3、新郎友人代表 朔間凛月 確かに黙っていれば気品と威厳を感じる造形かもしれない。なんて、本人に告げれば何をいまさら唐突にと笑われそうな感想を、左隣に座る男の横顔を眺めて抱く。
披露宴会場の真っ白なピアノの前。並べて置かれた背もたれのない椅子に二人、姿勢を正してお行儀よく座っている。
お揃いの紺のジャケットに各々の瞳の色のリボンタイ――俺は深紅で、月ぴ~は新緑色。俺たちにとって見慣れすぎた衣装の配色は、明るいオレンジにもよく映える。祝いの席に合わせてナッちゃんが整えてくれた頭髪は、前横髪をしっかり上げて、顔色を少しも隠さない。
この気の置けない連弾相手の表情を読むことは昔から、他より少しだけ苦手だった。
披露宴会場の明るいライトに照らされて普段以上に全てが露にされた状態でもなお、彼の真意は読み取れない。多彩に跳ね輝く喜怒哀楽は彼の魅力の一つであるが、今は真剣な眼差しの前後に隠されて、どこにも表れない。
けれどもそうも言ってはいられない。約束を、してしまったから。
朔間凛月は、約束だけは死んでも守ると決めているので。
今から大体三か月前、瀬名泉が結婚を宣言した。
お相手は我らがESの実質No.1人気アイドル――つまり、あんずだ。
その結果、どうしたって敵が多そうなセッちゃんが刺されそうになっているらしいと聞かされて、腹を抱えて笑ってしまった。
「リッツ! 笑いごとじゃないぞ!」
音楽雑誌の対談企画のための控室。飛び込んでくるなり爆笑必須の話のネタと仲間の身辺警護の相談を持ち掛けてきた本日の仕事相手は、ぷんぷんと効果音が付きそうな様相で両手を振り上げている。
それを見ている俺はというと、笑いすぎて右目に浮かびかけた涙を、施してもらったばかりのメイクを崩さない程度に雑に押さえる。
「え~? だってセッちゃんって、刺されても死ななそうだし」
こんな馬鹿みたいで悪趣味なウワサ、いったい誰が彼の耳に吹き込んだのだろう。
元凶たる男のことを愛して止まない元同居人は本気で心配しているようだったが、俺はあんまり気にしていない。だってさすがに本気で刺すような奴はいないと思うし。
俺たちは全員、あんずを結構本気で好いているけれど、だからこそ、あの子が悲しむようなことはできないはずだ。
ま~くんから『Trickstar』の誰かが抗議に行ったって話は聞いていたけど、それが片付いたっていうことはつまり、他のユニットが手出しをしてくる道理はないということだ。ありがたいことだよねぇ。そこまで見越しての行動だとは思わないけど。
ファンに対しては事務所がそこそこ力を入れて対応してくれてるらしいし、『Knights』は一応公私の線引きのはっきりとしたユニットだから、そっちも多分任せておいて大丈夫。俺たちももういい年齢した大人だし、前例だってないわけじゃない。
あとはセッちゃん自身の素行の問題になってくるわけだけど、元彼女はいないっぽいし。
「大体さぁ、月ぴ~はいい気味だって思わないの?」
「なにが?」
唯一その権利がありそうな相棒は、こんな調子で首を傾げては、あほ面を晒しているし。
どうしたって味方よりも敵の方が多そうなセッちゃんが、あんずとの結婚を発表した。
本当に唐突に。俺たちユニットメンバーにもほとんど何の相談もなく。
一応他より早くに報告はあったけど、決定事項みたいに告げられるまで本当に何も知らなかったのだ。ここ一年、セッちゃんに恋人がいたことも。それがあの、あんずだったということも。
「とにかく。あんな薄情野郎、俺は知りません~」
「リッツ~ぅ」
思い出して沸々としてきた感情に乗せ、顔を背けて耳をふさいだら、月ぴ~が情けない声で俺を呼ぶ。両手で覆ってみたくらいでは近すぎて、「おまえはおれたちの優秀な参謀だろ~」という情けない大声は全部届いているんだけれども。
せっかくスタイリストの人が整えてくれただろう頭をぐりぐりと俺の肩に擦り付けるのはやめてほしい。地味に痛いし。
「知らないってば。それに俺は月ぴ~にも腹を立ててるんだからね」
そう言い放てば肩のぐりぐりがピタリと止んで、わめき声が唸り声に変わったから、一応腹を立てられる心当たりはあるらしい。
そう。俺はセッちゃんだけじゃなく、月ぴ~にも少し怒っていた。どうして何も教えてくれなかったの? って。
知らなかったとは言わせない。だってあんたら、ほんのちょっと前まで一緒に暮らしていたんじゃないの? とっくの昔に別れたくせに。
「刺されたとしても自業自得でしょ。本人たちも覚悟の上だろうし、それはそれで本望なんじゃな~い?」
とは言えやっぱりこの状況はあんずの方が可哀そうだな、と別方向の同情心を覚えて両の耳から手を外したところで、呟くような小さな声を拾ってしまう。
「――は、おれのせいだから……」
「……なにそれ、どういう意味?」
俺には聞かせないつもりの言葉だったのだろう。だけどどうしてか、聞かなかった振りはしてあげられなかった。タイミングが良かったのか悪かったのか、少し寂し気に笑った友人の表情までをも、視界の端に拾ってしまったせいかもしれない。
しまったと大きく書かれた月ぴ~の顔をじとりと睨めつけ、しばらく無言の問答を続けたが、堪え性のない相手の方が分かった分かったと白旗を上げた。
「おれ、がんばったんだよ。あいつらが一緒になれるように」
「…………ふわぁ? あんた、馬鹿なの?」
意味が分からなすぎて開いた口が塞がらないでいたら、そのままあくびに変わってしまった。
好きな人が別の誰かと結ばれるように努力する――なにその悲劇のヒロイン気取り。あほなの? Mなの? マゾなの?
なんでもいいけど、セッちゃんにだけはちゃんと愛されようと腹を括ったんじゃなかったの。
形はどうあれ俺にはそれが、とてもとても嬉しかったのに。
「とにかく! セナが傷つくのはいやなんだよ。だけどどうやって守ってやったらいいのか分からない……」
ほとんど浮き上がらない力こぶを作って見せては、「おれ腕っぷしはからっきしだし……」と、迷子の犬みたいな途方にくれた様子で呟く月ぴ~を見て、俺は仕方なくスマホを手に取った。
こんなに呆れてムカついているというのに、困っている身内を見捨てられない。なんて優しすぎる吸血鬼――というか、あと十数分もすれば始まるはずの対談の相手に、調子を崩されたままだと困るのだ。
渋々と電話をかけた相手は三コール以上待っても応答がなく、舌打ちと共にメッセージを残すことにした。俺に出しうる中で最大限に低い声に、ほんの少しだけ甘えを混ぜて。
「……生意気に留守電とか使えたんだぁ。十分以内にかけ直してね、お兄ちゃん」
天才とか言われる奴らはみんな、みんなみ~んな馬鹿ばっかり。
大事だ、愛してる、一番に優先したいと言っときながら、結局は遠ざける。大切な人の幸せのためなら、自分を犠牲にしてもいい? とんだ自己満足の余計なお世話。
目の前のおバカな友人にそう言ってやりたいのに、嬉しそうに抱き着いてくる勢いに押されて、結局何も言えなかった。だから髪の毛ぐちゃぐちゃになるってば。
その代わりと言ってはなんだけど、電話に出てくれなかったもう一人の大馬鹿者を頭の中でボコボコに蹴り飛ばしておいた。
そうして兄の授けてくれた案に則って、二人の門出を祝うための特別楽曲が出来上がった。ES有志による、あんずのためのウェディングソング。作詞:新婦で、作曲:新婦と月永レオ。
自分にできることがあると言われて喜び、あんずと一緒に楽しそうに曲を創り上げていく天才作曲家の姿を横目に見ながら、俺には最初から最後まで彼らの行動と感情を半分だって理解することはできなかった。
例えば仮に――本当に仮の話として――、あんずの結婚相手がま~くんであったなら、俺は笑顔の完全犯罪で、これ幸いと彼女を葬っていたと思う。まぁそもそも俺だったなら初めから、恋人に別の女を選ばせるような下手は打たないけどね。
多分この天才って奴らとは、一生分かり合うことはできないんだろうという、呆れと諦めと。それと同時に、そこには嘘なんて、ほんのひと摘みさえなかったんだろうな、って。その底抜けに幸せで楽しい曲を共に歌い踊りながら、そう思った。
だから理解できないながらに、納得しようと思っていたのに。彼らがきちんと割り切って前に進むなら、それでもいいかと思っていたのに――。
今から大体ひと月前。月ぴ~から、セッちゃんの結婚式の友人代表スピーチで一緒にピアノを弾いてほしいとお願いされて、思わず全力で殴り飛ばしてしまった。
「おれが逃げ出しちゃわないように、途中で音が消えちゃわないように、隣で見張っててほしいんだ」なんて、泣き出しそうな笑顔で両手を合わせる月ぴ~じゃなく、頭の中のセッちゃんと自分と、ついでに兄も。
そしてやっぱり目の前の大馬鹿者も、今度はちょっとだけ殴ってしまった。そんな顔をするくらいなら、やっぱりあんたが刺しちゃえばよかったんだ。きっとセッちゃんも本望だろう。
だってかつての恋人に友人代表の挨拶をお願いするなんて、とても正気の沙汰じゃない。受ける方もどうかしている。
そう思ったけど、ぽすんと力なく肩に押し当てた俺の左手を、宝物のように両手で包み込みながら「ごめんな、ありがとう」なんて微笑まれたら、そんなことはとても口にはできなかった。そしてその憂鬱すぎる役目を断ることもまた、俺にはできるはずがなかった。
可愛く甘えて無理を通すのは、弟の俺の領分なのにね。
あの時も、その時も、今この時も。いつだって俺は、彼らの真意を読み切れない。理解できない。
けれどもそうも言ってはいられない。
約束を、してしまったから。俺は『Knights』の参謀であり、彼らのことを誰よりも知る『友人代表』でなければならない。
整え、取り繕われた表皮の下に隠された本心を覗いてやろうと凝視を続けていたら、急にばちりと正面から合わされた視線に、少したじろぐ。俺としたことが、連弾相手の心情観察に必死になりすぎて、「次は新郎友人代表の挨拶です」とかなんとかいう司会のアナウンスが耳に入っていなかったみたい。
さぁ行こう、と視線だけで促してくる月ぴ~の表情は、ステージ上のいつもと同じ。自信と興奮と、とびっきりの幸福とで充ち満ちる。キラキラと輝く照明を受けて返すペリドットに曇りはなく、生まれたての赤ん坊の瞳のように希望の光に澄み切っている。
黙っていれば気品があるなんて言われても、彼にはどうしたって、笑顔が一等よく似合う。
『ずっとずっと隣で笑っていたいから』
今から大体三年前。ついに先月恋人と別れたのだと俺に打ち明けて、ほっとしたように、ちょっとだけ寂しそうに、それでいてどこか幸せそうにはにかんだ銀髪の友人を思い出す。
相方とは対照的に、彼の心情は読みやすい。どんなにひねくれて見せたって、意外と幼い表情は素直に気持ちを映し出す。
だからその、事象とそぐわない感情の理由が分からず問い詰めて、返ってきた答えがそれだった。
『ずっとずっと隣で笑っていたい』から別れたのだと言う。
感情どころか、事実から一向に信じられなかった。二人の様子に変化はなかったし、つい数日前に会ったばかりの月ぴ~は、相変わらずセッちゃんと同じ匂いをまとっていたのに。
結局全く理解できなくて、家に帰ってから延々とま~くんに愚痴ったものだった。そうしたら、ま~くんがあんまり適当に相槌を打つものだから俺が怒れば、
「その話も、おまえが何にそんなに怒っているのかも分かんないけど、俺も凛月には笑顔でいてほしいって思うよ」
なんて、満点の笑顔でそこそこ高得点の答えをくれたものだから、考えるのもばかばかしくなって、理解不能な友人たちに関する謎解きの記憶はそこで終わったんだったっけ。
***
自らの指先で奏でる、祝福の和音が美しい。俺が務める、 第一奏者の明るいメジャーの主旋律。それに寄り添い、支えるように伸びる第二奏者の旋律。二つは徐々に混ざり合い、主旋律も副旋律も境界がなくなる。
どうしてかなぁ。その言動へは一切の理解を拒めても、その音楽にはいつだって侵入を許してしまう。先ほどまで窺い知らんと心を尽くした隣人の感情が、閉ざす間もなくあらゆる隙間から溢れ込む。
――うれしい。しあわせ。楽しい。きれい。だいすき! 笑って!
沸き立つ心は自身のものか、はたまた隣の連弾相手のものなのか。もはや区別をなくした音が滑走して跳ねて、ステップを踏んでハイタッチ。低く高く、手をつないで離して、またつないで、くるくると歌い踊る。
本日の主役の二人も、彼らを祝福しようと集った客も、鍵盤に向かう俺たちからはその表情はうかがえない。だけど隣の友人が世界一幸せそうに笑っているから。この場にはきっともう、笑顔以外は何もいらない。
なぁんだ。多分最初から心配なんていらなかった。俺より全然賢くなくて、俺より全然二人を知らないま~くんの回答は、俺より断然正解に近かったみたい。
彼らの愛にはいつだって今だって、ほんの少しの嘘もなかった。俺には一生理解できないし、理解したくもないんだけども。
『ずっとずっと隣で笑っていたい』
彼らの願いを、過去形なんかにしないため。
これからも大事な俺の友人たちのために、心からの笑顔と共に奏で続けよう。この幸せの音楽を。