1、 新郎友人 羽風薫 新婦友人代表のあの子、あんずちゃんの中学の友達なんだ。可愛いな。と、ぼんやりと回らない頭で考える。
ううん、回ってはいる。ぐるぐるとからからと。ものすごい速度で絶賛高速空回り中。
右から左へ感情を揺らしもせず、脳と頭蓋の隙間を素通りしていく情報たち。好きな女の子に関する話題なら何でも知りたいと思ってるのに、おかしいなぁ。
左隣の友人が寄越す心配そうな視線を避けたくて、上っ面の笑顔が崩れていないことを確認しながら、ゆっくりと会場を見渡した。見渡すと言っても身内だけの本当に小さな式と披露宴。親族席と友人席とで一つずつ、計4テーブル分だけの参列者。小規模ながら綻びのない完璧さと手作り感の両立する美しい空間は、なるほど彼と彼女らしい。
会場中央。俺から見て左斜め前の高砂に並んで座るふたりが本日の主役。
せなっちとあんずちゃん――大切な友人と、ずっと好きだった女の子。
俺とせなっちと、もりっちの三人。学生時代、卒業年度のクラスメイトという薄いつながりしか持たなかった俺たちは、卒業後の偶然の交流を重ねて徐々に距離を縮めていった。所属事務所も性格もバラバラなのに、何となく重なる部分があったからかもしれない。
緊張感も損得もない、ただ心地いいだけの同性の友人。いつの間にやら家族みたいになってしまったユニットの仲間ともまた違う、お馬鹿さんだった俺が学生時代に築き損ねた尊いものの一つ。
その内の一人から結婚披露宴への招待を受けたのは、誰かの家で鍋を囲んだ後のことだった――と思う。
何をきっかけとした集まりだったかは忘れたけれど、電源の入っていない炬燵が出ていたから、まだ寒さの残る春先のことだったはず。俺の家には炬燵はないし、あのせなっちが自室にそんな怠惰の巣みたいな物体を置くとは思えないから、多分もりっちの部屋だったんだろう。
「結婚式に来てほしいんだけど」
視線を斜め下に外しながら招待状を差し出した同級生の、売れっ子モデルらしくなく少しだけ丸まって見えた背中。酒の一滴さえ口にしない彼の耳が真っ赤だったことを、何故だか鮮明に覚えている。
あだ名で呼び合っても素っ気ない態度を崩さない友人からのお招きが、結婚式に呼ばれるくらいに仲のいい間柄と認識されていたということが、素直にとても嬉しかった。
だから喜びのまま詳細も碌に確認せずに「絶対行くよ」と答えた直後のこと。足の先から肩のあたりまで、全身の血が勢いよく凍っていくようなあの感覚を、俺は一生忘れないと思う。
差し出された封筒の裏。仲良く並んだ新郎新婦ふたりの名前。
――目の前の男友達と、片想いの女の子。
その暴力的なまでに無神経な友人の招待に、なんと返答したのかは覚えていない。
やたらと他人を気にするくせに、色恋のこととなった途端に興味が薄れる――というかそういう話題を避けているように見えた彼とは、その手の会話をしてこなかった。必要以上のプライベートへの干渉を避けてきた俺たちは、思い返せばお互いのそういった感情に想いを馳せることもなかったのだ。俺が彼と彼女の関係性を、その瞬間まで疑うことすらなかったことがその証拠。
だからせなっちは何にも悪くはないし、突然固まってしまった俺の様子は、ずいぶん彼を当惑させたことだろう。正直何も覚えてないけど。
一方でもりっちとは度々そういう話をしていたし、俺のショックはしっかりすっかりばれていて、その場は恐らく彼が何とか収めてくれたに違いない。残念ながら覚えてないけど。
がさつに見えて気遣いのできるもう一人の友人は、今日も今日とて俺の隣にいてくれる。主役の二人を心から応援しつつ、主役になれないもう一人をも救わんと板挟みで頑張る姿は、現代社会のヒーローの名前に相応しい。
そんな状態だったから、出席の返信は出せず仕舞い。それならそれで、仕事が入ったとかなんとか言って断ってしまえばよかったのに、できなかった。彼らとの心地よい関係性を壊さずに立ち回る方法を考えては、億劫になって諦めた。
当時の俺はどちらかと言えば、あんずちゃんの方へ腹を立てていたのかも知れない。お互いの招待客なんて共有していて然るべきなのに、それを止めなかった彼女に対して。あれだけ分かりやすく滲ませてしまった俺の好意を、受け止めてさえくれなかったことに失望した。真剣に届けようと踏み切ることさえできなかった、中途半端な自分に絶望した。
そして結局一番憎らしかったのは、祝福できやしないのにそれでも二人の幸せを願いたい自分の、偽善者みたいな善良さ。
笑えない過去に想いを馳せながらの現在。二人の結婚披露宴。
意識を再び会場に戻せば、新婦友人の挨拶は終わってしまったようだった。華やかに着飾って、穏やかに談笑する新郎新婦親族と友人たち。俺以外の全員が振りまく、曇りのない笑顔が眩しい。
貼り付けた俺のアイドルスマイルは、未来のお嫁さん候補かもしれない女の子たちの目にちゃんと映っているかなぁ。
なんてね。ごめん、嘘。今だって他の女の子に目移りなんてしてないよ。
最愛の人の隣。純白のドレスを纏ってほほ笑む君は、最高にきれいだよ。
思い返せば思い返すほど、現在この祝いのテーブルに大人しく混ざっていること自体、異常事態に思えて仕方がない。
一体どうしてこうなった?
またもぼんやりと霞がかかった記憶に想いを馳せようとしたところで、――音が、響いた。ぽろぽろと零れるように始まったピアノの音色。
発信源は新婦の右隣に置かれたグランドピアノ。やや会場の規模に釣り合っていない、白く光る立派なピアノだ。俺の席からでは奏者の頭すら見えないが、同席した円卓からいつの間にやら姿を消した二人が奏でているのだろうか。
決して強くない打鍵音が、喧騒の消えた空間を一瞬にして支配する。
――そう。この音のせいだ。
心から祝福しろと、聴く者全て幸せであれと、他人のあらゆる感情までをも無理やり塗り替えてしまうような、澄んだ音。
それによって俺の中に塗り込められたあれやこれやが押し流され、曖昧だった顛末が急速に脳裏に蘇る。
俺たち全員が全幅の信頼と思慕を抱く、始まりのプロデューサー。そんな彼女がたった一人を選んで結婚する。自分じゃない別の一人のものに、なってしまう。
その事実はES全体に凄まじい衝撃をもたらした。それこそ今まで築いてきた全部が根底から瓦解してしまうような、必殺の一撃。
カラ元気の停滞感に、殺伐とした高揚感。そこかしこに立ち込める、浮足立ったようなどこか異様な空気感。ES社屋どころか仕事先の楽屋内、直近に控えた『UNDEAD』のライブ練習場にさえも、そんなものが充満していた。
俺も返事の出せない招待状を抱えたままに、惰性と根性で仕事はこなしていたが、もうアイドルなんてやめてしまおうかと刹那的な感情に飲み込まれそうになっていた。
これ、あんずちゃんはともかく、せなっちは大丈夫なのかな? 刺されない? 俺は友達だと思ってるから踏みとどまったけど――なんて、他人事なのか自分の感情なのか区別もつかない乾いた笑いと、物騒すぎる心配さえも抱いてしまった。
そんな時、あんずちゃんからひとつの音源を手渡された。
どんなに一生懸命避けていたって、仕事のスケジュールばかりは隠せない。二枚看板での仕事の後、待ち伏せていたらしい彼女から、彼女自身のために歌ってほしいと渡された。
「嫌ってくれていいです。でも、気持ちだけは伝えたくて」
彼女と、ESお抱え作曲家みたいになっている月永くんとで作った曲だと言う。
その制作陣からして思惑が透けて見えて気持ち悪くて、腹の辺りからぞわぞわと虫唾が走った。感情に任せて叩き壊さなかったことを褒めてほしい。
結局それを零くんに丸め込まれるようにして嫌々ながら耳に入れ、そのまま涙が止まらなくなった。
それは俺のための曲だったから。
あんずちゃんと、俺の歌。
彼女 を 愛する 全てのESアイドルのための歌。
彼女 が 愛する 全てのESアイドルのための歌。
その楽曲は関係者――ESアイドルとP機関、そして新郎新婦の仕事関係者に向けた結婚披露パーティにて、有志で歌われる予定だった。……だったのだが、蓋を開ければほぼ全員参加の、一大ステージとなっていた。
「売れっ子アイドルたちが次から次と押しかけて、入れ替わり立ち替わり。あるいは日を改めてあんずの嬢ちゃんに歌を贈りに訪れる光景は圧巻じゃった」と、目を細めて語る年上の吸血鬼はなぜだか誇らしげで、本物のおじいちゃんみたいで。俺は思わず吹き出してしまった。
華やかで明るい、アイドルたちのウェディングソング。それは二人の門出への祝福の曲でありながら、あんずちゃんと俺たちの軌跡の証で。それを歌い踊っている間じゅう、彼女との楽しかったこれまでと彼女の幸せなこれからを思わずにはいられなかった。
よくよく思い返せば不思議なことに、そこには新郎の存在なんて一ミクロンだって感じられやしなかった。
けれど主役の片割れが今日という晴れの日を無事に迎えられたのは、十中八九あの曲のおかげに違いない。あの日を境に、俺の中の暗い気持ちはどこか遠くへと、押し流されてしまった気がする。
もしかすると、二人の結婚披露パーティという目的に対し、不自然なくらいに消し去られたその存在に胸がすいたのかな――なぁんてね。いくら善良な俺だって、心の中で思うくらいは許されたい。
そうしてパーティーの帰り道。俺は俺自身とあんずちゃん、そしてほんのちょっぴりだけせなっちのためにも、返信ハガキの『出席』に丸をつけることを決めたのだ。
それもきっとあの歌のせいに違いない。ポストに向かう道すがら、ずっと口ずさんでいた弾むリズムの、あの曲のせいに違いない。
だけどこれは違う。今この披露宴会場に響き渡るこの音は、俺のためのものじゃない。周囲のあらゆる雑音を全部洗い流して、ただ主役の二人のためだけに奏でられるピアノソナタ。
あんずちゃんと、せなっちと。今度こそ二人に向けた応援歌で、祝福の曲。
『音楽は人を惑わし、煽動する。彼は卑怯じゃのう』
あの時、渋々受け取ったイヤホンを片耳に刺したまま声もなく涙を流し続ける俺を見て、零くんが苦笑と共に溢した言葉が脳裏に浮かぶ。
「そうだね。これはずるい……」
穏やかに絡み合う二つの調べが、優しく無慈悲に感情を押し流す。何かを覆い隠すように塗り重ねられた分厚い絵の具が、ゆっくりと剥がれて溶けてゆく。
――こんなのもう、全部全部許して祝福するしかないじゃんか。
途中、こちらに視線を寄越したもりっちがようやく安心したように笑ってくれたから、今度こそ俺はちゃんと笑えているのだろう。あぁ、でも、唯一昔から変わらず新郎が褒めてくれる俺の顔面は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、女の子たちには引かれちゃうかな。
まぁ今日ばっかりは、それでもいいか。
おめでとう二人とも。
誰よりも幸せにならないと、許さないんだから。