「……まいったなあ」
地面の上、大の字に寝転びながら。
曇り空を眺めて溜息ひとつ。
先程から降り注いでいる雨は勢いもだいぶ落ちてきているが、止むまでには至っていない。己の不甲斐なさと運のなさに呆れつつ、立ち上がろうとしてみたものの、
「……っ……」
右足首に酷い痛みを感じ、その動きも止まってしまう。
自分が落下したであろう崖上を、恨みがましく見やりながら──雨の中、俺は途方に暮れていた。
そもそもの発端は、俺がこっそり引き受けていた依頼に始まる。
ここ数ヶ月の間、俺達が世話になっている村で専属ハンターに就任してからというもの、とても重宝されているナタ。そんなナタが狩猟に出かけている間、俺の方はというと、基本的に村でナタの帰りを待つようにしていたんだが……
正直言って、暇なのである。
子供達の授業がある曜日はまだしも、そうでない日はぶっちゃけ手持ち無沙汰だ。家の掃除に洗濯、買い物や飯の準備、弓の手入れをしたりと、する事がまるでない訳ではないが……ハンターとして現地に赴いていた頃とは、密度が比べものにならないというか何というか。
なのでナタが村を空けるタイミングを見計らい、俺も村人からのちょっとした依頼──例えば採取のようなものを引き受け始めたんだ。何せ舞い込んでくる依頼の受け付け窓口が俺なのだ。依頼を請け負う際、相手に『この件はナタに黙っておいてほしい。報酬は割引価格でいいから』と念押ししておけば、小首を傾げながらも頷いてくれて、そのおかげでナタにもバレずに行動する事ができた。
一応断っておくが、別に生活が困窮しているという訳でもない。ナタの稼ぎで充分食えてるし、俺が現役時代に貯め込んだ分だってある。けど村の皆には日頃良くしてもらっているから、それを少しでも返したいのと、俺もたまには現場の空気が吸いたい気持ちがあり、まさに相互利益ともいえるやり取りだったのだが──
そして今朝も、狩猟に出発するナタを何食わぬ顔で見送って。俺も頼まれていたキノコ採取を開始するべく、村の近くにある山へと足を運んだんだ。
アオキノコだの特産キノコをさくさく集めて肩掛け鞄に詰め込んで、村に戻ろうとしていた矢先だった。右腕に違和感が生じ始めたのは。決して気のせいではない、腕の──古傷の痛み。もう何年も付き合ってきた事だから分かる、これは一雨来そうだ、と。
しかし悪い事は重なるもので。予想通り降り出してきた雨に濡れながら、急ぎ山道を下っていた俺が目にしたのは、普段この辺りでは滅多に見かける事のない雌火竜──リオレイアの姿。急な天候の変化で、文字通り羽根……というか翼を休めているのかもしれない。
幸い、こちらにはまだ気付いていないようだが、思いっきり進行方向に居座られているのが厄介だった。
戦うなんて以ての外だ。そっとやり過ごすのがいいだろう。
俺は正面にいるレイアを視界の隅に捉えたまま、足音を忍ばせ、軽く迂回するように進み始める。
と、そこで──
レイアの背後から様子を伺い、今にも飛び掛かりそうなランポス数匹の姿が見え、息を呑む。
「バっ……」
バカやめろ、と制止の声が出そうになり、慌てて口を噤んだ。
けれどレイアの方は俺の気配を察したようで、首をこちらに向け、お互い視線がぶつかった直後──
レイアに背を向け、その場から全力で駆け出した俺と。
ほぼ同時に背後で聞こえたレイアの咆哮。そして追いかけてくる大きな揺れと、振動音。
木々を避け、茂みを掻き分けながら、とにかくレイアを撒こうと必死に走り回る。今持っている武器らしいものは投げナイフ一本だし、流石にこれで手傷を負わせて撃退しようだなんて思わない上に、やりたくもない。
なかなか諦めようとしないレイアをチラリと振り向き、
「くそ、しつこいな……!」
そんな悪態をついた時だった。
「──え」
足元に地面がない。
一瞬の浮遊感の後、即座に訪れる落下感。
どうやら俺は、走っている勢いそのままに、崖から飛び出してしまったようである。
まずい、受け身を──なんて思った次の瞬間には全身を衝撃が襲い、俺の意識は暗転した。
「……っ、つう……」
身体のあちこちから感じる痛みに、呻きながら目を開ける。
……そうだ。
レイアから逃げる途中で、確か崖から落ちて──
短時間ではあるが、この場で気絶していたらしい。死なない程度の高さで良かったとつくづく思う。
ところでレイアの奴は、上手い具合に俺を見失ってくれたのだろうか。
聞こえてくるのは雨が地面を打つ音だけで、辺りにモンスターの声や気配は感じられない。差し当たっての一難は去ったようだが、はっきり言って今の状況も芳しくなかった。
「……まいったなあ」
湿った地面の上で、雨に晒されながら大の字に寝転んで。
俺は溜息と共に独り言ちたのだった。
少しの間、仰向けのままボーッとしていたけれど。
まあ、こうしてるだけじゃ状況は何も変わらないだろうし。
「よっ……と」
とりあえず上半身を起こした体勢で座り込み、これからの事を考える。
鞄の中を確認してみれば、集めたキノコ達は何とか無事だった。けど俺の方はレイアから逃げ回った挙げ句、崖からの落下ですっかり方角が分からなくなってしまっている。せめて太陽でも出ていれば良かったんだが、この曇り空ではそれも叶わない。足の痛みに関しては根性入れれば何とか歩けそうな気もするが、村への道筋を探しながら当てもなく彷徨うとなると、先に気力の方が尽きてしまうかも知れない。
そして小降りになったとはいえ、雨は相変わらず俺の身体を濡らし続けている。少しずつ体温が奪われていくのを感じるが、この辺りは木々が少なく、近場に雨を凌げそうなところも見当たらない。全身くまなく傷だらけだし、腕も痛ければ足も痛い。こんな事になるならキノコだけじゃなく、薬草の類も拾っておくんだった……と後悔しても後の祭りである。
遭難まがいの現状に加えて、問題がもうひとつ。
俺よりも先に、ナタが家に戻ってきてしまう事だ。
ナタが帰宅して俺の姿が見当たらなくても、しばらくは買い物にでも行っているのかと思ってくれそうではある。けど、なかなか帰ってこない事を不審がって、村の中へ捜索に出たりしたら。ナタに俺の行方を問われた村人が、口を割ってしまったら──
頭を抱える。
まずい。とてもまずい。
ナタのやつ、絶対に怒るよなあ……
雨の日に古傷が痛む事を知られて以来、前より心配性になってるところがあるし。まーた眉を吊り上げて、
「──先生!」
そう、まさしくあんな口調で怒鳴りつけ……
……って、あれ……?
「先生、どこですか!? 返事をしてください、先生っ!!」
再び耳に届いた、とても聞き覚えのある声。
人は長い時間孤独に晒されると、幻聴が聞こえ始める事もあるらしい。
けど、ここに落ちてから──気絶していた時間を含めたとしても、流石にそこまでの時間は経っていない筈だ。
俺が山にいる事を誰かに聞いて、探しに来てくれたのか……?
崖下から、ナタ、と彼の名を叫んでみる。
……聞こえたかな。
もう一度、今度はもっと大声で呼び掛けてみようと思ったが、その前に崖上からナタが顔を覗かせた。ナタに向かって片手をひらひら振ってみると、こちらを見下ろしているナタの瞳が大きく見開かれ──
「先生っ!」
悲鳴のような叫びと共にそこから飛び降り、見事な着地を決めた後、血相を変えて駆け寄ってくる。羽織っていた外套を素早く脱いで俺に被せると、その場に屈んで髪や顔をゴシゴシ拭き始めた。
「まさか上から落ちたんですか!? 怪我は?」
「大した事ない……って言いたいけど、落ちた時に足を捻ったみたいでさ。足以外は多分何ともないから、悪いがちょっと肩貸し──ぅわっ!?」
肩貸してくれないか、と言い終わるより早く、ナタが俺を横抱きにして立ち上がる。いわゆる『お姫様抱っこ』のスタイルに、少し頬が上気するのが分かった。
「先生が自分で歩くより、僕が運んだ方が早いですから」
「だからってこれはないだろ……せめて背負うとかさあ……」
「今の先生に選ぶ権利があると思ってるんですか?」
「……すみませんでした」
半眼で睨みを効かせるナタから、思わず目を逸らしてしまう。
するとナタは俺の身体を包んでる外套ごと、ぎゅっと抱き締めてきた。
──ナタ、苦しい。
そう伝えようとしたのだが、ナタの唇によって俺の唇も塞がれて、んん、とくぐもった声しか出せなくなる。
短いキスの後、ちゅ、と音を立ててナタの唇が離れていったかと思えば、
「……こんなに冷え切って。寒かったでしょう」
まるで泣き出してしまいそうなナタの声と、その表情。
流石に俺の方も罪悪感を覚え、ごめん、ともう一度謝ると、ナタからのキスも再度繰り返された。今度は割とがっつり目なやつが。
ナタの腕の中、僅かに揺られながら。村への道のりを運ばれて行く。
いつの間にか雨はすっかり止んで、雲間から綺麗な夕日が顔を覗かせていた。その夕日に照らされ、茜色に染まった空と残り雲に、つい目を奪われてしまう。
「先生、右腕の方は? 痛みますか?」
「ん、平気だよ。あっちこっちにできた擦り傷の方が痛いぐらいだ」
「……帰ったらしっかり手当しますね。お医者さんを呼んで、足も診てもらわないと……」
そこでナタは一旦言葉を句切り、ふう、と短い溜息のあと、
「村の人から、今まで先生が僕に黙って依頼を受けていた事も全部聞きました。それについて後で話があります」
淡々とした口調で語るナタ。だが『全部』のところだけ、やけに力が入っているのを俺は聞き逃さなかった。思わず『やだ、ナタくん怖い』なんて茶化しそうになったけれど、そんな事をしたら怒られる要素が増えるのは明白だ。ここは大人しく黙っておこう。
「先生」
「うん?」
「とりあえず次に外出する時は、目的地がどこであろうとも信号弾を持っていって下さい。いいですね」
「ええ……」
「いいですね?」
またしても、ナタから向けられた鋭い視線。有無を言わさぬその迫力。
俺はちょっぴり萎縮しながらも、
「……はい」
ナタの言葉に、こくりと頷いてみせたのだった。