4、月永レオ② それが嘘だとすぐに分かった。
「れおくんよりも好きな子ができた」
いつもは全然許可の下りない深夜のコーヒー。それを作業中のおれの前、キーボードから少し離れた位置に静かに置きながら、セナから告げられた言葉。
それは嘘だとすぐに分かった。
モデルとして世界で活躍するこの男は、プライベートのことになった途端、表情を作るのが驚くほどに下手くそになる。元々一方向の感情に対しては特別に起伏の激しい奴だった。さらには嬉しいだとか楽しいだとかそういう類の感情だって、実は手に取るように分かりやすいということに、一緒に暮らしているうちに気が付いた。
そんなところも、たまらなく愛おしい。
言葉も音楽もなくたって、その美しい容貌に浮かぶ瑞々しい感情はいつだって、おれの世界を揺り動かす。
「……だから、別れてほしい」
本人的には完璧らしいポーカーフェイスでそう続けられた言葉。
それもまた本心からの願いだと、すぐに分かった。
そうしてちょっとムカついた。嘘なんかつかなくたって、おれはおまえの願いならなんだって叶えてやりたいと思っているのに。ムカついたから、コーヒーに向かって伸びようとした素直な自分の左手を、その半歩前くらいで引き留める。
別にお揃いでも何でもない青銅色のコーヒーカップは、おれのお気に入りの一品だ。去年だったか一昨年だったか。セナが一時期根を詰めて通っていた陶芸教室から、唯一持って帰ったきた完成品。出来栄えが気に入らないからと渋る作者を口説き落とし、三曲ぐらい捧げてやっと「俺の手作りのカップでコーヒーが飲めることに感謝しなよねぇ」みたいな言葉と共に下賜された。
別れたら、これも没収されるかなぁ。いやだなぁ。あれ? 別に二人のものじゃないし、別れた後はおれのものにしていいんだっけ?
えーと、そんなことはどうでもよくって。
「へぇ? 好きな子って、誰?」
「……なんであんたに教えなきゃいけないの」
凡庸すぎるおれの返答をまさか予想できていなかったのか、目の前の涼しい顔は秒で崩れた。モデルは台詞のない役者だって話はそれこそ、目の前の男の口から散々聞いたし、ステージ上のセナの演技はいつだって最高なのに。
途端に視線の泳ぎだしたセナの様子が興味深くて、おれは調整中だった譜面ファイルを一旦閉じ、新規作成のボタンを一度だけ押し、椅子を回して振り返る。
なんでって……なんでだろうな? そんなのおれも分かんない。だって本当に訊きたいのはそんなことじゃないからな!
どうして? おれの何がダメだったの? おれの曲の、何がおまえにそうさせた?――訊きたいことはいっぱいあるんだ!
このところ、何度も口から出そうになっては飲み込んだ、酸っぱい味の霊感。
込みあがりそうになるそれを誤魔化したくて、意地悪に畳みかける。
「おれの知ってる子か? はは~ん、さては『ゆうくん』だな!」
「……違う。………普通に女の子だよ」
「へぇ、誰?」
「…………」
好きな子なんているはずないと分かっているけど、土壇場で『ゆうくん』にも気を遣ってみせた冷静さが気に入らない。嬉々として椅子から身を乗り出すおれに若干引きつつ、獲物を追い込むための誘導路を、ヒロイン以外への優しさで回避してみせた主人公補正が面白い――いや、気に喰わない。
「言えないの? おれのこと、今も危ないやつだって思ってる?」
「……そうじゃない…けど……」
あ、これもしかするとヤバいかな。今ではすっかりセナには見せないようにしている顔だから、抑えないと心配させちゃうかもしれない。それはよくない。
だけど物語を劇的に進めるためにはどうしたって、魅力的な悪役が必要だ。ちっとも冷静じゃない嫌いな自分をどこからか見下ろす、醒めた頭のおれがいる。
なぁ、セナ。そんな苦しそうな顔をしないで。おれをちゃんと悪役でいさせて。もしくはなんでも叶えるランプの精でいさせてくれよ。
「じゃあ全部セナの嘘?」
「…………っ……」
すぐに詰まる付け焼刃の嘘なんてつかないでほしかった。だってそんなに切実なお願いなのかって、哀しくなっちゃうだろう。
見るからに焦って冷や汗まで浮かべそうなセナを黙って待ちながら、ふとコーヒーの存在を思い出し、手をつける。おれにはどこがどうダメなのか分らない、つるつるとしたきれいなカップ。確かにちょっと重たくて、飲み口もちょっと厚いけど、その存在感もお気に入り。
愛おしさに縁を指で撫でてから口に含めば、ついさっき、たった今淹れられたという体で置かれたばかりのそれは、中途半端に冷めていた。
あぁ、なんてことだ――こんなところまで、おれの愛するセナらしい。
どうしよう。こんな時、敵役にはどんな台詞がお似合いだろう。『今だったら許してやる』とか?
それにしても苦悩する美形は絵になるなぁ、なんて。悪役らしい考えが板についてきたところで、絵じゃない美形が思案の末に口を開いた。
「……あん、…あんず……とか?」
結果ひねり出されたセナの答えは、ありえないことに疑問形だった。『とか』ってなんだよ。さすがのおれでも、あんずにめちゃくちゃ失礼だってことは分かるぞ。
でもそうだよな。切羽詰まったセナの中からすぐに出てくる女の子の名前なんて、あんずくらいしかありえない。あとはおれの可愛い妹くらい? 後者だったらすぐさまここで乱闘だから、咄嗟にしては及第点。落第ギリギリ、首の皮0.1枚分くらいだけども。
メロドラマ俳優じゃなくコメディアンばりの回答は、これはこれでおれ好み。それに笑ってコーヒーを吹き出さなかったおれはきっと、立派な助演俳優賞。
「わかった。それなら別れよう」
「……いいの?」
「よくないって言ったら撤回してくれるのか?」
「……れおくん。ごめんね、ありがとう」
あっさり受け入れたおれに驚いたように数度瞬いた後、安心したように綻ぶ表情が麗しい。これが花笑みってやつかもしれない。あ、霊感が湧いてきた……。
「……本当に、ごめんね。でも……俺は俺を、世界で一番好きでいたい」
偽ることのない気高い意志を凛と掲げ、まっすぐにこちらを射抜く蒼天の視線は、どんな宝石よりも美しい。疑いようもなく、おれの大好きな瀬名泉だった。
「よし! そうと決まれば作戦会議だ! あんずはセナとおんなじくらい鈍感だから骨が折れるぞ~」
せめてもの意趣返し。おれはセナの嘘を本当にしてやろうと思いつく。セナが主役のオペラ・ブッファを拵えよう。
だってなんだか面白そうだろう? そうだ、もっといいことを思いついたぞ!
「それでもし作戦がうまくいったら、報酬におれのお願いも聞いてくれ!」
「…………はぁあ!!??」
数秒のラグを経て、そこそこ広い2LDKの二人の家にセナの絶叫が響き渡る。
鳩が豆鉄砲を食ったみたいな顔で目を白黒させる主演俳優様が可愛らしくて、やっぱりおれは笑ってしまった。