鏡に映る君 階段を駆け上がる足音は軽く、あっという間にドアは開けられた。肩で息をしながら、汗を拭きながら、ニコッと笑いながら話しかけてくる。
「遅く…なりました!すみません!」
「いや、大丈夫だよ。連絡もくれてたんだから、そんなに汗かくほど走らなくても…」
爽やかで可愛らしい笑顔に自分も笑顔で返す。
「あ、そうですね!は!汗かいたら髪切りにくいですかね!すみません!」
今どきの若者らしくない誠実な彼が、最近の俺のお気に入りだ。可愛らしく、弟が出来たようだ。
2度目の謝罪と共に下げた頭を、そっと上げながらこちらを覗く。上目遣いが無意識なんだから、怖い。
「いや、最近暑いからね。仕方ないよ。大丈夫。少しクールダウンしよう。アイスコーヒーでいいかな?」
彼に背中を向け歩き出す。俺の口元が緩んでいることに気付かれてないだろうか。
ハサミで髪をすく音は小気味いい。ジョキともジャキとも取れるその音は、切られる方も切っている方にも聞こえる、2人の共有する音だ。それをこの静かな2人だけの空間で、2人だけで耳にする。2人だけの秘密みたいだな。と、こっそり想う。
さて、今日の可愛い弟は初夏の暑さもあって、お疲れのようだ。船を漕ぎ始めた。長いまつ毛が下を向き、唇が少し開き、控えめな寝息が聞こえる。なんて可愛さだ。なんというか、…可愛い!最近男らしくなったけど、あどけなさが残ってる。この後も実家のパン屋の片付けに行くんだろう。一人暮らしを始めて、経費削減のため俺の所で髪を切り始めた。あ、いや、もっとこの店に来るのは小さい頃からだ。確か親父さんとうちの親父が仲良くて…だよな。まぁ、顔見知りではあったが、ここまで長く付き合うとは。親父に髪をカットされて、にこっとする彼は可愛かったなぁ…
「はぁ!!!!!すみません!」
ジャキィィィン!!!!!
彼が起きて、体をビクンとさせたとき、運悪く俺の体もビクンとした。主に右手がビクンとして、静寂が漂った。小さなパサッという音と共に、彼の髪の毛が少し床に落ちた。
顔を見合わせて、2人で変な笑顔を見合う。
「「ごめん!」なさい!」
「俺が寝てしまったから!」
「俺がハサミを下げておけば良かった!」
今度は2人で頭を下げ合う。
「せっかくの親父さん譲りの綺麗な髪を、申し訳ない。だけど!」
真っ直ぐに彼に向き直り、両肩を掴み話す。
「かっこいい髪型にするから!炭治郎に似合うような!だから…」
「はい!杏寿郎さん!お任せします!よろしくお願いします!」
真っ直ぐ綺麗な瞳でこちらを見つめ、腕を掴んできた。
「よし!任せて!じゃあ、真っ直ぐ向いててね!」
「ふぅ どうかな?」
「わぁ!こんなに髪短くなるの久しぶりです!」
鏡を見ながら彼は言う。
「いつもはせいぜい整えるくらいだもんね。夏だからスッキリしていいんじゃない?結構刈り上げたし、こことか…」
刈り上げた襟足をそっと撫で上げる。
「ひゃ!」
また彼の肩が跳ね上がる。
「ご!ごめん。驚かせたかな。」
彼の顔を覗き込むと両手で顔を隠してる…けど、耳がすごく赤い。
「お!俺!帰ります!ありがとうございました!」
すごい早口で立ち上がると、ドアに向かって早歩きをしている。
「か、かなり短く切ったので!し!しばらくは来なくて平気ですね!」
彼の手を止める。ドアを開けさせない。こっちももう落ち着いていられない。
「待って。髪はね、短いとメンテナンスが大事なんだ。今日のは長くなると変に見えるから…そうだな。来週から毎週来て。わかった?」
いつもの、年上なのに可愛らしく微笑む彼しか知らない。こんなに顔を近づけて、こんなに俺だけを見つめて、ゆっくり低い声で話されたことなんてない。俺に来週も来いと言って、微笑む。なんだろう。心臓が…ドキドキしてる。ハッと我にかえって、
「は!はい!じゃあ!」
とにかくドアを開けて、階段を駆け降りる。通りに出て息を整える。と、スマホが鳴った。
『待ってるからね?ちゃんと来て。来てくれるまで待ってるから』
2階を見上げると、彼が窓からこちらを見下ろして、手を振っていた。そっと手を挙げるけど、またドキドキしてきた。頭を下げて歩き出す。
炭治郎?気付いてる?カットモデルってね、美容師側が切りたいように切るんだよ。なのに君の髪を整えるだけって、チョット違うんだよ。いつか、気付いてくれるかな。
ーーおわりーー