下がっても、奇異の目で見られるだけだ。完全に手詰まりとなってしまった。
宿で床に就きながら、ぼんやり考える。
彼らは、僕の事を心配しているだろうか。
いや、もしかしたら、崖から落ちた僕が死んだとでも思ったのかも知れない。そう考えれば、2人があの場に居なかった事もそれなりに納得はできる。ベリオロスにトドメを刺しに行ったか、もしくはクシャルダオラから一旦逃げる事を優先したか。
せめて無事を伝えてやりたかったが、そういえば彼らとはギルドカードの交換もしていなかった事を思い出す。
あんな形で揉めてしまったのは残念だけれど、鎚使いの男も、英雄と呼ばれていた青年だって、決して悪い連中では無かった。特にあの青年に対しては、彼が心身共に万全な状態で、改めて狩りをしてみたいとも思っていた。
また……いつか、会えるだろうか。
あの日の夜のように、3人で笑い合える日が来るだろうか。
◆ ◆ ◆
僕がカムラの里にやって来て、1週間ほど経過した。
アイルーの医者に診てもらっていた足も痛みは殆ど引いてきて、医者の許可が下り次第、狩りに出る事も出来るだろう。先日のベリオロス狩りは達成できなかったし、治療費や何やらで出費は嵩む一方だ。流石にそろそろ依頼を受けないと、懐が心許なくなってきた。
そんな事を思いつつ、買い物とリハビリを兼ねて里の中を歩いていると、
「──こんにちは!」
茶屋の近くで聞き覚えのある声が掛けられ、そちらに顔を向ける。
駆け寄ってくる赤毛の少年に、やあ、と挨拶しながら軽く手を掲げた。
彼にもこの1週間、世話になりっぱなしだった。元々そういう質なのかも知れないが、自分が救助したという事もあってか、何かと僕を気に掛けてくれて。知り合いのいないこの里でも孤独を感じず、また特に不自由もせず暮らせたのは、彼の存在がとても大きい。
「足はもう大丈夫なんですか?」
「お陰様でね。そろそろハンター業にも復帰できそうだ」
「そうですか、良かった!」
ぱっ、と顔を綻ばせる少年に、こちらも釣られて笑みが浮かぶ。
「それじゃ俺、集会所に行くので──」
「ああ、気を付けて」
集会所に向かうという事は、今日もまた何か狩りに出かけるのだろう。本当に精力的な少年だ。
「あ、そうだ」
数歩進んだところで不意に彼が立ち止まり、振り返る。
「怪我治ったら、一緒にクエスト行きましょうね!」
そんな彼の言葉に、僕がひとつ頷くと──
彼は嬉しそうに笑って、手を大きく振ってから再び背を向け、走り出していった。
花吹雪の中を駆けていく彼の後ろ姿を眺めながら、ふと思う。
世界から消えてしまったあの2人──いや、ひょっとしてあの場から消えたのは、僕の方なのではないか、と。ぞっとしない事を考えたりもした。
けれど、僕は今こうして生きている。
幸いな事に、時間はたっぷりあるんだ。調べ物をしたり、考えたり、悩むのだって、まだまだ幾らでも出来る。
そう、これらは全て──生きてこそ、なのだから。