本日の業務も全て終了し、帰り支度を始めていたアステルの元に届いた一件のメッセージ。
「……ん、ナガセ先生から?」
なんだろう、と思いつつ、スマートフォンに表示された文面に目を通し──緑色の双眸を瞬かせる。
『良ければ今夜、うちで夕飯食べて行かれませんか』
突然の誘いに驚きつつも、ナガセへと返信を送って。
初等部の職員室を後にしたアステルは、ナガセと落ち合う場所となった正門へ向かった。
「すみません、急に」
正門の近くで合流するや否や、頭を下げてきたナガセ。そんな彼に慌てながら、アステルの方も両手をぱたぱた振ると、
「いえ、ちょっとびっくりはしましたけど、今日は何食べようか迷っていたところだったから……俺としては非常に助かりますが、いいんですか? ハルカゼくんも大変なんじゃ……」
アステルの問いに、ナガセは一瞬だけ口籠もり──軽く目を伏せながら、小声を漏らす。
「……実は今日、ナガタの奴が部屋に来ているみたいで」
「ナガタくんが?」
「ええ。なので元々おかずを多めに作る予定だったらしいんですが、それなら普段の礼も兼ねてアステル先生もご一緒に、とハルカゼが」
果たして自分はそんな感謝されるような事をしていただろうか、という疑問が過った。
けれど同時に、ハルカゼがいつもの屈託のない笑顔で『みんなで食べたら、きっと楽しいよ!』などと言っている姿が、容易に想像できてしまい。アステルはナガセに向けて、ふふ、と小さく笑みを返すと、
「そういう事なら……ありがたくご相伴にあずかろうかな」
「良かった。これから一緒に戻ると、ハルカゼに伝えておきます」
スマホを取り出し、何やら文字を打っているナガセを横目に、アステルはふとナガタの事を思い浮かべる。
彼と最初に顔を合わせたのは、少し前からナガセやハルカゼと一緒に遊ぶようになったオンラインゲームの中だ。未だゲームでキャラクターを介して会った事しかないので、本来の彼とはこれが初対面になる。
そんな彼に対する、アステルの第一印象はというと──
あの振る舞いを良く言うならば、大胆不敵、剛腸石心。
逆に悪い言葉で例えるなら……そう、傍若無人だの傲慢無礼のような単語が浮かんできてしまう。
けれど、ゲーム内で彼とやりとりを交わしているうちに、決して難点だけの人物ではない事が分かり始めて。むしろ妙に素直で可愛らしい印象を受ける事もあった。
「では、行きましょうか」
ハルカゼへの連絡が終わったのか。こちらに声を掛けてきたナガセに頷き、並んで歩き始める。
一体、どんな人物なのだろう。
少々緊張しながらも、アステルはまだ見ぬナガタへの想像を、いろいろと巡らせていた。
* * *
主に週末の夜、時々平日の夜にも触れるようになった、MMORPG。
マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム──すなわち、大規模多人数同時参加型オンラインRPGである。世間一般には『ネトゲ』という名称で、一括りにされているかもしれない。
初等部と高等部という違いはあれど、同じ学校に勤めているナガセ。彼と親睦を深めるうち、同居人でもあるハルカゼとも交友関係を結んだアステルだったが、そのハルカゼから『ね、アステルくんも一緒にゲームやらない?』と誘われた事が、プレイを始めたきっかけだった。当初は先輩でもあるハルカゼにいろいろ助言を受けていたが、今ではアステルもだいぶ手慣れたもので、空き時間に一人で遊ぶ事も時折あった。レベル上げやレアアイテム収集などの戦闘系コンテンツだけでなく、アイテム生産や家作り、釣りなどの生活系コンテンツも充実しているのが楽しくて、アステルの性にも合っていたらしい。
そんな折、ハルカゼから『今日から一緒に遊ぶ人がひとり増えるんだけど……いいかな?』との打診があった。彼の話を聞く限り、どうやらナガセとハルカゼの顔見知りのようだったので、アステルの方も深く考えずに承諾した。彼らの知り合いなら、自分にとって初対面でも特に問題はないだろうと。そう思っていたのだが──
『……ナガタだ、よろしく』
ゲーム中、いつも併用しているボイスチャット。
ヘッドホン越しに聞こえた声は、驚くほどナガセによく似ていた。
ナガセとナガタ。名前だけでなく声まで似ているふたりに、アステルも最初こそ混乱したものの。彼らの会話を聞いているうちに、ふたりの微妙な差異にも気付き、何とか判別できるようになり始めた。
やはりナガセの方は普段から聞き慣れている事に加え、抑えの効いた声ではあるが優しい印象を受ける。一方のナガタもナガセと似たような声質とは言え──少々ぶっきらぼうな話し方に加えて、どうもナガセ個人への当たりが刺々しく感じ、ある意味分かりやすかった。そして意外な事に、ナガセもナガタに対してはどこか険のある受け答えをしている。嫌味を含んだ言葉の応酬が続くと、ハルカゼが間に割って入り、仲裁をしていた。
ひょっとしてこの二人、仲が悪いのだろうか……と危惧したが、もし本当にそうなら、ゲームで一緒に遊んだりしないよな。多分、きっと。そんな風にアステルが自分を納得させていると、
『それでね、ナガタはパーティ組むのって今日が初めてなんだ。だからボク達でパーティプレイがどんな感じなのか、教えてあげようと思って』
ハルカゼの言葉に、なるほど、と頷くアステル。
それなら以前、ハルカゼが欲しいと言っていたアイテムのドロップを狙いつつ、ナガタの練習がてらダンジョンに向かうのはどうだろう……と提案してみたところ。三人とも頷いてくれたので、さっそく準備を開始する。
ナガセが盾役、ハルカゼは回復役。そしてナガタは刀を武器とする高火力が売りのアタッカーだったので、アステルはひとまずサポート役に──剣もそこそこに扱え、攻撃魔法と回復魔法、そして補助魔法とどれもある程度の水準までこなせるが、本職には適わない。そんな支援職に回る事にした。
パーティも組み終え、いざ四人で向かったダンジョン。
道中はナガタが少々先行し過ぎる事もあったが、戦闘自体は彼のおかげで手早く片付き、順調とも言えた。
しかしダンジョンの最後、ボス戦時に問題が起こった。
途中で戦った雑魚敵とは違い、非常に体力の多い相手である。が、ナガタが開幕から全力で攻撃を仕掛けた為、ボスのターゲットがナガタに集中してしまい、ナガセが自分に引きつけようとしたところで見向きもしない状態だった。
『ナガタ、ヘイトを稼ぎすぎだ。ちっとも剥がせん』
『盾役なら何とかしろ。取り返せ』
『あ~もう! アタッカーで柔らかいんだからタゲ取らないでよ~! ボクのMPなくなっちゃう!』
『うるさい。早く倒せばいいだけの話だろう』
耳に入ってくる賑やかなやりとりに苦笑しながら、アステルもハルカゼのサポートに徹するが、回復した側から削られていくナガタのHP。結局、ナガセの仕事を奪う程に攻撃を喰らいまくり、ハルカゼのMPを湯水のように使っていたナガタは、挙句の果てにハルカゼから回復を放棄されて戦闘不能に陥っていた。
メインの削り役であるナガタが倒れたとはいえ、その時点でボスの体力も残り僅かだったため、ナガセがターゲットを取り返した隙にアステルが攻撃魔法を叩き込み、何とか撃破には成功した。残念な事に狙っていたアイテムのドロップはなかったが、ひとまずクリアできた事に安堵する。そして安全な街へと帰還するなり、
『お前、それでもヒーラーか』
『悪いのはナガタでしょ! 何の為にタンクがいると思ってるの!』
再び言い争いを開始する、ナガタとハルカゼの二人。
『二人ともやめろ。アステル先生、すまない。一旦休憩を挟んでも良いだろうか』
さすがナガセ先生、ナイス提案。
心の中で賞賛を送りつつアステルが了承すると、
『ほら、ハルカゼ。お茶でも淹れて飲もう』
『……うん』
茶の用意をしてきます、と恐らくハルカゼを伴って席を立ったナガセ。
残されたナガタとアステルの間に、微妙に気まずい沈黙が訪れるが、
「えっ……と、ナガタくん。ちょっと、いいかな」
二人が離席しているのを逆にチャンスと捉え、思い切ってナガタに声を掛けてみたものの──
なんだか初等部の生徒に、しかも少々問題を起こしてしまった子に接する時と同じような気持ちで、つい『くん』付けで呼んでしまったが、大丈夫だっただろうか。一抹の不安が頭を過る。
何度も顔を合わせているナガセやハルカゼと違い、今日が初対面になる彼は、画面向こうの姿が全く分からない。恐らく彼らと同年代だとは思うのだが、二人の年齢と近いなら、自分より年上の可能性は大いにあるのだ。今更だが『さん』付けの方が良かったかな……と思いつつ、ナガタ本人からは特に何のリアクションもなかったので、ひとまず話を続行する事にした。
「ナガタくんは、今までソロメインでやってたんだよね」
『ああ』
「そっか、じゃあ──」
パーティ戦の場合、ボスのヘイトが安定するまで、アタッカーはいきなり全力を出さない。
もしターゲットが自分に向いてしまった時は、防御バフを使う。
なかなかボスのターゲットが盾役へと戻らなかったら、納刀するなどして攻撃の手を少し緩める。
戦闘不能の時間があるならトータルで見た時のDPSは結局下がってしまうし、とにかく死なないのが一番だよ。
あとアビリティを駆使して高ダメージを出すなら、こっちもバフやデバフを合わせるから。教えてくれると助かるかな。
このような事を、落ち着いた声音で懇切丁寧に説明していくアステル。その一方で、黙ったままアステルの話を聞いているナガタ。話し終えてからも沈黙している彼の様子に、もしかして、余計な事を言って彼の機嫌を損ねてしまったかも知れない。そんな心配をし始めたアステルだったが、
『……わかった。ありがとう』
思いのほか素直に礼を述べてきたナガタに少々驚きつつも、安堵する。
「あとナガセ先生のアビリティに、味方を庇うものもあったはずだから……ピンチの時はナガセ先生の後ろに隠れたら、助けてもらえると思うよ」
『それは……』
御免被りたい。
顔は見えずともそんな雰囲気がありありと感じ取られ、つい小さく笑ってしまう。ナガタのプライド的に、あまり好ましい方法ではないのだろう。アステルもそれを予測して──ナガタが嫌がる事を承知の上で、口にしたところもある。彼の行動を抑えるための一手として。
「ソロの時──特にアタッカーは戦闘がスピード勝負なのも分かるけど、パーティで行くような場所は敵のHPも増えて、攻撃も痛くなるからさ。でも一人じゃ取れないアイテムを入手できるってメリットもあるわけだし、その辺りは持ちつ持たれつでやっていこう。ナガタくんの火力も、俺はすごく頼りにしてるよ」
『…………』
アステルの言葉を吟味しているのか。
先程と同じく、しばし沈黙していたナガタだったが──やがて『うん』という小さな声がアステルの耳に届いた。
ナガセやハルカゼとの言い争いを傍から聞いていた時は、正直不安もあったけれど。
よくよく話してみれば、なんだ、いい子じゃないか。
自分の中で、ナガタへの印象が変化していくのを感じる。
「じゃあ俺も飲み物取ってこようかな。ちょっと離席するね」
そう言って冷蔵庫へ向かい、ペットボトルの水を手にアステルがPC前に戻った時には、ナガセとハルカゼの二人も席に着いていた。まだ少し気まずい空気は残っていたが、アステルはあえて明るい声で、
「さっきはハルカゼくんの欲しいアイテムも落ちなかったし、リベンジがてら、もう一回……どうかな?」
『うーん、でも……』
「大丈夫! ナガタくんとも作戦会議しておいたから!」
先程のような状況になると、ヒーラーに一番負担が掛かるのも、それによってハルカゼがストレスを感じていたのも分かる。だがナガタと話してみた限り、次は多分大丈夫──最低でも、あそこまでの無茶はしないだろう。何となくではあるが、アステルにはそんな確信めいた予感があった。
『アステル先生がああ言ってるんだ。ハルカゼ、もう一度行ってみよう』
『……うん、わかった』
ナガセの援護射撃と、ひとまず了承してくれたハルカゼにホッとして。
四人は再びダンジョンへと足を踏み入れた。
道中はやはり大きな問題もなく、辿り着いた最後のボス戦。
ナガタの動きは、まるで別人のように変化していた。
ナガセから決してターゲットを奪う事なく、ここぞというタイミングで大きな一撃を放つ。その手に握った太刀と同じく、切れ味の鋭い攻撃に、
『お~、やるじゃん!』
あれほど罵声を浴びせていたハルカゼも、賞賛の声を上げている。
ナガセがターゲットを維持してくれている上、ボスが時折繰り出してくる威力の高い攻撃に合わせて防御系のアビリティをしっかり使用しているため、ハルカゼのプレイにも余裕が見られる。更にアステルもハルカゼの手助けに回る必要がなくなり、魔法による敵の阻害──行動順を遅らせたり麻痺させたり、様子を見ながら攻撃魔法を叩き込んだりしているうちに、あっという間にボスのHPも減っていき、そして──
ナガタが倒れ、他の三人も満身創痍だった初回とは全く違い、今回は大した疲弊もせずにボスを倒す事ができた。しかもハルカゼの欲しがっていたアイテムがドロップするというおまけつきである。
『わーい、やったあ!』
新しく手に入れたヒーラー用の杖を誇らしく掲げ、喜ぶハルカゼ。
『ナガタも最初どうなる事かと思ったけど、二回目は凄かったね! すっごく安定してた!』
すっかり機嫌も直ったと思われるハルカゼに、アステルも胸を撫で下ろしながらペットボトルを手に取って、喉を潤していると、
『アステル先生のおかげだ』
ナガタからそんなセリフを唐突に言われ、驚きと照れ臭さで軽く咽せてしまう。
「──ごほ。え、いや、俺は別に……」
『ありがとう』
否定しかけたところでナガタからの礼が聞こえ、目を丸くするアステル。聞くのはこれで二度目だが、その声音が──先程に比べほんの少し柔らかく、嬉しそうに弾んでいるような印象を受けたからだった。しかしナガセも驚いたのは同じなようで、
『ナガタ、お前……『ありがとう』という言葉を知っていたんだな……』
『殺すぞ』
どこか呆気にとられた様子で呟くナガセに対し、一瞬で物騒な口調に戻っているナガタ。
二人のやり取りに、小さく苦笑しながらも──
これなら彼とも何とかやっていけそうだな、と。アステルはそんな風に思っていた。
* * *
「いらっしゃ~い!! すぐにご飯の用意するから、座って待ってて!!」
ナガセとハルカゼが暮らしているマンションに到着し、部屋の扉を開けるや否や、ハルカゼからの熱烈な歓迎を受ける。
おじゃまします、と脱いだ靴を揃えてリビングに向かうと、
「ナガタ、こっちに来てアステル先生にご挨拶しろ」
「言われなくても分かってる」
そんな会話を交わしつつ、アステルの元へと近付いてくる体格の良い男がふたり。
「……どうも」
ナガセの傍らで、ぺこり、と軽く頭を下げたその人物の姿を見て、アステルは絶句する。
髪、瞳、そして肌。それらの色はナガセと異なっていたが、外見のみに限った話ならば、まるでナガセと双子のように瓜二つだったからだ。
「……ええと。先生とナガタくん、随分と似てるんですね……?」
「いや、その……遠縁の親戚とでもいいますか……」
アステルの言葉を聞いて、露骨に目を泳がせているナガセ。
……親戚レベルでここまで似るものかなあ。
実の兄弟でも、こんなに似る事ってないんじゃないか……?
様々な疑問がアステルの脳裏に浮かび上がり、ついついナガセに詳細を尋ねたくなったが、
「ナガセー! 運ぶのちょっと手伝って!」
「あ、ああ。分かった、今行く」
すみません、と頭を下げ、彼はハルカゼの元へと向かってしまった。
その場に残されたアステルとナガタ。アステルはナガタの方をちらりと見上げ、声を掛ける。
「……あの」
「ん」
こちらを見下ろしているナガタは、ナガセよりも若干身長が高いような気がした。体格も僅かに細い気がするが、それもアステルからすれば誤差である。自分に比べたら、充分すぎるぐらい逞しい体つきだ。
初期のナガセからも感じていた圧迫感を今のナガタからも感じ取りつつ、先程からずっと気になっていた疑問をぶつける。
「ナガタくん、歳は……?」
「ナガセと同じだ」
──はう、と思わず漏れる呻き声。
それは、つまり。
彼が二十七歳で、自分よりも四つ年上だという事になる。
ナガセとそっくりな彼を目にした時から、何となく予想はしていたが──
片手で頭を抱え、溜息混じりに呟く。
「……ごめん。知らなかったとはいえ、くん付けで呼んじゃってた……」
「構わない」
今まで通りでいい、とあっさり答えるナガタ。
「でも、きみの方が──」
「アステル先生なら、いい」
年上なのに、と言いかけたアステルのセリフを遮って、ナガタが言う。
「アステルくん、お待たせー! ご飯にしよ!」
テーブルの方からハルカゼの呼ぶ声が聞こえ、ナガタに『行こう』と促され、彼に勧められるがまま座布団の上へと腰を下ろした。自分の隣に座ったナガタへこっそり視線を向け、本当にナガセとよく似ている事を改めて実感する。
ナガセは彼を『遠縁の親戚』だと言っていたが、先程の態度を見る限り、どうにも疑わしい。
けれど、実直という言葉が服を着て歩いているようなあの男──ナガセがああ言っているのだ。親戚というのがフェイクだとしても、何か隠しておきたい事実があるのかもしれない。なら、変に詮索するのはやめて、そういう事にしておこう。ナガセも、そしてナガタも今では大切な友人なのだから。
いっぱい食べてね、と白米の盛られた茶碗をハルカゼから受け取って、礼を言いつつ。
ナガセとナガタのそっくり問題に関しては、アステルの中で人知れず終結していた。
ハルカゼが用意してくれた夕食は、まるでオードブルのようだった。
大量の唐揚げやコロッケなどの揚げ物、肉野菜炒め、ミートボールに卵焼き、ボウルに盛られた野菜サラダなど。その圧倒的な物量に、アステルも目をぱちぱちさせていたが──
いただきます、と食事を開始すると、みるみるうちに減っていく目の前のおかず達。
やはり主戦力は体格の良いナガセとナガタの二人だが、よく噛んで食べているナガセと違い、ナガタの方はあまり咀嚼せずに飲み込む事が多い為、度々ハルカゼから注意を受けていた。
そんな二人を横目に、あくまで自分のペースで食事を楽しむアステル。
アステルも自炊はそこそこする方だが、片付けが面倒な揚げ物の類はやはり敬遠してしまうので、こうして揚げ立てが食べられるのはありがたい話だった。よく味の染み込んだジューシーな唐揚げを、幸せ気分に浸って頬張りながら、周囲に小さな花など咲かせていると、
「アステル先生」
「はい?」
「この卵焼きも美味いので是非。ハルカゼの得意料理のひとつなんです」
向かい側の席に座っているナガセに勧められるまま、だし巻き卵に箸を伸ばし、あむ、と一口食べてみる。
「……ほんとだ。お出汁の味と……ほんのちょっと甘さがあって、ふわふわしてて。すごくおいしいです」
アステルの反応に、ナガセが目を細める。その表情はどこか自分の事のように嬉しそうだ。
「ハルカゼくん、料理上手ですよねえ」
「ええ、そうですね」
「……胃袋、掴まれちゃったんですね?」
「そう……ですね……」
僅かに頬を赤く染め、俯くナガセ。そんな彼を見て、ニコニコと笑みを浮かべるアステル。教師二人の和やかなやり取りの傍らで、一方のナガタとハルカゼは、相変わらず言い合いを続けていたりもしたのだが──
気付いてみれば、テーブルの上に並んでいた大量の皿は、どれもが空っぽになっていた。
「はい、どうぞ」
緑茶の注がれた湯呑みが、目の前に置かれる。
「あ、ありがとう。……本当に俺、座ってていいの?」
「いいのいいの、アステルくんはお客様だし。お皿洗いぐらいあの二人に任せちゃお」
笑いながらハルカゼも着席し、淹れたばかりの茶を啜り始めた。
アステルも湯呑みを右手で持ち、左手を底に添えて、熱い茶に軽く息を吹きかけながら──やはり自分ひとりだけ何もしないままでいるのは、ナガセとナガタに悪い気がして。心の中で彼らに謝罪し、ちびりと口に含む。
「そうそう、アステルくんにいろいろ教えてもらったおかげで、ナガタも野良に行ってもなんとかやっていけてるみたい。ほんとありがとね!」
「い、いや、この前も言ったけど、俺は大した事してないから……!」
「ゲームに限った話じゃないんだけど、ボクやナガセが注意しても、聞き流されたり聞こえないフリされる事あってさ。ボクたちだけで遊ぶならまだいいけど……野良であんなハチャメチャな動きしてたら絶対に晒されちゃうもんねぇ」
あはは、と朗らかに笑うハルカゼに苦笑を返す。
「でも実は、問題がもうひとつあってね……」
空になった湯呑みをテーブルに置き、ハルカゼが話を続ける。
「──新しいパソコン?」
「うん。ナガタが使ってるパソコンって、うちに置いてあった古いやつなんだよね。一応遊べてはいるけど、時々動作が重いみたいでプレイにも影響あるから、新しいの買いに行こうかって話になったんだけど」
急須を傾け、こぽこぽとお茶のおかわりを注ぎながら、
「ボクはお店があるし、ナガセも最近学校の方がちょっと忙しそうで、なかなか時間が取れなくて。それに何よりナガセとナガタを二人っきりにさせるのが不安でさ~」
すぐケンカするんだもん、あの二人。と口を尖らせるハルカゼ。
この言い分だと、彼らはゲーム内の会話だけでなく、現実でも同じように争いを繰り広げているのだろうか。ボイスチャットとは違って舌戦だけで済まされず、あの体躯のふたりが路上で掴み合いでも始めたら──
流石にナガセが往来で喧嘩に応じるとは思えないが、それでも万が一という事もある。もし取っ組み合いの騒ぎになってしまった場合、通行人からの通報は免れないだろうし、同職──教師のナガセにとっても警察沙汰になるのは、非常によろしくないだろう。ならば。
「……それじゃあ俺が、次の休みにでもナガタくんに付き合おうか?」
「えっ!! いいの!?」
アステルの申し出に、ハルカゼが嬉々とした表情を浮かべ、その瞳を輝かせた。
「うん。彼が良ければの話だけど……」
「大丈夫だよ! だってナガタってばアステルくんに妙に懐いてるし……って二人とも! 洗い物中にケンカしないの!」
流し台の前に並び立ち、肩をぶつけ合っている二人に気付いたハルカゼが怒鳴り声を上げる。
目を離すとすぐこれなんだから! と立ち上がり、ナガセとナガタの元に駆け寄って、そのまま二人の耳を捻り上げているハルカゼの姿をぼんやり眺め。アステルはハルカゼの言葉を反芻していた。
『だってナガタってばアステルくんに妙に懐いてるし』
ハルカゼはああ言っていたが、アステル個人としてはあまり実感が湧いてこない。
けれど今日が初対面の自分と違い、既に何度もナガタと顔を合わせているハルカゼが言うのだから、そういう事も──あるのだろうか。
「くそ!」
悪態をつきながら戻ってきたナガタが、どっかと床に座り込む。
「邪魔だからと追い出された。ついでにアステル先生と話をしてこいとハルカゼに言われたんだが」
「あ、うん。ナガタくんが新しいパソコン買うって聞いて、でもナガセ先生とハルカゼくんがなかなか都合つかないみたいだから……俺で良かったら付き合うよって言ったんだけど──」
「頼む」
即答だった。これにはアステルの方が少々呆気にとられてしまう。
「俺はそっち方面にはあまり詳しくないし、アステル先生が見繕ってくれるなら信用もできる」
こちらを見つめてくるナガタの瞳に、何だか既視感を覚えるアステル。
──そうだ。昔、友達の家で見せてもらった、大きくて可愛い犬。
確か尻尾をぶんぶん振りながら、こんな眼差しを──
既視感の正体に気付き、思わず噴き出しそうになるのを何とか堪え、
「じゃあ……今週末あたり、ナガタくんさえ良ければどうかな」
部屋に飾られていたカレンダーへと視線を向けて、ナガタとふたり、予定を立て始めたのだった。
* * *
時刻は午後三時を数分過ぎた頃。
駅構内の一角で、アステルがスマートフォンの画面を眺めていると、
「すまない、待たせた」
聞き覚えのある声が掛けられて、前を見上げる。
そこには黒いキャップと黒いシャツ、そしてジーンズ姿のナガタが立っており、アステルはにこりと笑ってみせた。
「俺も少し前に着いたばっかりだから、大丈夫。それじゃ改めて……今日はよろしく、ナガタくん」
「ああ、こちらこそ」
「駅を出て少し歩いたら電気街みたいなところがあるんだけど、そこに行ってみよう」
挨拶もそこそこに、さっそく歩き始める二人。
賑やかな駅前の通りに立ち並ぶ様々な店舗を、興味深そうに眺めていたナガタだったが、ふと視線をアステルの方に戻すと、
「そういえば、この前も思ったんだが……アステル先生は目が悪いのか?」
「ああ、これ?」
ナガタの質問に、自分の掛けている飾り気のない黒縁眼鏡を指差して、
「逆なんだ。視力は悪いどころか良い方なんだけど……見え過ぎるせいか、裸眼のままだとどうも目が疲れやすくてさ。それを軽減するための眼鏡、かな」
ふぅん、と短く相槌を打ったナガタが、ぽつりと小声を漏らした。
「……実は俺も、眼鏡をひとつ作ろうかと考えているんだが」
「ナガタくんも?」
「ナガセと間違えられるのが癪だし、何よりいちいち否定するのも面倒臭い」
ああー……と妙に納得した声を上げ、苦笑するアステル。
これほどナガセとそっくりなのだから間違えられる事も多々あるだろうし、その都度説明するのは確かに大変そうだ。特に学校の生徒に出くわした時などは、とても困るに違いない。もしかしたら今日の帽子も、それ対策なのだろうか。
「なら、ナガタくんもレンズに度数は必要ないわけだ」
「そうだな」
「じゃあ、良さそうなフレーム探しに……今度はショッピングモールにでも行ってみる?」
アステルの提案に、ナガタが目を瞬かせる。そんな彼にアステルは小さく笑って、
「目が悪い人用の眼鏡をしっかり作るなら、かえって街中でやってる古い眼鏡屋さんみたいなところの方が良かったりもするけど……ナガタくんの用途だったら、モール内のチェーン店を見て回るのも良さそうだし」
確か二件か三件ぐらい店舗が入ってたはずだよ、と付け加える。
「行ってみたくはあるが……アステル先生は、その……いいのか?」
「良くなかったら最初から提案しないって。俺の次の休みの時になっちゃうけど、それでもいいなら──」
「助かる。こっちにはまだあまり詳しくなくてな」
そんなナガタの言葉に、ふと疑問が浮かび上がる。
「こっち? そういえばナガタくんて、どの辺りに住んでるんだっけ」
「そ、それはだな。ええと……」
アステルの何気ない問いに、何故か困った表情を見せるナガタ。やや言葉に詰まってから、呻くような声で、
「……遠くの方、だ」
遠くの方。
またずいぶんとアバウトな回答だな、と思わなくもなかったが。
今のナガタの様子、そして先日のナガセの説明を思い出す限り、やはり彼にも何らかの事情があるのだろう。
割と頻繁にナガセの部屋を訪れているのを知っている為、全く気にならないと言ったら嘘になるが──他人があまり踏み込むべきではない。アステルも『そっか』とだけ返しておき、それ以上は聞かない事にした。そんなアステルに対し、ナガタもどこかホッとしたように小さく息を吐く。その直後。
「あ、着いたよ」
タイミングよく目的の家電量販店へと到着し、アステルが足を止めた。
「パソコン専門店じゃないけど……広いだけあって、この辺りだとここが一番いろいろ揃ってるかなあって。確かゲーム用のパソコン売り場は六階だったような……うん、合ってる」
入り口の案内板を確認して、エスカレーターに乗り込む。上の階へと向かいながら、途中、アステルは後ろにいるナガタの方を振り向いて、
「買うのは既に組み上がってる既製品よりも、BTOパソコンが良いんじゃないかな。ナガタくんの予算と相談して、カスタマイズしていく感じで」
「BTO?」
「えーっと……Build To Orderの頭文字を取った略称で……つまり、自分の気に入ったパーツで、お店の人にパソコンを組んでもらうシステムの事!」
「なるほど」
「とりあえず重要なのはCPUにグラボとメモリかな。電源にも少し余裕を持たせて……後から他のゲームを入れるかもしれないし、ストレージも増やしておこうか」
うん、と素直に頷くナガタに軽く微笑んで。彼と二人、パソコン本体や関連商品が置いてあるフロアを歩き始める。すると物珍しげに辺りを見ていたナガタが急に足を止め、
「最新のものならきっと性能もいいだろう。これがいい」
ナガタが指差したそれを見て、アステルは『ゔっ』と小さく呻き声を上げた。苦笑いを浮かべながら、ナガタの方へ顔を向け、
「あー……最新型のグラボって、めちゃくちゃ高いんだよ。予算内に収めるなら、ちょっと妥協する必要もあるかな」
そうアステルに言われたナガタは、件のグラフィックスボードに付けられたプライスカードをまじまじと見つめると、
「……は?」
思わず口をついた小声と共に、眉間にシワを寄せる。
該当する型番のグラフィックスボードは何種類かあったが、安い物なら四十万、ものによっては六十万をゆうに超えていた。
「何だこれは……! 余裕でパソコン一台が買える価格だぞ!?」
憤るナガタを宥めつつ。アステルの方も、つい遠い目でぼやきを漏らしてしまう。
「なりたいよなあ、石油王」
その言葉の意味が良く分からなかったのか。
僅かに小首を傾げるナガタに向け、再び苦笑を返すアステルだった。
ひとまずベースとなるパソコン一台を選び、なるべくナガタの希望に添えるよう入れ替えるパーツを吟味し、スマートフォンのメモ帳にリストアップしていく。
「んー……大体こんなもんかな?」
本音を言えば、数年使う事を見越してCPUとグラフィックスボードはもう一段階ぐらい上のものを選びたくはあったが、何せ予算という壁がある。それでも今、ハルカゼらと一緒にやっているゲームなら、充分すぎる性能のはずだ。
「ナガタくんさえ良ければ、こういう構成で店員さんに頼もうと思うんだけど……どうかな」
「俺が見ても、正直なところよく分からん。アステル先生がいいと思うなら、それでいい」
「はは……責任重大だなあ……」
アステルの見せたスマートフォンの画面を一瞥しただけで、こちらに丸投げしてくるナガタと、困ったように笑うアステル。まあスペックはそれなりに、予算のラインよりほんの僅かではあるが安く抑えられてはいるので、恐らく大丈夫だろう。
「あっ、そうだ。多分これ、ゲーミングPCの例に漏れず、電源入れると光るっぽいんだけど」
「光る」
「うん。ガラス部分から見える中のパーツがこう、動作中にピカピカと。設定でオフにしておいてもらう?」
「いや、そのままでいい。光ったら目立つし強そうだからな」
「強そう」
ん、と大きく頷くナガタの表情が、思いのほか真剣で。
こういうところでも、強さに対しては貪欲なんだな……などと、ナガタに対して妙な感心をしつつ。
ちょうど近くを通り掛かった店員に向け、アステルは声を掛けた。
* * *
パーツの変更、購入の手続き、そして配達の手配──何故か送り先がナガセの部屋になっていたようだが──などを終え、店舗を出る頃には日が傾き始めていた。西日が眩しい時間帯だ。
「五時かあ……」
時刻を確認したアステルは、隣に立っているナガタを見上げると、
「夕飯には少し早いけど、せっかくだし何か食べて帰ろうか? ナガタくんの気になる店があれば、そこでもいいし」
「!」
ナガタの浅黒い肌が、僅かに上気した──ように見えた。ほんの少しソワソワした様子で、そして視線を彷徨わせながら、
「それなら、ここに来る途中で見た店なんだが──」
ナガタが口にした店の名前は、アステルも聞き覚えがあった。
確か駅の近くで営業しているステーキハウスのはずだ、と記憶している。
「あー、あそこか。お昼とか夕方になると、行列できてるの見た事あるけど……美味しいのかな?」
今のご時世、行列ができる店となると、味は勿論の事──量が多かったり、値段が安いといった条件も含まれている気がする。一体どんな店で、どんな料理が食べられるのか。実際に赴いてみるのも悪くはない。
「うん、いい機会だから行ってみようか。席空いてるといいなあ」
沈みゆく太陽を背にして、アステルが笑う。
夕日を受けて、きらきら輝いている彼の金髪と。逆光の眩しさに思わず目を細めながら。どことなくボンヤリした様子で、ナガタが口を開いた。
「……アステル」
ナガタに名を呼ばれ、ん? と小首を傾げるアステル。
そのまま何か言いかけたナガタだったが、急にハッとしたような表情で、
「いや、アステル、先生。その……」
律儀にも言い直したナガタに小さく苦笑して、
「呼び捨てでいいよ。俺も全然敬語使ってなかったしさ」
しかもナガタを相手にしていると、彼の方が年上だというのに、どうも口調が学校で生徒を相手にしている時のそれに近くなってしまう。流石にこれは、ナガタを傷付けてしまう恐れがあるので決して口には出せないが。
「今日は本当に助かった、ありがとう」
軽く頭を下げてきたナガタに、やはり少々の気恥ずかしさを感じつつ、
「食べながら、次の予定も立てちゃおうか。眼鏡作るならナガタくんも早い方がいいと思うし」
「ああ」
頷くナガタを伴って、件の店へと歩き始める。
──そうだ。
せっかくだし、今度はカツカレーの美味しい喫茶店を教えてあげようかな。でも、ナガセ先生から教わったんだけど……って正直に話したら、反発されちゃうかも知れないな……
足を進みながら、アステルがそんな事を考えていると、
「アステル」
「うん?」
「もし何か困った事があったら俺に言え。速やかに解決してやる」
ぐっ、と拳を握り締めるナガタに、ものすごく嫌な予感を覚える。
「い、今のところは特にないかなあ……?」
「それなら、ナガセに何かされたらすぐに教えろ。俺がやり返してやる」
「な、ナガセ先生はそんな危害を加えてくるような人じゃないから、それも大丈夫!」
首を激しく左右に振って、どちらも結構です、と辞退するアステル。
「…………」
「ナガタくん?」
「俺も……アステルに何か返したい。この前から、してもらってばっかりだ」
ぽつり、と呟くナガタの横顔。
それはまるで、拗ねてしまった子供のようで。
年齢も身長も自分より上である彼を、やはり年下の──弟のようにも錯覚してしまう。
これが気心の知れた同僚だったなら、じゃあこれから行く店で奢ってくれよ、なんて事も言えるのだが。確か予算の話をしていた時に『ハルカゼから少し借りてきた』と言っていた気がする。借りた分は今後バイトを増やして返すとも。
そんな彼に奢らせるのも気が引けてしまうし、かといってナガタとしても、一方的に何かしてもらうだけなのは、本人の性格上やはり面白くないのだろう。
「……それじゃあさ」
アステルの小声を耳にして、ナガタがその顔を見つめる。
「本当に困った事が起こったら……ナガタくんに相談するよ。だからその時は、助けてくれると嬉しいな」
「……ああ。任せろ!」
途端、ナガタは表情をパッと明るくすると、
「約束だからな。何かあったらすぐ俺に話せ。ナガセ達よりも先に。必ずだぞ。いいな」
「うん、約束」
アステルの方へ身を乗り出し、畳み掛けるように言い放つナガタに、やや気圧されながらも頷き返す。するとナガタの機嫌もすっかり直ったらしく、
「ナガセより頼りになるところを見せてやる」
どこか得意げに、ふふん、と嘯くナガタを前に。
ナガタくんには悪いけれど──
できれば、そんな困った事は、今後とも起こらないといいなあ。
などと内心こっそり思う、アステルなのだった。