図書館に本を返しに行くファウストとミスラが鉢合わせする話机の上に積んでいた一冊から、けたたましい鳥の声が響く。本にその魔法がかけられていることを完全に忘れていたファウストは思わず耳をふさぎ、紫の双眸を大きく開いて本を手に取った。
革表紙にぼうっと光の文字が浮かび上がり、それは明後日の日付を示している。返却期限であった。貸出期間が30年と比較的長期だったので、忘れないように過去の自分か店主が魔法を施していたのだろう。東の国の路地裏のさらに裏、地下深くにたたずむ古い店までは魔法舎から多少距離がある。ファウストは賢者に一言ことわりをいれて、ゆうに100を越える巻数の図録を携え返却へ向かうことにした。
ぎょろりと目ばかりが輝く老店主はファウストを一瞥すると、返された図録を一点ずつ単眼鏡でたしかめながら、底意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「なんだ、きっちり揃えて返してきやがって。シミひとつ、虫食いひとつありゃしねえ。これじゃあふんだくれるものもふんだくれねえや」
「当たり前だろう。おまえのやり方にはずいぶん勉強させてもらったからな」
「相変わらずかわいげがねえやな、呪い屋。それで? 今日はどうする」
「<大いなる厄災>の文献で何か新しいものは入っているか」
「<大いなる厄災>、ね。待ちな。いくつか心当たりがある」
「《アルシム》」
突然、空間が歪んで赤髪の大男があらわれた。老店主はかたまったまま、喉の奥でミスラ、と声にならない声を上げる。ファウストはうんざりした顔でぼんやりと辺りを見渡している北の魔法使いに声をかけた。
「ミスラ。なぜここに来た」
「知りませんよ。チレッタの気配がしたんで、辿ってきただけです。あなたこそ、なんでこんなカビくさいところにいるんです?」
「ここは東の国でも有数の魔術書を取り扱う古書店だ。貸りていた本の期限が近かったから返却に来ている。それだけだ」
「へえ」
気のない相づちを打ちながらも、ミスラは手当たり次第に書棚をひっくり返して何かを探しているようだった。老店主は先ほどから店の隅で震えており、恐ろしい北の魔法使いの暴虐ぶりを止める者はこの店どころか世界にさえいやしない。ファウストはひとつため息をつき、本を放り出しつづけるミスラの手を止める。老店主の悲鳴が小さく耳に届いた。
「やめろ。本が傷むだろう」
「はぁ? あなた、東の魔法使いの分際で俺に指図するつもりですか?」
「指図はしていない。ここにある文献はどれも貴重で、僕たちの問題を解決する記録がないか双子たちもこの店を懇意にしていると聞く。今も<大いなる厄災>の文献をあたってもらっているんだ。おまえが蔵書を荒らすことで解決が遅れるかもしれない。捜し物があるなら僕も手伝うから、やめてくれないか」
「そうですか、そっちはそっちで勝手にやっててください。俺はあの女の気配を探るのに忙しいんで」
「おい!」
さらに注意を続けようとしたファウストを見かねてか、老店主が声を振り絞る。
「や、やめろ、呪い屋! どこでどうおっ死のうがてめえの勝手だが、ここで呪詛残されるのだけは勘弁だ! み、ミスラ様。だ、大魔女チレッタの文献なら最近、し、仕入れ……まし、た。……と、いっても、子どもの落書きみたいな絵が描かれた、か、紙束です。か、か、解読もっ、済んで、いません、」
「はあ……なんですか、それ。あるなら先に言ってくださいよ、使えないな」
本を放る手を止めて、無表情のままミスラは老店主へ向き直った。震える手から受け取った紙束をまじまじと見つめて不思議そうに首をかしげている。
「これ、俺のです」
ミスラは屈託なく笑い、紙束をファウストに見せつけてきた。話を聞く素振りも見せず、取り付く島もなかった数分前とは雲泥の差だ。北の魔法使いの機嫌は山の天候より読みづらい。
「なつかしいな。渡し守をしていた時にちょっと描いてみようと思ったんですよね、運んだ人間の顔。結構時間かけたんで、途中で崩れてきて大変だったな。どれがどれだかはもう忘れましたけど」
残滓さえ苛烈なその気配がチレッタのものであるかはファウストには判別がつかなかったが、つたなくも物騒な死に顔の落書きに強力な守護の魔法がかかっていることだけはわかる。
”弔われず崩れゆく死者の無念が呪いに転じないように”。
上機嫌のまま紙束を抱え、ミスラは空間を切り裂いてあらわれた扉の向こうへ消えていく。ミスラに店の場所を辿られてしまった老店主もすぐに店をたたむと、這々の体で暗闇へと消えていった。仕方なく一帯を浄化し、ファウストも魔法舎へと戻ることにした。
すっかり暗くなった空を一人駆けながら、ファウストは紙束にかけられた守護を想った。
尊厳を蔑ろにされた人間たちを浄化するのではなく、転じた呪いを封じた守護を。難解で単純で、理解しがたい彼女の魔法を。