嵐の谷にネロと二人で来ていた時の事だ。長椅子で寛いでいたネロが、そう言えばと何とはなしに訊ねてきた。
「今もそうだけど、先生は一人掛けのソファにいる方が多いよな」
「うん、そうだね」
「こっちの長椅子は来客用?」
「まさか。呪い屋に招く客などいない」
何を言っていると鼻で笑ってやれば、そりゃそうかとネロはあっさり頷いた。そして左右から膝に頭を乗せている猫達の額を撫でた。
「こいつら用?」
「まぁ、しょっちゅう寛いでいるけれど」
今もまさにとネロの指ににゃあと甘えた声で鳴き、白猫はぐぐとネロの膝に腕を伸ばし爪を軽く引っ掻けて、黒猫は腹を見せてうねうねとする。かわいいとでれでれなネロごとかわいいと満喫しつつ、ファウストは質問に答えることにした。
「ただ単に僕が寝転んでだらける用。本を読むのに丁度いい」
「お、いいね」
確かに丁度良さそうと納得したネロは、そのままの流れでねだってきた。
「ね、俺も寝転んでみてもいい?」
「ふふ···さっきのこの子達みたいな声をしている」
かわいいと目を細めて、いいよと頷いた。断りを入れる必要もないと双方認識しているだろうが、おねだりの声が可愛かったからなんとなく特をした気分だ。
ファウストの満悦具合が分かっているのだろう、気恥ずかしそうにしつつも、いそいそと靴を脱いだネロはよじ登った猫達を抱えごろりと寝転んだ。
クッションを使いつつ収まりのいい場所を探してもぞもぞとしている。足の置き位置まで落ち着いた頃、今度は猫達がネロの上で収まりのいい場所を探し始めた。白猫に脇腹を捏ねられてそこはダメだと笑い、黒猫には首に腹を乗せられて、やっぱりくすぐったいとネロは楽しそうだ。
「もふもふやばい」
「重くはない?」
「全然。ぬくくていいや」
「ふふ、そう」
いい光景だと眺めていると、黒いもふもふの奥から見えた青と茶の瞳と目が合った。穏やかな眼差しに、どうやらお気に召したようだとちょっと嬉しい。
「寝心地いいね」
「それならばよかったけれど」
「ん?」
「僕が寝転んだ時よりも、なんだか窮屈そうにも見える」
「気のせいじゃね?でも、この狭さがいい感じ」
本格的に寛ぐことにしたようだ、だらりと脱力したネロを暫し眺め、緩んだ頬を自覚しながらファウストは立ち上がる。白と黒と水色の頭を順に撫でて、ファウストは本棚へと歩を進めた。かわいいが全部乗せの光景を視界の端に収めながら読書をしたい、そんな気分になったのだ。
ついでに濃い紅茶を淹れ、魔法で作った氷を満たしたグラスに注ぎアイスティーを作った。本を左手に持ち、グラスふたつを乗せた盆を右手のひらに置いて居間へと戻る。グラスにはストローを差しており、寝転んだまま飲めるだろうという配慮と眺めたい光景を維持するための手段であったが、残念ながら猫達はすでにネロの上から退いていた。
軽い身となったネロがクッションに沈んで寛いでいたが、ファウストが持ってきたグラスを見て身を起こそうとする。それを制止してローテーブルに盆を置けば、ストローに目をとめちょっと苦笑混じりの表情を浮かべる。ファウストの思案がわかったのだろう、それでもただ礼を伝えてくれたネロによろしいと頷いた。
さて、と本もテーブルに置きつつ向き直ったのは、先程までファウストが座っていた一人掛けのソファだ。
「猫らしい行動ではあるけれど」
「にゃ」
「どいてくれる?」
「ぅにゃん!」
いや!と元気よく言われた気がした。座面を占領した白黒猫たちは、得意気に尻尾をゆらゆらとさせている。
まったく···と溜め息を吐きながらも頬が緩んだままの自覚はある。抱き上げられるためにわざと邪魔をする、そんないつもの行動だと思ったのだ。
抱えて僕が座って白黒を膝に乗せて本を開いて。それとも今日はネロの上に戻そうかななんて、どちらにせよ望むところな状況だったが、腕を伸ばす前にネロに止められた。
「せんせ、ちょっと待って」
「なに?」
「どかす必要なくね?」
「なんで。きみは寝転んだままでいて欲しいけれど、そうなると僕の座る場所がない」
「うん、だからここ」
「ここ、って」
ソファに伸ばした足の軽く広げた膝の間、そこを指し示すネロに唖然としてしまう。冗談かと思ったが、それ以上の言葉はない。ファウストは大いに戸惑った。
「な、なんで」
「んー?いちゃいちゃしたいので?」
気負いない口調で、ネロはあっさりと言う。照れも見えずさも当たり前のように、そんなネロの態度にそういうものなのかとすんなり思ってしまったのは、ある意味で刷り込みなのかもしれない。
恋人との過ごし方を知らないから、軽い触れ合いひとつもファウストにとっては驚きと戸惑いが伴うもので。でもネロが教えてくれるそれらは嫌なことではけしてないから、いちゃいちゃしたいなんてはっきり言われると、ついふらふらと近寄ってしまった。
おずおずと示された足の間に腰を落とせば、「ん」と腕を広げられる。抗えない誘いに、横たわったネロの体に身を寄せた。よくできましたなんてほめるようなからかいのようなことを言われて緩く腕を回されて、小さく息が乱れてきゅうと心が疼く。
これ以上に触れられるのだろうかとちらりと頭の隅に過ったが、今は違うのだろうともわかった。こういう接触の方がまだ慣れていないと少しだけ体を小さくして、感情の凪が訪れるのを待った。
ただくっついていることの高鳴りを自然と受け入れられるようになった頃、ファウストは寄せていた胸から頭を上げてネロと目を合わせた。
至近距離の顔にまた少しきゅうとして、けれど言葉を失うほどじゃないと我ながら可愛げのない主張を訴える。
「本を読みたいのだけれど」
「このまま読めばいいじゃん?」
「···このまま?」
「そ、このまま」
ネロの指先がついと呼んだ本がファウストの手元にふわり届いた。何がなんだかわからないうちに受け取って、本の重さが手の中にあると認識するとそのうちに不思議とおかしくなって、ふふと笑いようやくと力を抜いた。
「こんな狭いスペースでわざわざ、とは思うのだけれど」
「だから良いんだよ。俺も適当に本を借りてもいい?」
「いいよ」
本棚の場所はわかっているし、具体的なタイトルも浮かんでいたのだろう。問題なく呼び寄せた本は植物の本で、薬草類の勉強ではなく食材になるものを眺めようとしているとわかる。魔法で浮かせながら本を開いたネロに、本当にこのまま寛ぐらしいと伝わってきた。
きっとネロは、やっぱり狭いとファウストが退いても気にしないだろう。慣れないし落ち着かないし、どうしようか迷っていたのは事実だ。でも、ぬくい体温から離れるのはなんだか惜しい気がして···結局ファウストも、靴を床に落とした。
本を抱えたままネロに凭れてもぞもぞと動き、居心地のいい角度を探してみる。仰向けになって膝を曲げてみたり、足を肘置きに上げてみたり、なんだか違う気がして横向きになって、軽く丸まるようにして落ち着いた。
ちらりとネロの方を見れば、緩い笑みを向けれた。口を開きかけて、けれど出てくる言葉はなく多分ぎこちなくなっているであろう笑みを返し、目をそらして魔法で補助しながら両手で本を開いてみる。
読みづらいけど、読めなくはない。無意識に活字を追い始めれば、ネロは一度引いていた腕をファウストに緩く回してきた。こうしてくれるつもりだったから本を浮かせているのかと胸が甘く疼いて、それも心地よいと狭いソファの上で緩く足を絡ませた。
他人と接触したまま、しかもそれが感情をさざめかせる相手で、本に集中なんて出来ないと思った。実際最初は文字が頭に入ってこなくて、いっそネロに引っ付いていること自体を楽しもうかと開き直りつつあった。何かしらの作業をしつつ他のことを考えるのも一種の醍醐味だと知っているし。
それでも徐々に慣れてくるもので、最終的には案外としっかり本を読むことが出来たと思う。術式に特化した本で、次の授業で使えそうだという目星も付けられた。狭い空間というものは集中力を高める効果もあって、もしかしたら狭いソファに引っ付いているこの状態も同じような認識をしているかもしれない。
それに、何よりネロの体温が心地良い。窓から入ってくる昼下がりの風も気持ちよくて、時折カランとなるグラスの氷の音も耳に優しかった。結局は僕も行儀悪く寝転んでいるわけで、どちらのグラスにもストローを差してきて正解だったなと本の先にあるふたつのアイスティーを見て目を細めた。
思いの外整った読書環境に、この調子で別の本も読んでみようかと乗り気になっていたのは確かだった。それでも訪れてしまうのが眠気というものなのだろう。
ぬくいものにくっついていれば尚更とファウストは潔く本を閉じた。魔法で浮かせてローテーブルに置いて、身を起こそうとするがネロの手に阻まれる。
察しのいい男だ、本を閉じた時点でファウストがどうしたいかわかっているはずで、だから腕を外さないのは戯れだと思った。まったく···と頬を緩めながらぽんぽんと腕を撫でる。
「ネロ、腕をどけて」
「んー?」
「眠くなってきた。寝室に行きたい」
「なんで?」
「なんでって」
ちょっとしつこいと抗議がてら上を向けば、思いがけず優しい瞳と目があった。息を飲むファウストの髪に指を絡ませて、柔らかい声音でネロが言う。
「このまま昼寝すればいいじゃん」
「え?」
「魔法舎じゃないんだからさ、どこで寝てもいいだろ」
咄嗟に否定の言葉が出かかって、ファウストは言い淀んだ。何故この場で眠れないと思った?言うまでもなく厄災の傷が理由で、けれどネロは溢れる夢のことを知っている。ならばこの場でいいのだろうかと思いつつ、わざわざここで寝なくてもという躊躇いが捨てきれない。
厄災の傷を負う以前は確かに、この長椅子で昼寝をすることはよくあった。けれど今は睡眠に問題があるからと、例えひとりで谷に戻っていてもどの時間帯であれ眠る時は必ずベッドに潜っている。結界を張る必要がない状況であっても寝室へ、それが最早習慣になっていたことに今更気付いた。
ファウストの戸惑いが伝わっているのだろう、それでも口調は変えず、ネロはのんびりという。
「居眠りってさ、なんかやけに気持ちいじゃん」
「それは···」
「夢のことだけが理由なら、今は考えなくていいだろ。このままだらけて寝ちまえって」
ネロの指がファウストの目尻を撫でた。優しくて、離れがたいような気がして、自然と体の力が抜けてしまう。甘やかすのが上手すぎて、今この時はそれを拒む理由も見当たらなくて、ネロの誘惑をいつの間にか受け入れた。
「これも、きみの言ういちゃいちゃってやつの延長線?」
「はは、そうそう」
「なら···僕もネロに、くっついていたい気がする」
小さな声で言って少し恥ずかしくなって肩を竦めれば、可愛いと髪に唇を落とされる。甘くて優しくて少し怖くなって、でも今はその怖さごと抱えていたいと、すりと緩く額を擦り寄せた。
暖かな体温と安心する匂いと、胸に寄せた耳に届く鼓動と。心を緩め身を預けてしまえば、眠りの端緒がすぐそこにある。髪をすく指と背を撫でる手のひらに誘われて、ファウストはうとうとと微睡み目を閉じた。
ファウストが眠りに落ちてから暫く経つと、一人掛けの方にいた白黒猫達がソファの背凭れを歩いてきた。
浮かせていた本をローテーブルへと退かしてやれば、ファウストを覗き込むような仕草を見せる。人差し指を唇の前で立てたネロに音のないにゃあで了承をした猫達は、背凭れの上で宝箱に座りゴロゴロと喉を鳴らす。
そしてついでとでも言うように、尻尾でネロの頭をぱしぱしとはたいてきた。多分褒められているのだろうが、なんとも偉そうである。この猫の姿をした精霊たちには、時々ネロに対してこういうところがある。悪くはないけれど。
ファウストは厄災の傷を負ってから、うたた寝というものをしていないんだろうなと思っていた。夜の睡眠ではないのだ、生きる上で必須なものではないし、それならそれで構わないとファウスト自身は考えているのだろう。
それでもネロは、昼寝から目覚めた時にファウストが隣にいるとほわりと心がぬくまることを知っている。たとえば風の気持ちいい木陰、並んで隣同士無言のまま時を共有して、うっかりと寝落ちても隣に居続けてくれたファウストの、ぼんやりとした視界の中で見上げた微笑みに出会えた時とか。なんてことはない日常で、けれど贅沢な時間だなと思うのだ。
ファウストも同じように感じてくれるのかなと、いつかの機会があればいいと思っていた。機を伺っていたという程ではなく、それが今日になるとは考えもしなかった。
ただ、どうやら猫達もネロと同じような事を望んでいたらしい。自分の家なのにだらけるファウストを暫く見ていない、それが面白くなかったようだ。
だから元々ファウストが座っていたソファを横取りしたりとネロの思惑に積極的で、結果ファウストを微睡みに誘い込めたネロを褒めているわけだ。
白黒猫達はファウストが眠っていることを確認して満足したらしい、一人掛けのソファに戻っていった。ファウストの上に乗っても良かったのになんて思ったが、まだ眠りの浅い場所にいるだろうから猫達の判断の方が懸命だ。
あんたひとり分の重さなら余裕だねと軽く抱え直すと、ネロのシャツをきゅっと掴んできた。可愛すぎだろとにやけて、その手の甲を緩く撫でた。
寄り掛かっていいよと言ったのはネロのくせに、俺なんかにこんな無防備でいいのかよと思ったりもする。けれどネロの中にあるひとつの欲が叶っているという自覚はあった。
存分に甘やかしたい、それを受け入れてくれた事への充足感が堪らない。癖になりそうなんて思いつつ、ファウストも同じぐらい甘やかしてくれるしなぁなんて言い訳じみた事を考えてみる。
依存することもされることも望んでいないくせに、行動が矛盾している事はわかっている。けれどどんなに甘やかしたって、この人なら大丈夫だろうなぁというずいぶんと自分勝手な安心感を持っていた。それぐらい確固たる個がある人なのだ、からっぽなネロには眩しい程に。
そんな人なのに、いちゃいちゃしたいと誘えば大抵素直に聞いてくれちゃうってやばいよな。格好いいところもぐっとくるけれど、そういう慣れてないところも堪らなくかわいい。気恥ずかしさを押し殺してでもはっきりと言葉にする甲斐があった。まぁ、付け込んでいるというかなんというか、狡さがあることは否定しない。
なんて取り留めなく浮かんでも、なんだかんだで一番にあるのは、こうやってうたた寝が出来て良かったなという純な慮りだった。
任務も何もない日の昼下がりとかはたまた座学の最中とか、昼寝だったり居眠りだったり、しっかりとした睡眠ではない微睡みに名状しがたい気持ちよさがある事をこの人も知っていたはずだ。
それを久方ぶりに享受できるきっかけにネロがなれたのならば、それはとても嬉しいことだと思う。
きゅうきゅうと心が疼いて、同時に気後れもあって、すべて引っ括めて穏やかな感情でいられるこの時間は得難いものだと、暖かな体温と確かな重さを感じながら噛み締めた。
ふと耳に届いた、カランという音に少しはっとした。
ストローが刺さったふたつのグラスがそこにあって、ガラスの向こうに部屋の調度が歪んで見える。ほんの僅か残っていたアイスティーは、氷で薄まっていることだろう。今しがた聞こえた音は、溶けきる直前のものだったのかもしれない。
涼やかな音の残響が去った後、ネロの耳を占有するのは、ファウストの穏やかな寝息とトクトクと鳴る心臓の響きだけだ。
柔らかな髪をすいて、睫毛の影を眺める。
目覚めた時、どんな表情でネロを見てくれるのだろうか。ぼんやりとしていたらかわいいし、はにかんでくれたら嬉しい。
早く紫色を向けてほしい、でも穏やかなうたた寝を堪能してほしい。ゆらゆらする気持ちごと楽しんで、溢れるかもしれない夢を見ないようにと、緩く目蓋を降ろし微睡みに寄り添う。狭いソファに詰め込んだ、なんでもない日の昼下がりだった。