【ネロファウ】ワンドロ2-1窓から差し込む朝の日差しが柔らかい。呪い屋先生の隠れ家は森の中にあるため、魔法舎とは違い葉の陰に日の光がさわさわと揉まれるのだ。
鳥の声もそよ風も、気持ちのいい朝の代名詞だなんて機嫌よく自然を感じながら、ネロはフライパンにたっぷりとバターを溶かす。
今日の朝食はフレンチトーストだ。昨晩仕込んでおいたので、ふっくらひたひたの食パンはさぞおいしく仕上がるだろう。
裏の畑から帰ってきたファウストが、籠に野菜を取ってきた。外の小川で土は落とされており、スープ用にといくつか渡されて、あとはサラダにしてくれるようだ。火を使っていない方がサイドメニューや食卓を整える、すでに習慣になっている。
じっくり焼いてひとり二枚、食卓に用意されていた自家製の木苺のジャムはてらてらと瑞々しくて、向かい合わせの席に座っていただきますとナイフとフォークを手に取った。
猫たちのごはんもしっかり用意して、ここがいいとリクエストされた食卓の下に置いている。先っぽをゆらゆらさせたご機嫌な尻尾が、時折足首をさわさわしたりするんと巻き付いたりしてこそばゆかった。
ジャムの甘酸っぱさがいい感じ、フレンチトーストのふわふわ具合が好み。それぞれ手作りしたものを褒め合いながら舌鼓を打って、雑談がてら帰路の相談をした。
「帰りに呪具の店に寄るつもり」
「俺は東の市場を覗きてぇかな」
「じゃあ別々で」
「ん、了解。夕飯食べたいもんある?」
「二日連続で僕の好物を作ってもらっては、贅沢だろう」
苦笑しながら言ったファウストに、遠慮しなくていいのにと思ったが素直に引き下がった。
裏の畑や周りの実りに話が移り、今回はいくつか持って帰らせてもらうことになった。量は少ないから東の子供たち用だ、それで何か作ってやれば喜ぶだろう。
並んで片付けをしながら、次はいつ来ようかという話になるのがいつもの流れだった。勿論魔法舎での任務が優先だが、可能な限り調整して畑や森の様々な実りの期間に合致するようにしている。いつもであればこの地を住処としているファウストが率先して候補を挙げるのだが、なぜかやけに歯切れが悪かった。
「どうかした?」
「いや…」
「あ、呪い屋先生の仕事の予定があるとか?それなら俺は近づかない方がいいか」
「そういうわけじゃないんだが」
本業は休業状態なのかどうなのか、そこらへんを突っ込んで聞いたことはなかった。呪具の店に行きたいらしいしと気を回してみたが、どうやら違う理由があるようだ。
無理やり聞き出す気は毛頭ない。この地はこの人の居場所であり、ネロは言うまでもなくただの訪問者だ。それでもまぁここにやってくることをとても楽しみにしている客ではあるので、もし良かったらいつぐらいまで駄目か聞かせてもらえたらなぁとは思う。
それが分かっているファウストは、何か逡巡しているようだ。その様子を見てここはもういいよと言えば、礼を口にして紅茶のセットを食卓に持っていった。カップはふたつあった、そこで話を聞かせてくれるのかもしれない。
悩む時間が必要なのかどうかわからないけれど、片付けは少しゆっくりにしよう。
ファウストがいれてくれた紅茶に木苺のジャムを入れれば、ほのかに甘酸っぱい風味のフレーバーティーとなった。
紅茶にも合うなと称えれば、そうだねと笑ったファウストはじっくりと味わったあと、カップをソーサーにことりと置く。
話してくれるようだとネロもそれに倣い、頬杖をついてゆっくりでいいよと向かいの人が口を開くのを待った。
「前から、考えていたんだけど」
「うん」
「僕は、この谷を出た方がいいのだろうか」
「…うん?!」
想定外の台詞にずるりと手から顎が落ちた。冷静にカップを退避させたファウストに、それどころじゃないと慌てて詰め寄った。
「え、なに、なんで?!」
「落ち着いてくれ。相談しようと思っていたから…聞いてくれる?」
「あ、うん。それはもちろん」
むしろ聞かせてくれと真剣に話を聞く態勢をとった。それを見たファウストが退避させていたカップをすっと戻してくれる。
任務にかかわることは別として、基本的に一人で決めて一人で実行する人だ。そんな人が相談をしたいとはっきり言うだなんて、只事ではないと思った。
ネロの真剣な様子に、ファウストはありがとうと小さく笑う。
「この場所は、人目を避けた魔法使いたちが住まう谷だ」
「うん、隠れ家にぴったりだよな。居心地いいよ」
「僕もその一人だというのに、ここ最近は頻繁に人を連れてきてしまっている」
「あー…なるほど」
ファウストの気掛かりが、早々に理解できた気がする。
この谷は他者と関りを持ちたくない魔法使いたちが、一人きりでにひっそりと暮らしている場所だ。住人同士で関心も交流も持たず、けれど距離を保ち続けるためにささやかに気遣いあって。
そんな繊細さで成り立っているこの地は、ネロにとっても居心地がいい雰囲気があった。人恋しさを捨てきれないから、住処を構えることはできないだろうけれど。
人に関わりたくなくてこの地にいて、隣人にも関心はない。けれどきっと、一人きりの隣人が一人ではなくなったならば、ほんの僅か心がざわつくかもしれない。そのざわつきを感じずに過ごすために、この谷に隠棲しているというのに。
「先生が気にする理由がよくわかったよ。東の国が住みやすい連中には理解できる感覚だと思う」
「だろうね」
「決して集団ではないけれど、周りのやつらも一人きりだと分かっているからこその安寧ってのがあって…それなのに一人だった隣人に親しい相手ができたら、変に心がざわつく奴もいるのかも」
「正直僕自身はあまり実感はないんだけど、最近そういう懸念がわいてきた」
「だって先生はメンタルめちゃ強だもん」
繊細な魔法使いとは実は相性が悪そう。そう冗談交じりに嘆息すれば、むっとした顔をする。
多分本当に実感はないのだろう、この人は確固たる意思で一人を選んでいて、他者の介在を望んでいないし必要としていない。けれど隣人の心境を想像して気遣いを向けることが出来る、そんな生来の優しさが、少しだけ眩しい。
こんなに在り方がうつくしい人なのだ、土地に気に入られ土地を気に入っている、相思相愛な住処を出ていくような状況にはさせたくなかった。相談という形をとってくれているのだからと、説得のようなものを試みてみる。
「そこはほら、賢者の魔法使いとして大目に見てもらう…ってのは無し?」
「大目に見るとか、そういう問題?」
「誰かと繋がりを持つことになった明白な理由があれば、きっと心の軋みが軽くなるから」
「そういうものか」
ネロの意見を参考にしてくれようとしているファウストに、説得だなんだの意図があるくせにそれはそれで重いかなとちらりと思ってしまった。本当に中途半端な奴だよと自嘲しつつ、それでもあんたはここにいていいと思うよという本心を伝える。
ネロの考えは受け入れてくれたようだが、ファウストはまだ煮え切らない。どうやらほかにも懸念事項があるらしい。
「周りの心情に実感はないからね、見当違いかもしれないが。きみの言う通り、役目の延長線上として賢者やヒースやシノが来るのは、まぁ構わないんじゃないかと思っている」
「え、そうなの?」
「別に歓迎しているわけじゃないが」
「はいはい。だったら何が気になってんの」
「…賢者の魔法使いとしての立場で、気にしているわけではなくて…」
急にまた歯切れが悪くなって、どうしたんだと首を傾げる。
ちらりとネロを見たファウストは少し気まずそうで、それよりもネロの困惑した顔がおかしくなったようだ。
「珍しく察しが悪いな」
「ごめん、全然わかんない」
「…こう、ね。嵐の谷できみとこうして2人で、朝を迎えているこの状況は…賢者の魔法使いとしてではなくて、つまり」
「?」
「自分の男を、住処に連れ込んでいるという事だから」
「…は?!」
目も口も思い切りぽかんと開いてしまった。
すごい単語が聞こえた気がする。普段の厳格さというか生真面目さというか、ギャップが凄すぎて理解が追い付かない。
ただ、気まずさの中に恥じらいを滲ませて、目を伏せたファウストを見ているうちに…じわじわじわとしてきた。
無言のまま片手で口元を覆うと、ファウストが恨めしそうにちらりと目を向けてきた。
「なんとか言いなよ」
「や、ごめん、ちょっと待って」
「…もう」
ネロの狼狽え具合にむしろ余裕が出てきたらしい。まだ照れくさそうに目を細めながらも、ほのかに悪戯な笑みを浮かべ、ファウストは優雅な仕草で紅茶のカップに指をかけた。
確かに今ここに、嵐の谷のファウストの家にネロがいるのは、賢者の魔法使いの仲間としてではない。
明確に、恋人としてこの地で朝を迎えている。
『自分の男を住処に連れ込んでいる』という台詞はまさしくそのとおりなのだが…まさかそんな言葉がこの人の口から出てくるとは思わなかった。
顕わにしてしまったネロの動揺をじっくりと観察しているファウストは、すでに平静に戻ったようだ。それを見て俺も落ち着かなければと、ほんとこのたまにある爆弾発言がたまんねぇなと一度深々と息を吐いて、ファウストの懸念を反芻する。
賢者の魔法使いの役目の一環として訪問ならば、ファウストとしても周りに過剰な気を遣う必要はないと考えているらしい。問題としているのはそこではなくて…要はネロだけのようだ。
「いや、でもさ、俺だけがお邪魔してる今の状況も、周りから見たら任務での訪問と変わらなくない?」
「言わなければわからない。それはわかっているんだけどね」
「自分の心情的な問題?」
「そういうことになるのかな。物理的な孤独を心の安寧としている者たちの住処で、僕もその環境に癒されてきた一人だから」
400年の感謝と親愛を声音に滲ませたファウストは、すっとまっすぐな眼差しをネロに向けた。
「僕は、きみに想いを向けてしまった。きみもそれを返してくれた。そうやって心を繋いでいる相手をこの地に連れてくることは、なんだろう…誠意がない?少し違うか」
どんな言葉が適切だろう?と尋ねてくるファウストに答える余裕はなかった。
無言で身悶えるネロに、ファウストは首を傾げた。
「なに?」
「なにじゃないって…いきなりそんな、告られたようなもんじゃん…」
「は?今更だろう。何をそんなに照れているの」
くすくすと笑うファウストはいつもどおりで、本当にこういうところが強いよなと熱い頬を冷ますようにぱたぱたと手で扇いだ。さっきからやられっぱなしだ。
まっすぐな言葉に怯える気持ちは今でもある。逃げ出したいとさえ思う。けれど…自分の中からどうしたって消える気がしないこの人への感情を誤魔化さないと、すでに腹は括っているのだ。
はぁとひとつ息を吐き、ネロの答えを待っているファウストに真正面から向き合った。
「のらりくらりしていい事じゃないってのはわかるよ。この谷で生きていくための、たぶんすごく重要事案」
「うん」
「その上で、あえて言う。俺は今のままでいいと思う」
「…嵐の谷を辞す必要はない?」
「先生がここを離れるのは絶対違うよ。どうしても気になるなら俺が…恋人としての立場で来るのを止めればいいってだけの話だし」
きっと今後も任務や授業に託けて谷を訪れる機会はあるだろう。それに対しては心理的瑕疵は少ないようだから、今後一切立ち入り禁止ということにはならなそうだ。
それならば今のような、恋人としての訪問を控えればいい。それで解決なはず。けれどネロはずるい魔法使いだから、自分の望みを叶えたくなる。
「あんたも、この時間が嫌いじゃないだろ?」
「うん、好きだよ、とても」
あーもーまた素直、そういうとこだよ先生と口元を緩ませて、テーブルに置かれた細身の手にそっと自分の手を重ねた。
「2人だけでここに来て、家のことして畑とか森とか見て回って、ゆっくり晩酌して、そんでたっぷり体を触りあって、くっついて眠って、朝の光で目が覚めてベッドの中で目を合わせて、一緒に朝の支度をして。そんな時間が俺も好きだよ、ファウスト」
じっと目を見ながら言えば、紫の瞳が少し揺れる。口が小さく開いて、けれど何も言わずに俯いた。その動きで流れた柔らかなブラウンに、照れさせられたと満足したのもつかの間、手に力が入りすぎと笑われる。
格好つかねぇなと苦笑して、テーブルの上でどちらからともなく指を絡ませあった。
多分嵐の谷を出たほうがいいだろうかという悩みは本気で、けれどこの時間を諦めがたいと思っているのも確かだろう。
だからいつもどおりとっとと自分で決めずに、ネロに話を振ってきたのだ。どんな言葉が欲しかったのかファウスト自身もわかっていないようで、受け入れるかどうかまだ少し戸惑いが見えるけれど。
「黙っていれば役目の一環と解釈される、か」
「そうそう」
「不誠実だな」
「そんな在り方はあんたらしくない?」
「いや…黙っていれば心が軋む事がないならば、その方が配慮となるとは知っている」
ひとえに己の気持ちの問題だと迷うファウストの手を、ぎゅっと握った。
「俺のためにずるくなってよ、ファウスト」
「…とんだ殺し文句だな」
自分を理由にしてくれなんて、照れくさい以上に重ったるいなと思うけれど、それを使っていいと思うぐらいの望みだから。それがわからない筈がないファウストは、最後まで迷いながらもこくりと頷いた。
「ひとまず、現状維持…かな」
「うんうんそうしよ」
「そんな食い気味に」
「だってこんないい場所にしけこめるのにさぁ、簡単には手放しがたいって」
「人の家をなんだと思っている」
このやろうとぎりぎり力を込めてくる手は、それなりに痛いので本気を出しているようだが、その表情は柔らかい。ネロがわざとこんな物言いをしていると分かっているのだろう。
周りから見れば実態なんて分からないんだから、役目に付随した訪問と同じ。騙しているような心苦しさが捨てきれないならば、共犯がいるとでも思ってくれ。
それが何になるんだとは思うが、ファウストが呑込めたならそれでいい。
そう願いながら無言で向かいの人の顔を見ていると、ふっと肩の力が抜けたのが分かった。どうやらやっと、ひとつの結論を得られたようだ。
あーよかったと珍しく言葉を尽くしたこちらも脱力して、それと同時にふと浮かんだことがあった。
「そもそも他の魔法使いたちは、先生が賢者の魔法使いだって知ってんの?」
「察してはいると思う。前回ほど強力ではなかった厄災との戦いであっても、帰還して数日は谷の精霊たちが落ち着かないから」
厄災に近づいた存在が嵐の谷に入ると、暫くの間谷の精霊たちがさんざめくらしい。
毎年同じ時期に巻き起こるその騒がしさによって、谷に住まう誰かが賢者の魔法使いに選ばれていると察してはいるだろうとファウストは言う。
「最近の頻繁な人の出入りは、前回の厄災の異常さ故だと認識してくれてはいるんじゃないかな」
「そういう解釈してくれてんなら助かるな」
「まぁ、やっぱり無遠慮に人を入れている申し訳なさもあるんだが…今更だが、せめて隣人にはひとこと言っておいたほうがいいのかな」
今後も騒がしくなるし、詫びとして。そう言いつつ、さすがのファウストも躊躇う気持ちがあるようだ。互いに干渉は望んでいないことも分かっているし、今まで一切関わりを持ってこなかったのに、今更接触しては負担でしかないのではないかと。
そこに関しては住民ではないネロが口出し出来ることじゃない気がして黙っていると、足元で寛いでいた猫たちが突然ぴょんと机に乗ってきた。
白と黒の猫がくるくる回るように何度かファウストとネロにすり寄って、重ねたままだったふたりの手に鼻先を押し当てにゃん!と機嫌よく鳴いた後、窓からぴょんと飛び出して行った。
何事?とぽかんとしていると、突然ファウストが「あ!」と大きな声を出して勢いよく立ち上がった。手をつないだままだったから思い切り腕を引かれた形になって、うおっと慌てて立ち上がった。
「ファウスト、なに、どしたの」
「あの子たち、たぶん山向こうの魔法使いのもとへ行った」
「へ?」
「伝言をしに行ったんだと思う、いま話していたこと」
大いに焦っているファウストは、決心がつかないまま自分に近しいとわかるであろう精霊が接触してしまうことも、それに加えてどこまで暴露されてしまうのかが心配なのだろう。断りを入れるにしても賢者の魔法使いとしての云々だけのつもりだった。でももし猫たちが恋人云々のことも伝えてしまったら。
目も当てられないと狼狽えるファウスト程じゃないにしても、それは困ったなとネロも思ってはいる。同時に大丈夫じゃないかなと楽観した気持ちもあった。
「あいつらなら大丈夫だろ。先生が困るようなことしなそうだし」
「結構悪戯好きな子たちだけれど?」
「はは、それもそうだね。ま、もうなるようにしかならないでしょ」
「他人事だと思って…」
「いや、当事者でしょ」
こういう仲だし?と繋いだ手を引き寄せる。腰を回して密着すれば、近い位置にある紫の瞳が瞬いた。そして差し込んだのは甘い気配…ではなくて呆れの色で、ありゃ失敗とネロは笑った。
「人が真剣に悩んでいるというのに」
「俺だって真剣に大丈夫だって思っているよ」
「なんで」
「あいつらも、あんたにここにいて欲しいだろうからさ」
あの猫の姿をした精霊たちは、第三者の魔法使い視点として見ても、ファウストのことを相当気に入っている。だからこの真面目で律儀で優しい魔法使いが土地を離れかねない状況には持っていかないだろう。
それがわからないファウストではないと思うが、いきなりの事態にどうしても混乱してしまったようだ。なんだかそんな先生が可愛くて、大丈夫大丈夫と手を繋いだままもう片方の手で背中を撫でた。
そのうちに、とんと肩に額を寄せてきた。ふわふわの髪にすりと擦り寄れば、ふふと小さな笑い声が体に響くように聞こえる。
「あやされている気分」
「はは、自分で言っちゃう?」
「ん、ありがとう」
腕を撫でるようにしながらネロの肩に手を置いたファウストは、顔を上げた。
紫の瞳に、今度こそ甘やかな色が滲んでいる。繋いだ手にぎゅっと力を込めて、腰を引き寄せ肩を抱いて、柔らかく唇を重ねた。
いつか役目を終えたとして、百合の紋章の繋がりが消えたとして、それでも俺はこの地に足を運べるのだろうか。この人の隣にいようとするのだろうか。
約束なんて出来る筈がない。先のことを考えるつもりもない。それでも確かなことは、今この瞬間が幸せであるということ。その事だけ心がちゃんと認めていれば、それでいい。
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