甘さとすっぱさの間で事務所に行くと見慣れた制服姿の長身の少女とプロデューサーがホワイトボードの前で何か話し合っていた。ソファーに腰をおろし持ってきたお茶を飲んで、雨彦は何気なしにその会話に聞き耳を立てる。
「そこの週は定期試験が始まるから外してくれるとありがたいな…」
「そうですね…。ではここはどうですか」
「そこなら試験休みだし何時からでも大丈夫だ」
どうやら定期試験があるのでその周りの予定の整理をしているようだ。学生らしいなと思いつつ、何の気なしに玄武が話し終わるのを待つ。プロデューサーと会話を終えた玄武は後ろの2人がけのソファーに雨彦が座っていたことに気付くと、雨彦がわざと開けておいた隣の席に座った。
「アニさん来てたのか」
「ああ。予定を確認しにな。ところで、お前さんはそろそろ定期試験か。学生の本分だとは言え大変だな」
そう言う雨彦に玄武はくすりと笑う。
「そう言うアニさんは掃除屋とアイドル両立させてるだろ?俺はそっちの方がすごいと思うぜ」
「そうか?でも俺は大人だからこなせてるってのもあるだろうな。仮に学生の頃にアイドルになっていたら全部おざなりになってたさ」
そう言う雨彦に玄武は彼の学生時代のことを聞かずにはいられなかった。
「アニさんはどういう高校生だったんだ?制服着てるなんてなんか想像が出来ないな」
「確かに県立の高校で制服は着ていたがきちんとは着ていなかったな」
その言葉に玄武から「今だってツナギの前締めてるの見たことねえぞ」と指摘され苦笑する。
「それに今よりガキっぽかったな」
「それはガキなんだから当たり前だろ。アニさんのことだから、女子から人気あったんじゃねえか?」
その言葉に雨彦はニヤニヤと意地悪く笑い始めたので玄武は墓穴を掘ったのかもしれないと思った。
「それは嫉妬かい?」
「違う。興味だ」
「まあ何人かに告白されたし、彼女がいなかったと言えば嘘になるな」
「やっぱりモテたんだな」
「でもお前さんが同級生にいたら、お前さんのことを想っていただろうな」
その言葉に玄武は頬を赤らめた。違う出会いであっても好きでいてくれると言われると玄武は嬉しくなる。
「まあ、運良く付き合えても甲斐性が無いからお前さんに愛想を尽かされてたかもな」
そう続けた雨彦はどこか照れ臭そうに笑っていた。
「黒野。葛之葉が呼んでるよ」
ドア付近にいたクラスメイトに声をかけられて、つられるように教室の引き戸に目をやると隣のクラスの葛之葉雨彦が立ってこちらを見ていた。
「帰ろう」
雨彦は短くそう言ったので、玄武は話していた友人達に挨拶をして鞄を掴み教室を出ていった。
長身の美男美女のカップルとして校内でも有名なほど華やかな2人だが、少なくとも玄武は悪目立ちしている気がする上に周囲があの2人は「進んでいる」と好きに言われるのが内心憂鬱だ。
本当は「進んでいる」どころか、付き合ってこの方手すら握り合ったこともないのだから。
雨彦は口数も少なくてミステリアスだ。
京都から転校してきた玄武は最初はよく図書室ですれ違う同じ身長の隣のクラスの男子程度の認識で、大きな繋がりはなかった。それがあるとき図書室で「その本、面白い?」と声をかけられた。そこから少しずつ話すようになって、時たま一緒に駅まで帰るようになり、少ない言葉の中で見せる優しさに惹かれて、玄武の方から告白した。
雨彦が自分と同じように好いてくれているとは思っていなかったので断られると思った。しかし雨彦は「分かった」とだけ言って、次の日から授業が終わると教室まで迎えに来るようになった。
そんなだから手を握ってみても握り返してくれるとは思えないし、むしろ内心嫌がられないだろうかと心配なのだ。
「そうだ、雨彦のクラスは文化祭で何するんだ?」
色々悩んでいる内に黙ってしまっていたことに気付き、玄武は慌てて雨彦に声をかける。玄武のクラスは文化祭に向けてすっかり色めき立っている。賑やかなことも嫌いじゃない玄武もあれやこれやアイディアを出し合うクラスメイト達とホームルームを楽しく過ごした。だから雨彦もそうかもしれないと思い話題を出した。しかし、雨彦は首を傾げた。
「寝てたから聞いてなかった」
「そ、そうか…。ここの文化祭初めてだから楽しみなんだ。結構地域あげて盛り上がってるって聞いたけどそうなのか?」
「たぶん。俺は空き教室とかにいるからあまりよく知らないな」
そこで会話が終わってしまう。
何もこれが初めてではないが、初めてではないからこそ会話の続かなさに玄武は不安になってしまう。もっと自分が上手く話を拾えてたら、雨彦も話してくれるだろうか。もう少しだけ笑ってくれる時間が出来るのだろうか。そんな自己嫌悪で少しだけ歩が遅くなる。
やっぱり付き合ってくれたのは自分が告白したからであって、雨彦にとっては退屈な時間なのだろうか。そう考えれば、付き合う前も楽しいと思ったのは自分だけなのかもしれない。雨彦の静かな瞳には最初から自分なんて写ってなかったのかもしれない。
ぐるぐると考えている内にすっかり足が止まってしまった。
「黒野…?」
隣にいた玄武が止まっていることに気付いた雨彦は振り返り彼女を呼ぶ。
顔をあげて、玄武は、あ、と思う。
陽が落ちかけている夕暮れの空に佇む雨彦は十分完成していた。
隣に自分がいる必要性は何もなく、玄武は、あぁやっぱり雨彦にとって自分はいてもいなくても変わらないんだと納得した。
「雨彦、今までありがとう。短い間だったけど彼女になれて嬉しかった。今日で別れよう」
そうゆっくりと雨彦に別れを告げた玄武は何処か心の中に余裕すら出来てしまった。
「黒野、待て…」
「大丈夫。一人で帰れる。寄るところもあるし、ここで別れよう」
そう言って玄武はいつもなら駅へと続く真っ直ぐに伸びる道へは入らず商店街へと至る道へ曲がろうとする。自分を呼んで手を伸ばす雨彦に気付いてないフリをして、すっと人混みの中に入っていった。
夏休みも近づいてきた頃、彼女は急に転校生としてやって来た。変な時期に来た転校生は気にはなったが、わざわざ見に行くほどの興味もない雨彦は関わることはないだろうと思っていた。しかし、彼女は人目を引く容姿でしかも学年で一番背の高い雨彦と変わらない長身だとすぐに話題になり、背を比べさせろと友人に引っ張られ隣のクラスに拉致された。
隣のクラスの席の一角は人だかりが出来ており、そこに例の転校生がいるのだと容易に想像がついた。雨彦を連れてきた事に気付いた彼女のクラスメイトが楽しげに手を引いて彼女を連れてきた。
うわ、でっけー、という失礼な友人の一言に眉を顰め、前を見た時、雨彦の体に雷が走り抜けた。
同じくらいの高さにある灰色の瞳、細くとも女性らしいまろやかな曲線のある体、艶やかな長い黒髪。
派手でも姦しくもなく落ち着いた雰囲気のある彼女を一目見て惚れてしまった。
彼女を見つめることしかできない雨彦を放って彼女のクラスメイトは勝手に紹介する。
「隣のクラスの葛之葉雨彦。学内で一番背高いの。葛之葉、転校生の黒野玄武さん」
黒野玄武、くろのげんぶ
そう雨彦は彼女の名前を心の中で反芻してしっかりと覚える。
それから雨彦はこっそりと玄武を遠巻きに見つめては、ほうっとため息をつく日が続いた。彼女は頭がとても良く、噂では編入試験を全教科満点で合格したと聞く。
頭の良さとあの容姿があれば多少なりとも傲慢であってもおかしくないのに、彼女は気取らずに誰に対しても親切だ。現にクラスにもすぐに馴染めたようで、隣のクラスの生徒は皆何かあると、玄武にも相談してみようと言うほどに彼女を信頼していた。
見つめるだけでは物足りなくなり、雨彦は彼女がよく行く図書室に足繁く出入りするようになった。こうすることで彼女に意識してもらえないだろうかという下心ももちろんあったが、何より色んな本を手に取る彼女の目は輝いており、その無邪気さが可愛らしかった。
眺めているだけではこの関係性は変わらないことは知っている。でも、雨彦にとっては初めての片想いだ。どうしたら良いのか分からなかった。
結局悩んだ末に思いついたのが図書室で彼女の手に取った本に興味があるふりをして声をかけることだった。
「その本、面白い?」
彼女がよく手にしているシリーズものの小説を手にかけたのを見計らって雨彦は努めて素気なく声をかけた。その日は夢心地だった。玄武と少しだけ長く話が出来た。本の内容を話す彼女の楽しそうな横顔を何度も見つめて、耳触りの良い柔らかい声に耳を傾けた。
一度味わうともっと欲しくなってしまうのが人間で、雨彦はその日から朝会えば挨拶をしてクラス合同の授業があるときはさり気なく玄武の近くに座るようにした。放課後はなんとなく図書室に来たと言って玄武のオススメの本を聞いた。暗いから駅まで一緒に帰ろうとも言った。
一緒に帰る頻度が増えてきた頃、玄武から告白されて雨彦は天にも昇る気分だった。彼女はいつから自分を思っていてくれたのだろうか。どこを好きになってくれたのか。色々と聞きたかったが興奮して「分かった」と言うのでやっとだった。それでも、雨彦は玄武を大切にしたいと思った。だから毎日帰る時はクラスまで迎えにいった。
うつろい行く季節を感じながら彼女と一緒に帰る道は今まで通っていたものと同じとは思えなかった。玄武は道に咲く花に気付き、雲を見ては有名な小説の一節を思い出して、変化する気温に明日は雨が降るかを予想した。楽しかった。
それだけではいけなかったことが今日証明された。ここ最近、玄武の表情が暗いことは気付いていた。教室まで迎えに行き呼んでもらうまでは楽しそうに友達と話しているのに、自分と2人きりになるとその表情が翳ってしまう。どうしたのか聞いても良いのかと思ったが、玄武は色々「ワケあり」であることを風の噂で聞いたから無闇矢鱈と聞いてしまうのもなんだか迷惑な気がして聞くことが出来なかった。
手を繋いでみたら彼女は前みたいに笑ってくれるだろうかとも考えた。でも、雨彦には勇気が持てなかった。振り払われたらどうしよう。「触らないで」って言葉で拒絶されたらどうしよう。初めて好きになった子から嫌われたらと思うと怖くて行動に移せなかった。
「黒野…ごめん…」
雨彦は玄武の後ろ姿を飲み込んだ雑踏を見つめながら、彼女に謝ると泣きそうになるのを強く堪えて1人で駅へ向かった。
玄武を好きになった日から、彼女はどんな男子が好きなのだろうか、一人になると雨彦はそればかり考えた。大人っぽく頭の良い彼女のことだ。きっとむやみやたらと大きな声を出して騒ぐような人は好きじゃないだろう。落ち着ついていて、冷静でインテリジェンス。きっとそんな男が好きだろうと思った。だから経験が浅い雨彦はそっくりそうなってみようと思った。元から口数が少なかったし表情がコロコロ変わる方ではなかったので、表面上は簡単に近づけた。
彼女が笑いかけたら少しだけ笑ってみる。「雨彦はどう思う」そう彼女が聞いてきたら、あれやこれや答えるよりも短く簡潔に。
上手く真似できたと思うのに、彼女に振られてしまった。
学園祭も一緒に回りたかった。「一緒に色んなところに行こう」クラスメイトが話し合いをしている最中に折り紙を折りながら頭の中で練習したのに。
当たり前ではあるが、次の日から雨彦は迎えに来なくなり、玄武が昼休みに一緒に弁当を食べようと誘いに来ることも無くなった。多感な高校生にとって、校内一の美男美女のカップルが破局したことは芸能界のスキャンダルと同等なくらいキャッチーな話題で瞬く間に広まった。しかし、どんなに騒ごうとも当の本人達はあっさりと認めてお互いについては何も言わない。もちろん面白がって2人に「取材」する者いたが2人とも口を揃えて「自分が悪い。相手に迷惑かけないでくれ」と言うだけだ。2週間もすれば何事も無かったかのように静まっていた。
「玄武、本当に葛之葉と別れちゃったんだよね」
放課後少し前まで雨彦と歩いていた駅までの道を友人と歩いていると、友人はそんなことをぽつりと言った。
「ああ。俺ばかりの一方的な恋慕だったからな。雨彦には無理をさせた」
そうだ。雨彦に自分は必要ない。いなくとも雨彦は雨彦であり続ける。自分という存在で何か変わって欲しいという烏滸がましい思いがあったわけではない。それでも雨彦の心のどこかに自分を入れて欲しかった。しかし、実際はそんな隙間は何処にもなく、付き合っていても雨彦にとって無関係な人間だった。多分雨彦本人は付き合っていたときも別れた今も別に自分のことをなんとも思ってないだろう。
「玄武、それマジで言ってるの?」
「え?」
驚いたように聞き返してくる友人に玄武も驚いた。
「自分の一方通行だったと思ってる?」
「あぁ、まあ、そうだな」
真剣な表情の友人の圧に戸惑いながらも玄武は頷いた。すると彼女はなぜかガックリと肩を落としてしまった。
「あーもー、違うよ。玄武は知らないかもだけど、葛之葉が今まで彼女を毎日教室まで迎えにくるなんてことしたことなかったんだよ。一人で勝手に帰っちゃうしお昼も何処にいるか分からないしで、玄武の時みたいに毎日迎えに来たりお昼一緒に食べたりとかしてくれなかったんだから」
雨彦には彼女がいたという過去を知り、チクリと痛みが走ったが、それ以上に友人が言うには今までとは違う接し方を玄武にはしていたらしい事実に玄武は、雨彦なりの好意に気付かなかった自分に悔いた。
殺風景な自室の中で雨彦は心ここにあらずの状態で外を眺めていた。ここのところ家に帰るなり、無気力に支配されて窓の外をぼんやりと眺めているだせだ。
「雨彦、飯だぞ」
扉の向こうで掃除から帰ってきた父親の声が聞こえたので、適当に返事をする。
「部屋に入っても良いか?」
いつもだったら雨彦が部屋から出てくるのも待たずにさっさと居間に行ってしまうのだが、今日は違った。別に断る理由がないので、構わないと短く返した。
「失恋中悪いな」
入ってくるなり父がそう言ったので何故それをと思いかけたが、恐らく妹か叔母が教えたのだろう。そもそもあの日、玄武と別れた所を運悪いことに妹に見られていたのだ。
その日の夕食の時間に妹に「兄様、また彼女と別れたんですね。私、あの背の高い人結構好きだったのに」と揶揄われて、叔母にも知られてしまった。
「別にもう終わったことだ」
雨彦はそう言って窓枠に作り終えた折り紙のウサギをトンと置いた。
そうだ。もう終わったことだ。
好きだったけど、接し方が分からずに玄武を悲しませてしまった。
玄武もきっと心の中では、何もしない自分に告白したことは失敗だったと思っているはずだ。
またため息をつく息子を眺めていた父は、うんうんと勝手に頷く。
「雨彦、お前さん、彼女にちゃんと好きって言ったか?」
何を言い出すんだと思い、雨彦は、は?と思わず聞き返した。
「だから、彼女に好きってお前さんからも言ったのか?」
「そんなの、告白されたときに、分かったって言ったんだから…」
そこまで言って、雨彦は自分の心の声と実際に声に出した事実を混同していたことに気付いた。
「言ってないだろ。彼女もお前さんから分かったとしか聞かされてないから、不安になったんじゃないか?」
「でも」
黒野は大人っぽいからそんなことで不安になったりするだろうか。いや、好きと言ったら引かれてしまわないだろうか。続きを言おうとするより先に父親が口を開いた。
「言葉にして初めて伝わることもあるんだぞ」
そう言って照れ笑いすると父親は早足で部屋を出て行った。
「好き、か…」
彼女に面と向かって言ったことが無かった。怖かったのも確かだが、聡明な玄武なら全て口にしなくとも分かってくれると思ってた。思えば結局、好きも一緒にいて楽しいも口にしなかったから玄武に届かなかった。
今更かも知れないが、せめて自分と別れたことは気に病まなくなるだろうか。
間近に迫った文化祭の準備をしながら、玄武はどうにか抜け出すタイミングを伺っていた。隙を見てこっそり隣のクラスに行って雨彦と話がしたい。そう朝から思ってるのだが、一つの準備が終われば別の準備に手伝って欲しいと玄武は次々とクラスメイトに呼ばれていた。
とうとう日が暮れ始めてしまい、文化祭に興味に無い雨彦はすぐに帰ってしまうかも知れないと焦っていた。もうなりふり構ってられない。盛り上がるクラスメイトの輪からサッと離れ廊下に出る。誰にも声をかけられずに済んだと言う安堵感から、ほっと一息ついたその時だった。
「黒野」
これから会いに行こうとした相手の声がし、玄武は思わず飛び上がる。慌てて後ろを振り向くと若干驚いている雨彦が立っていた。
「あ、雨彦、えっと、あっ!誰か呼ぶ?」
話し合いたいと思ってたのに、向こうが来てしまったことにすっかりペースが崩れてしまい、玄武は焦る。
「黒野。少し時間あるか」
動揺が続く玄武と違い、いつもの調子に戻っている雨彦は短くそう言った。
自販機で紙パックのお茶を買い、誰もいない中庭のベンチに座った。相変わらずの表情でお茶を飲んでいる雨彦は何も変わった様子も無い。
それでも友人が言うには、自分と付き合っていたときの雨彦は今までと違っていたという。
それを確かめたくて、その上で今自分をどう思っているのか知りたくて会いたかったのだから、聞かずに弱気になってどうすると自分を叱咤し、玄武は、雨彦、と呼ぼうとした。
しかし、それより早く、雨彦の手が膝の上に置いた自分の手を握った。
「く、黒野、好きだ」
初めて見る雨彦の真っ赤な顔と言われた言葉に驚くばかりだ。
「え、えっと…」
なんと返したら良いのか分からずに言葉に詰まっていると、雨彦はさらに強く手を握って真っ直ぐに見つめた。
「俺も黒野が好きだ。だから、もう一度付き合ってほしい。」
あんなにも知りたいと思っていた雨彦の本心が簡単に本人の口から告げられたことに、玄武の頭の処理が追いつかない。それでも、雨彦に何か返さなくてはと思った。
「俺も、雨彦のこと、まだ好きだから、その、また彼女になりたい」
気の利いたことは言えなかったが、雨彦は満足そうに何度も頷いた。こんなに感情を表に出している彼を見るのは初めてだ。
玄武は嬉しそうな雨彦を見て、もしかすると雨彦も自分と同じように恋人が出来たことに緊張して、悩んでいたのかもしれないと思って嬉しく感じた。
「今日からまた二人で帰ろう」
「あぁ。帰る時に手繋いでも良いか?」
恥ずかしそうに伺った雨彦は自分と同じただの恋に浮かれる高校生だった。それが玄武をさらに嬉しくさせた。
「もちろん。俺もしたいって思ってた」
「良かった」
ホッとする表情を浮かべた雨彦に玄武も同じように安心する。あれほど感じていた距離はもう無かった。手を伸ばして触れられる距離にいるんだと分かる。
「そろそろ、教室戻らないと」
ふと目に入った雨彦の手首のデジタル時計が示している時間は思ったより早く進んでいた。もっと雨彦といたいが、これ以上はクラスメイトに迷惑がかかる。玄武は後ろ髪引かれる思いで、あまり飲んでない紙パックのお茶を手に取って立ち上がった。
雨彦も同じように立ち上がり、校舎の中に戻っていく。二人とも普通に歩く時よりゆっくりと歩いているのはお互いに離れ難いからだ。しかし、結局教室のある階まで階段を登りきってしまう。玄武の教室の前で、どちらともなく見つめ合ってクスリと笑った。
「今日分の準備が終わったら迎えに来る」
雨彦は先程した約束の通り、今日からまた一緒に帰ってくれるという。
「俺も、終わったらそっちに行く」
前までは迎えに来てもらうばかりだったが、今日からは臆すことなく自分からも雨彦の隣に行ける。
迎えに来てもらえるかもしれないという、この間までは無かった喜びに雨彦は頷いた。
「分かった。じゃあ、また後で」
そう言って玄武と別れ、雨彦は数歩進み、何かを思い出したかのように、まだ教室に入らないで自分の背中を見つめていた玄武の前に戻ってきた。
「文化祭、一緒にまわろう」
そう一言だけ伝えて恥ずかしそうに小走りで今度こそ自分の教室に戻っていく雨彦の耳は、先の先まで真っ赤だった。
その耳を見て、玄武はついさっき別れたばかりなのに、もう雨彦に会いたくなっていた。