いつか恋を描く日 生徒たちで賑わうキャンパスの中を泳ぐ様に次の講義のため別棟へ向かう玄武は不意に手を引かれた。後ろを振り返ると赤毛を逆立てた見知らぬ生徒が輝く瞳で自分を見ている。
何の用だ、と問うより先に引かれた手をギュッと痛いくらいに強く握られた。
「お願いだ!ヌードモデルになってくれ!」
この広いキャンパス全体に聞こえそうな程のよく通る大きな声でとんでもない頼み事をされた玄武は恥ずかしさに我を忘れ彼を殴って逃げ出した。
ずっと綺麗な人だと思っていた。
垂れ目がちの灰色の瞳は真っ直ぐに前を向いており、長い手足は細くて白くて、それでいて筋肉が均等についている。
本棚から本を取り出す所作も無駄がなく、彼に選んでもらえる本が羨ましいと思った。
だから、次の作品は彼を描くんだと決めていた。
「だからと言って、いきなりヌードモデルになってください。は駄目だと思うよ」
少し遠くからオレと彼の一部始終を見ていた百々人さんは伸びたオレを回収して、ベンチに寝かせると自販機からミネラルウォーターを買ってきてくれた。
「でも、後出しは駄目だろ」
「うーん。でも、あんな大きな声でお願いされたらどんなに本気でもビックリしちゃうよ」
強烈な右ストレートを食らった頬にペットボトルを当てる。
「今回は諦めて、僕と一緒に教授が呼んでくれたモデルさんで描こう」
暗に大人しくしていてくれ、と言われているのは分かっているがオレは首を縦に触れなかった。
「きっと、紅井朱雀だな」
このひと騒動はあっという間に学部内いや学内に知れ渡り、真正面からからかうことこそされなかったが、ヒソヒソと遠巻きに好きに話され居心地が悪くなった俺は逃げるように先輩の鋭心アニさんのいるゼミの研究室にいた。
当然、鋭心アニさんはこの件のことも知っており俺にあんなお願いをしてきた奴の名前も知っていた。
「紅井朱雀…?」
「そう。芸術学部にいる俺の知り合いの同級生だ」
だからヌードモデルなんて頼んできたのかとようやく納得できた。だからといって、了承できるというわけでもなく。もちろん、そんな日は来ない。
ただ、俺にそんなことを頼んできた輩がどんな絵を描くのだろうかと別の方面で彼に興味が出てきたので、今日の講義の合間に芸術学部の棟にある展示スペースを覗いてみようと思った。
周囲にバレると恥ずかしいので、人がいないであろう講義が終わりの夕暮れに展示スペースに向かった。
俺の杞憂だったらしく展示スペースには誰一人おらず、警備員の一人も立っていない。名のある作者の作品は無いからといっても、一般にも開放している場所でこれはあまりにも不用心では無いかと思いつつ、俺は「紅井朱雀」の名前を探して一つ一つ見てまわる。
ようやく見つけた名前の横には少し大きいキャンバスから溢れ出そうな勢いで描かれた飛びかかる猫の油絵が飾られている。タイトルは「愛猫」。タイトルから察するに飼い猫を描いたものらしい。
犬より野生を残しているのが猫だというが、猫の中にある肉食獣らしさを存分に感じさせながらも、それでいて猫の持つ愛嬌もしっかりと捉えている。あの大声では感じられなかったが、彼はこんなにも繊細な機微を感じ取れ、それを表現できる男だったのかと、彼を殴ったことを申し訳なく思った。
今度会ったらヌードモデルの依頼は受けれないが、取り乱して殴ってしまったことはしっかりと謝ろうと踵を返した時、目の前にその彼が立っていた。昼に声をかけられた時とは服装が違い、絵の具まみれのツナギを着てこちらを輝く目で見ていた。どうやら彼はこんな時間になっても絵を描いていたらしい。
謝ろうと決めていたがあまりにも突然過ぎて整理していなかった俺に距離を詰めてくる。
「絵、見に来てくれたのか?皆、俺と同じ一年なのにどれも上手くてスゲーよな!」
そう言って俺に一つ一つ解説してくれる紅井朱雀は楽しそうだ。やがて、彼は例の自分の作品を指差した。
「コレ、オレが入学して初めて描いたやつなんだ。教授からボロクソに言われてよォ。その時は悔しかったけど今見たら確かになって感じだ」
眉間に皺を寄せ、色が…デッサンが…と反省点を小さく呟いている今の彼はこの絵を描いた時より教授の酷評に納得するくらいに実力が上がっているのだろう。
「俺はこれ好きだけどな」
美術に疎い素人が言ってもなんの励ましにならないとは分かっていたが、そこまで卑下するほどでは無いと思った。それに展示位置から言って、教授が手厳しい評価をしたのは彼の伸び代をこの絵に見たからではないだろうか。
紅井朱雀は大きな目をさらに大きくすると、先程の落ち着きはどこへやら途端に身振り手振りが増え慌ただしくなり始めた。
「あ、あのよ、今も実は自主練してて、もし良かったら見て行ってくれよ」
そう言って俺の手を掴むとグイグイと引っ張って、展示スペースを出た隣の空き部屋に連れてこられた。
イーゼルの前の台には布が敷かれ果物のサンプルと花瓶が置かれている。よくあるモチーフのようだ。
「まだ本当に始めたばかりだけどよ」
そう言う通り、キャンバスはほとんど素描のままだ。
「これから、色をつけるのか?」
「ああ。それは明日からにしようと思って片付けようとしてたんだ。その前に飲み物買おうと思って部屋を出たら展示スペースにアンタがいたから驚いた」
俺も驚いた、と返すと紅井朱雀は恥ずかしそうに鼻の頭をかいた。
猪突猛進なところもあるが、根は悪く無い、むしろ真っ直ぐで気持ちの良い奴なのだろう。彼の人となりに感心していると、不意に椅子に立てかけられたクロッキー帳が目に入った。
「これ、見ても良いか?」
「完全に練習用だからあんまり上手くねえぞ?」
本当はじっくりと見たかったが、本人のプライバシーのためにもざっとページを捲る。植物、家、猫、動物…どれも紙に対して隙間なくスケッチされており、時折現れる気合を入れて描いたと思われる素描にドキリとした。
そして、最後のページを捲る時にあることに気付いた。
「お前、人は描かないのか?」
たまたまなのかこのクロッキー帳には一回も人の絵は出てこなかった。時折、人物は描きたく無いというこだわりを持つ画家もいるようだが、彼は学生だ。そんな選り好みする余裕があるとは思えない。
自分としてはただ紅井朱雀の描く人間を見てみたいだけなのだが、紅井朱雀はどんよりとした表情だ。
「余計なこと言った。描きたくないなら良いんだ」
「いや、描きてえよ。でも、一回も満足に描けたことねえんだ。それに描いてる時に失礼のねえようにってことばかり考えちまって…筆が止まるんだ」
自分の感じたままに描き出してしまう特性を分かっているから、それに彼が真っ直ぐな男だからこその悩みなのだろうか。そこで俺ははたと思う。
「お前、俺をヌードモデルにしたいって言ったよな。俺なら失礼があっても平気だと思ったのか?」
この短時間話しただけでも彼はそんな無礼な男ではないと分かりつつあったが、何故そんな枷がありながらモデルでもない素人の俺を選んだのか知りたかった。
俺の質問に紅井朱雀はハッとしてまた手を強く握ってきた。
「違う!そうじゃない!初めて俺の手で描いてみたいって思ったんだ!いっぱい描いて、どういう絵になるのか見てみたいと思ったんだ!」
熱のこもった瞳、紅潮した頬、握られた手。俺の心の中で何か変化した気がする。恐らくこういうのをまさに「心が動いた」と言うのだろう。
「でも、今回は教授が用意したモデルを描く。昼は変なこと頼んで悪かった」
気にしないでくれ、と紅井朱雀は明るく笑うが、俺は彼の心の枷を知ってこのまま別れる気は無くなってしまった。何より、あの絵のように彼が自由に描く絵をもっと見たいと思っている。
「紅井朱雀、一つ提案なんだが」
イーゼルを片付けようと後ろを向いていた彼が振り向く。
「ヌードモデルは無理だが、お前が人を描く練習としてのモデルとしてであれば手伝いたい」
提案した身ではあるが、自分がモデルになるなんて恥ずかしい。目の前の男に見られ続けることを想像して顔を熱くしたが、紅井朱雀は目を輝かせ一度離れた距離をすっ飛んで戻ってきた。
「本当か!?お前を描いて良いなら嬉しいぜ!日時とか場所とか、俺がそっちの都合に合わせる!」
無邪気に喜んでいるその表情はまるで子供のようだ。恥ずかしいが俺のできる最良の提案ができたと思う。
俺は紅井朱雀と連絡先を交換し、その日は別れた。その帰り道、俺は本屋で美術に関する本を買って帰った。