大事にするから大事にして「ごちそうさま、ネロ。今日の夕飯も美味かった」
「そりゃどうも」
いつもの無表情であっても、心からの賛辞であるとわかるレノックスの礼に応えつつ、使った皿はそっちと指示をした。
数人分をまとめて持ってきたらしい、両手に積まれた食器を危なげなく指定した場所に置いてくれた。人数が人数なので流し台には入りきらないため、一度作業台のあけたスペースに置くようにしている。
「手伝ってもいいか」と聞かれたので、「じゃ、お願いしようかね」と甘えることにした。一人のほうが気楽だからと断ることが多いが、こういうさり気無い聞き方をされると甘えさせてもらおうかなという気持ちになるのだからさすがはレノックスだ。
黙々と片付けをしているとおこちゃまたちが集団でやって来て、手伝いをするレノックスにいいないいなと一頻り騒いで去っていった。なんだいいなってと笑っていると、また一人食べ終わった魔法使いが入ってくる。振り向けばそこにいたのはファウストで、並んだネロとレノックスを交互に眺めてきた。
「珍しいな」
「羊飼いくんにはよく手伝ってもらってるよ」
「子供たちに羨ましがられてしまいました」
「そう」
目に見えるようだと頬を緩ませたファウストは、持ってきた食器を暫定置き場に置こうとしたが、もう数も少ないし直接頂戴と振り返って手を伸ばした。
ありがとうと手渡してくれたファウストは、ほかに手伝えることはないかとネロたちの周囲を窺い、なさそうだとあっさり引き下がった。気を遣わなくていいこの塩梅がちょうどいい。
「コーヒーを部屋に持っていきたい。ポットを借りても?」
「はいよ」
「···ファウスト様」
「純粋に飲みたいだけだよ。いちいち深刻になるんじゃない、レノックス」
叱るように言ったファウストに、レノックスはほっと息を吐いた。コーヒーを眠りたくない夜の供にしていた頃を思い出したのだろう、元主君にそうではないと断言されて、元従者君も受け入れたようだ。
相変わらずだねと苦笑して、手に持った食器がレノックスに当たらないように振り向こうとしたが、目測を誤って若干よろけてしまった。それを見たレノックスが、ファウストに向けたものと同じ雰囲気のまま気遣わしげに声をかけてくれる。
「大丈夫か?」
「やー恥ずかしいから流してくんない?」
「それもそうか、悪かった」
いや詫びなんていらないけどと今度は自嘲気味に苦笑して、けれどまだちらりとネロの足を気にするレノックスに首を傾げた。
「なに?」
「昨晩壁にぶつからなかったか?足だったのかと思って」
「あ、そっちまで響いてた?ごめんね、寝相悪くて」
「その影響じゃないならいいんだが」
「違う違う。今のはほんと、どじっただけ」
だからもういじらないでよとお願いすれば、そんなつもりはなかったんだがと言いながら納得してくれたらしい。
話が終わったタイミングを見計らったように、後ろでコーヒーをいれていたファウストが声をかけてきた。
「きみたちの分もいれた。保温の魔法をかけてあるから、片付けが終わった後にでも飲むといい」
「お心遣いありがとうございます、ファウスト様」
「ありがとな、先生。あ、今日の授業の内容で聞きたいことがあんだけど、あとで部屋に行ってもいい?」
「珍しく真面目だな」
わかったと了承してくれたファウストは、ポットを持ってキッチンから出て行った。
その後しばらくは無言のまま皿洗いを続け、どこまでわかってんのかねとネロはちらりと目だけを隣に向けた。それに気付いたレノックスもこちらをちらりと見て、そして少し首を傾げる。
「ちょっと、意地悪だっただろうか」
「それどっちに対してよ」
「どちらだろう」
うーんといつもどおりの泰然とした雰囲気で悩むレノックスに、意外といい性格をしてるよなと笑って、最後の皿を洗い切った。
通いなれた部屋の扉を叩いて名乗れば、人影なくかちゃりと開く。後ろ手に扉を閉めながら指先に魔力を集めて施錠を強化し、ネロは机に突っ伏した人に近づいた。
「せんせ?大丈夫?」
「···だいじょうぶじゃない」
「はは、素直じゃん」
机の下から背もたれのない椅子を引っ張り出して、隣に腰かけた。突っ伏したファウストに付き合うように腕を枕に眺めていると、隙間からちらりと目が合った。
何も言わず、ファウストからの反応を待つ。緩んだ顔になっているであろうネロに暫く目を向けて、ぐずるように腕に額を擦り付けた後、ファウストはのろのろと上体を起こした。
それでも顔を上げ切ることができないらしい。組んだ手に額を置いて俯いたファウストを、頬杖をついてじっくりと眺める。それが気に食わなかったのか、ぎろりと睨まれた。
「見世物じゃない」
「やーこういうファウスト珍しいし、ちょっと楽しい」
「ひどい男だな、くそ」
悪態をつく東の先生は、けれどそれよりネロに聞きたいことがあるらしい。そわそわしているファウストにあえてこちらからは話を向けず、なに?とわざとらしく首を傾げた。ネロのからかいの姿勢がわかっているファウストは、あとで覚えておけよと悪態をつきつつおそるおそるというように口を開く。
「その···レ、レノックスは···」
「察してたっぽい」
「···!!」
がんっと殴られたようなファウストは大いに呻いて大混乱だ。ほんと面白れぇ反応すんねと存分に眺めさせてもらう。こんなファウストは滅多に見れるもんじゃない、いい感じにつついてくれたよな羊飼いくんと心の中で礼を言っておく。
いつもであればそんなネロのにやけ顔に文句の一つも言ってくるファウストは、しかし今は何かを気にする余裕はないらしい。
「その···ど、どこまで···」
「さあ、どうだろう。はっきりとは言ってなかったよ」
「それなら、」
「でも、意地悪しちまったかもって気にしてた」
「···!!」
「落ち着きなって。面白いなぁもう」
せっかく退避させていた眼鏡をなぜか握りつぶそうとしたものだから、代わりにこっちと手を握ってやる。ぎゅうぎゅうと遠慮のない力で掴んできてそれなりに痛いが、笑いながらあやすように握り返し、落ち着きのない瞳を覗き込んだ。
「ま、羊飼いくんはそれ以上何も言ってこなかったよ。皿洗いの後に、あんたのいれてくれたコーヒーを一緒に飲んでた時も話したのは大体おこちゃまたちの事だったし」
「え···あ、」
ぴしりと固まり、それまでとはまた違う狼狽え方をしだしたファウストにどうしたよと首をかしげる。
「ファウスト?」
「コーヒー、その、ごめん」
「え?なんで謝んの。おいしかったよ?」
「僕がふたりの分を用意してしまったから、その場から離れられなかっただろう」
気まずい何かの後で相手と顔を合わせ続けなければならない状況を作ってしまった、すまない。申し訳なさそうなファウストに、その気の回し方は理解できるけれどとネロは笑って見せた。
「気にすんなって」
「でも···」
「こういうの、俺は平気な方だしさ」
そりゃ早々に撤退できるに越したことはないが、及び腰になるほど若くもない。ファウストだって同じはずで、というかいつもであればネロよりもずっと平然としているだろう。けれど、やはり例外というものはあるようだ。
ちょっと力のこもった指先がかわいいと思いながら、情けなく眉をさげたその表情をじっくりと眺めた。
「レノはだめだ、レノは···」
「そっか」
「い、今までも、もしかして」
「や、ちゃんと防音壁とかは張れてたって。今回は思い切り壁を蹴っちまったからだろ?ファウストがさ」
うっかり付け足してしまって、あ···と思った時にはもう遅かった。座ったまま思い切り足を踏まれて、いった!と飛び上がった拍子に離れそうになった手が、打って変わった丁寧さで握り直される。思わずの行動だと顔に出ていたが、それでもその手が離されることはなかった。
料理人だからと手を大切にしてくれているからこそ、足に八つ当たりをしてきたその行動含めて、変な具合にきゅんとしてしまってどうしようもない。しかし足はじんじんとしている。
「先生容赦なさすぎ!」
「やかましい。意地が悪いことを言うなバカ」
ネロの言動を批判しても、昨夜自分が壁を蹴ったということは否定しない。まぁ誤魔化しようがないのだが。
昨夜は、ネロのベッドで楽しんだ。横向きに寝転んだまま後ろから繋がって、ぴたりと引っ付いたままゆっくりゆっくり高め合って。
そのうちに壁に寄りすぎていたのだろう。果てる寸前にねだられ前に触れた時、快楽にもがいた足が壁にぶつかってしまったらしい。
余韻が抜けきらない体を検分ついでに足の様子を確認すれば、やはり甲が結構な赤みとなっていて。逃れられないよう無意識のうちに壁際に追い込んでいたのかもしれず、そこはそれなりに反省している。
痛い思いをさせたいわけじゃないのだ、丸まった爪先はシーツを波打たせるぐらいがちょうど良い。
その打ち身は昨日のうちに丁寧に治している。だから痛みは残っていないはずで、あるのはただただ居たたまれなさのようだ。ぎっと睨み付けてくる。
「壁のほうを向いていなければ、こんなことにはならなかった」
「それは確かに」
「···考えてみれば、就寝時も僕を壁側にしていないか?」
「そうだったっけ?」
「白々しくはぐらかすんじゃない。なぜ?···返答次第では呪うからな」
「物騒なこというなって。ただの偶然だと思うけど?」
「ネロ」
「はい、すみません」
反射的に謝れば、眼光がさらに鋭くなる。何か理由があると白状しているようなもので、このままだとあらぬ濡れ衣を着せられそうだから、仕方ないかと口を割ることにした。
「隣の部屋は関係ないです」
「···本当に?」
「ないよ。周りに気付かせたいとかそんな露出的な趣味ないし、むしろひとりじめしたい方」
「まぁ···うん」
不本意ながら思わず同意といったような様子のファウストに、だろ?と満足して頷いた。
世の中には見せ付けることで興奮する輩もいるらしいが、生憎ネロの趣味とは真逆だ。ふにゃふにゃでとろとろな顔なんて互いだけが知っていればいいのだ。ベッドの中のことは二人だけの秘密にしておきたい。
だから、一晩中共寝ができる時に壁側へさりげなく誘導していたのは、隣室に思い至った時のファウストの動揺が見たかったからではない。そうじゃなくて、もっと単純で照れ臭い理由だ。
もだもだとしつつ、それでも重ねた手の指の間を埋めるように絡ませて、ちょっと目を眇めてネロは伝えた。
「たまに、さ。せんせってば一緒に寝ても、いつの間にか自分の部屋に帰ってる時あるじゃん」
「は?それは、まぁ···その方が身支度が楽だし」
「わかってるんだけどさ。朝までいると思ってたファウストが、起きたらいないと寂しいなぁって」
「う、ん?」
「壁と俺で挟んでおけば、ベッドから出て行きづらいかなって、そんな理由」
一度でも言葉にすれば、この人はきっとおねだりを聞いてくれたことだろう。けれど絶対に阻止したいというわけではないし、ちょっとだけささやかな邪魔をしてみようかなぁと、意図はそれだけだ。
しばらく唖然とした顔をしていたファウストは、呆れたような気恥しそうな、そんなじんわりとした笑みを浮かべた。
「随分と、かわいらしいことを言う」
「伝えるつもりなんてなかったのにさ」
「いや、聞けてよかった気がする」
「そう?」
「うん。かわいい···ネロ」
包んでいない方の手が伸びてきて、ふわりと頭を撫でられる。そういう反応する?とちょっと笑って、この人らしいなと手のひらに擦り寄った。
そのまま暫くの間おとなしく愛でられて、頭から手が離れたタイミングで念のための確認をする。
「で、露出癖の誤解は解けた?」
「そこまで言ってないだろう。まぁ、納得はできたよ。けれど···解決はしていない」
「そりゃそうだけど、羊飼いくんも俺らのことわかってるっぽいじゃん?」
「それでも!こう、直接的なことを、気取られる、のは···心が持たないよ」
先ほどよりはずっと落ち着いて、けれどまだまだ頗る気まずそうなファウストを見て、やっぱりあの南の誠実な魔法使いはこの人にとって特別なんだなと思う。
その事実に対して、今のファウストとの関係性を考えればこう、もやっとしたものを覚えてもおかしくない気がするが、何より微笑ましさが先に来ている気がする。
俺も大概だなと思うも、嫉妬とか優越感とかといったものが浮かばないことに安堵もあった。そういう感情に満たされてしまうと、きっと自分たちは駄目になる。
ちょっと深めなところを考えるのはそこで放棄して、解決策ねぇとちらりと馴染んだ呪い屋先生然とした部屋の中を見て、ネロは軽い口調で言った。
「俺の部屋でやんなきゃいいだけじゃね」
「え?」
「あんたの部屋ならさ、隣もいないし」
ついでに言えば同じ階にいるのは西の年寄り二人だし、少なくともネロの部屋よりは心理的負担がかなり軽減されることだろう。けれどファウストは確かにという顔をしつつも、ちょっと複雑そうだ。
「言っていることは、わかるけれど」
「うん?」
「きみの気配だけがする部屋とか、ベッドとかに埋もれるの、嫌いじゃないから」
「···そういうこと言っちゃう?かわいいのはどっちだよ、もう」
なんとなく予想がついていた返答だというのにこうもはっきり言われてはたまらんと、きゅんと来て身悶えたネロに、そこまでかとファウストは頬を緩ませている。
それで漸く力が抜けたらしい、肩の強張りがふっと抜けた。逆にネロの方にまだ萌え的ななにかは残っているが、話に一区切りをつけてやろうと軽い調子で声を掛けた。
「まぁ、あれだな。こうなるともう、お互い気を付けましょうしか言えないんじゃね」
「···そうだね」
それしかないかと嘆息したファウストは、一応の折り合いはつけたようだ。
ここまで動揺しても、先程のキッチンのようにレノックスの前ではその姿をおくびにも出さない。レノックスもわかっていながら見守っている様子がある。
そんな元主従たちをほんとおかしな二人だなと、一歩引いて眺めている。割って入る気はない、ネロは傍観者でいいのだ。
ふと落ちた沈黙の中、目が合った。じっと互いの瞳を見詰め、なんだかんだ繋いだままの手がやけに熱い気がする。
そういう雰囲気はあると思う。少し身を乗り出せば簡単に唇が重なるだろうし、ベッドに縺れ込むこともできるだろう。けれどその気配は、目をそらしたファウストをきっかけに霧散した。
視線を追えばそこにあったのはキッチンから持ってきたポットで、そうだったなとネロは小さく笑う。自然と離れた手が冷えて感じるけれど、寂しくはない。
「コーヒー、全然飲んでないんだ?」
「それどころじゃなかったんだよ···」
「はは、だろうね。一人で飲むために持ってきたんだよな、帰ろうか?」
「いや、飲みきれる気がしないから付き合ってほしい。それに、」
「うん?」
「授業で聞きたいことがあったんだっけ?」
「おいおいマジか」
ただの名目だったとわかっているだろうに、これを聞いてくるか。苦笑いすれば、真面目な生徒になったと思ったのになんて素知らぬ顔で言ってくる。
待って今ひねり出せるか頑張ってみるとわざとらしく悩んだネロに、ファウストはなんだそれと笑いながら立ち上がり、棚から持ってきたふたつのマグカップにコーヒーを注いだ。
「保温はしていたが···保存の魔法もかけておけばよかった。若干酸化しているな、すまない」
「少し時間が経ったコーヒーも好きだから。いれたてももちろんおいしいけどさ」
さっきはありがとねと笑えば、ファウストはそれを受け入れつつも、また複雑そうな顔をした。
「やはりすまなかったという気持ちになる」
「羊飼いくんとのコーヒータイムのこと?気にすんなって」
「わかってはいるんだけど···ねぇ、本当に何も聞かれなかった?」
「聞かれなかったよ。正直何か言われるかなとちょっと期待したんだけど」
「は?期待?」
「ほら、ファウスト・ラウィーニアを400年探し続けた人が、あんたに手を出した俺のことをどう思ってるのかなって」
片付けを終えた後、レノックスと二人でファウストが用意してくれていたコーヒーをのんびりと嗜んだ。その時に話したのは子供たちのことだけ。それは嘘ではない。
正直なところ、さすがに何か聞かれるかなと覚悟はしていたのだ。昨夜のことを察しているのはほぼ確実だろうし、キッチンに二人きりという格好の機会だったし。
けれど、やはりレノックスは何も尋ねてこなかった。いつもの泰然とした穏やかさで、子供たちのことを話す口調にも何も変わりはなくて。
多分ネロは、なんだかんだで興味はあるのだ、この人のことを心の底から大切に尊んでいるであろう彼の胸中を。
いつもであれば、他人の本音に触れたくないと思っている。それを知ればどうしても気にしてしまう自分の性質を重々わかっているし、それならば始めから避けていればいい。
そんな弱さを自覚している己にとってあまりにもらしくないし、どんな意図で探りたいのかもよくわからない。少なくとも煽りたいわけではない、それは本音だし、レノックスが煽られることもないだろう。
崇拝ではなく敬愛し、執着ではなく見守って。400年も求め続けた人と再会できたというのに、この人の負担にならない距離を自然体で保ち続けているように見えるレノックスという魔法使いは、体躯も心もあまりに大きい。
なんてコーヒーを飲みつつとりとめなく考えていたが、ファウストはなぜかむっとした顔をしている。からかってると思われた?それにしては真剣に怒っているような。ネロは首を傾げる。
「ファウスト?」
「···自分を卑下するつもりなら、怒るぞ」
「え?あー···確かに、俺なんかでいいの?って一回は聞いてみたいかも」
「俺なんかとか、そういう言い方は好きじゃない。···必要以上に、自分を貶めることはやめなさい」
窘めるように誠実に、ファウストはまっすぐに目を見て言ってくる。
そんな深刻にならないでよというおかしさとともに、何か喉の奥がつまるような、そんな心地がした。
誰かに尊ばれるような生き方をしてこなかった、それはまぎれもない本音で。自分が嫌いで、でもないがしろにする程の熱量もなくて、何かに縋ろうとも掴もうともすることもなく流されるままにここまできて。
そんな中途半端でいい加減な俺を大事に大切に扱ってくれるこの人の心を、ちゃんと受け取れているのだろうか。わからない、わからないけれど、気付かないふりをすることだけは止めようと、自分の心を認めた時にそれだけは決めている。
曖昧な表情になっていたことだろう。多分ファウストにはネロが何を考えているか大体わかっていて、けれど頑張って目はそらさなかったから、それでどうにか収めてくれたようだ。
はあと息を吐いて、持ったままだったマグを机に置いたファウストは、少し考え込むような仕草をする。
あれ、やっぱり説教の続き?とびくついていたら、柔らかなブラウンを揺らしてすっと顔を上げた。力強いその表情に戸惑う。
「ファ、ファウスト?」
「レノックスと話そう」
「こんな短時間であんたの中で何があった?!」
「やかましい。おまえが自分を低く見積もっているのならば、僕にとってのおまえの価値をはっきりさせてやる」
「先生、待って、落ち着けって」
「レノには、きちんと話したいと思っていたことは確かだから。いい機会だと捉えることにした」
先ほどまでのおろおろとした様子はどこに行ったのか、きりっとした顔でファウストが決意を表した。コーヒーをぐっと飲み干す姿も勇ましい。
展開についていけなくて今度はネロの方がおろおろとしてしまうが、そのあまりの潔さがこの人らしいとつい頬が緩んでしまう。
喉で笑いながら、がんばれよとポットからコーヒーを注いでやった。
「ま、あんた自らが報告してくれたってんなら羊飼いくんも喜ぶでしょ。教えてもらえるなら、どんな様子だったか聞くのを楽しみにしてるよ」
「は?なにを言っている。おまえもいる場で伝えるに決まっているだろう」
「···なんで?!」
「僕にとってのきみの価値をはっきりさせてやると言った」
その場でまざまざと認識すればいいと、ファウストの目は真っ直ぐにネロを貫いている。そしてネロにもマグを持たせどぼどぼとコーヒーを注ぎ、景気づけのようにガンッとマグをぶつけてきた。
それにはっとしていやいやいやと思い切り首を振った。振動に波打ったコーヒーがこぼれないように冷静に魔法をかけてくるファウストがいっそ憎たらしい。
「いやいや待ってそれはない、マジで勘弁して」
「なんで」
「いたたまれないから!どういう顔してそこにいればいいの」
レノックスだってきっと微妙な感じになっちまうと思いつつ、たぶん実際には物凄く微笑ましく見られるんだろうなと想像できてしまって、それはそれで辛いものがあると呻く。
偶然露呈したということならまだいい。けれどこう、並んでご報告なんてそんな状況無理すぎる。
そこまでかとファウストはちょっと考え直したようで、ネロが握りしめていたマグを取り上げ机に置いた。
「そんなに拒否するのか」
「あんたがさっきベッドでのお楽しみに気付かれたかもってすごい動揺してたのと一緒って言えばわかってくれる?」
「···あぁ···なるほど···」
きみにとってはそういうものなのかと、理屈抜きで納得してくれたファウストに心底安堵した。自分がこうだからと押し付けないところはこの人のいいところだ。
一先ず諦めてくれたらしいが、やはり少し不満そうだ。
「なに、先生に限ってひとりじゃ心細いからなんて言わないでしょ?」
「言うわけないだろう。ただ、まざまざと認識させるいい機会だと思ったんだよ」
「んー···ちゃんとわかってるつもりなんだけどね」
「それならいいけれど」
本当に?とこちらを窺ってくるファウストはどこまでも真剣で、ほんと強いなと苦笑いだ。
取り上げられ机に置かれたマグの取っ手に指をかけ、一口含み苦みと酸味を味わう。それを何度か繰り返して、そしてことりとマグを置き、ネロは少し喉を詰まらせながら言った。
「ファウストの恋人である俺のことは俺も好きだよ、多分ね」
「たぶん」
「今はそれで勘弁して」
「なにそれ。ふふ···まぁ、いいよ」
かわいいと微笑むファウストに、ネロとしてはやっぱりそわそわする心地があって、けれど自然と口元が緩む。さすがに気恥ずかしくならない?と尋ねたくなるぐらいいつもどおりで、先生らしいなと目を細めた。
この人はいつもこうだ、堂々と自分の感情を誤魔化さない。表に出さないとしても隠したとしても、自分の中ではそのままに受け入れている、それがわかる。
きっとこの人の元従者くんも似た性質をしていて、そんな二人がどんな会話をするのだろうか。こんなどうしようもない浮わついた話をくそ真面目に報告して報告されて、そんな光景が思い浮かんで苦笑混じりに小さく笑った。
2つのマグに半量ずつ、それでポットのコーヒーは終わった。最後の一杯は2人してちびちびと飲んだ。
飲み干したら今夜はこのままさよならだから。名残惜しいとかもう少し傍にいたいとかそんな感情を、自分にひねくれたネロも素直に認められるのがこそばゆくて、でも少しだけ嬉しかった。