雪が降っている。火の国ではもう何十年と降っていなかった雪。
かと思えば日照りが続き、また雪の日があり。
天候が安定しない理由を出久だけではなく国中の人々が理解していた。
火の精霊の加護を受け、この国を守っていた王の命が尽きようとしている。
気の早いものは荷物をまとめて国を出た。容易に動けないものは後継である焦凍に縋った。
火の加護がなければ、北の果てのこの地はきっと氷に閉ざされる。そうなれば生きていかれない者はあまりに多い。
忙しさで帰宅もままならなくなった焦凍は出久を城の自室に呼び寄せた。
自らの使いである雪豹を護衛において、少しでも時間ができれば出久の元に戻る。
夜中、寝台が揺れる感覚で出久は目を覚ました。腕の中に潜り込んでくる焦凍に気づいて、さらさらの髪の毛を優しく撫でてやる。
「おかえり、焦凍くん……」
焦凍は無言で出久を抱く腕に力を込める。
半分は雪豹、半分は炎、どちらも持つ焦凍は父親ほど強く炎の精霊の加護は得られない。
雪と氷に怯える人々が焦凍を責めているのも、誰より彼が自分自身を責めているのも出久は知っていた。
せめて彼が心穏やかに休めるように祈らずにはいられない。
「おやすみなさい……」
出久が眠りに落ちると、二人を包み込むように羊の精霊が現れた。
雪豹が音もなく寝台に上がり、豊かな皮毛に身を寄せて丸くなる。やがて寝息が二つ重なる。
翌朝、出久が目を覚ましたときには焦凍はすでにいなくなっていた。
港は乗船を急ぐ人々でごった返していた。出久は雪豹を連れて人混みを掻い潜る。
「天哉くん!」
振り返った天哉は、分厚い防寒具を着て旅装を整えている。彼はこれから船に乗り、故郷の国に戻るのだ。
「出久くん、最後に会えて良かった。焦凍くんは……」
「忙しくて来れないみたい。これ、焦凍くんから」
託された手土産を渡すと、天哉は苦笑した。
「天哉くん、行っちゃうんだね」
「国に帰れと言われてしまえば、従うより他にない」
帰れと言ったのは焦凍だ。きっと数少ない友達を、この国の行末に巻き込まないため。
「出久くん、きみは残るのか」
「うん」
「今なら……」
今なら多分、人混みに紛れて乗船することができる。
天哉が言いたいことは伝わったが、出久は笑って首を横に振った。
この国に来たばかりの頃だったら連れて行ってくれと懇願しただろう。けれど今はやるべきことがある。
天哉を乗せた船が小さくなっていくのを見送り、出久は踵を返す。
火の国を襲う非常事態は外まで知れ渡っている。
これまで侵略行為を働いていた国が今揺らいでいる。この意味は街に溢れる奴隷たちがよく知っている。
「戦争になるって」
「敵が攻めてきたらあたしはどうすれば……」
「もういや!」
奴隷仲間の少女が出久の姿を見て抱きついてきた。
「外に軍隊が集まっているって本当? 焦凍様はなんて言ってる? この国が負けたら、あたしたちはまた違う誰かの奴隷になるの?」
過去の体験を思い出しているのだろう。恐怖に震える彼女の背を、出久はゆっくり撫でさする。
「もし攻めてくるのが火の国に侵略された雪原の氏族の軍隊なら、奴隷にされるようなことはないと思う」
軍隊が攻めてくるのではなく、生き別れた親しい人たちが助けにきてくれるのだ。出久の言葉は少女に希望を与えた。
何十年と奴隷として生きてきた人々には、夢物語にしか聞こえないのだろう。鼻で笑う年嵩の奴隷たちに、出久はそっと耳打ちする。
「もしやってくるのが侵略者なら、戦いを避ける手立てを考えた方がいいかもしれません。城門の内側にいる人間にしかできない方法で」
あの日旅芸人の公演が行われた広場に、勇ましく武装した兵士たちが集まっている。出久は一人でその光景を見下ろしていた。
彼らを率いていく焦凍は今どこにいるのだろう。
「王子さまは戦支度の暇もないぐらい忙しそうでしたよ」
不意に話しかけてきた男に、出久は驚くこともなく振り返る。
真っ赤は翼を背負ったホークスは兵士の一人だ。本来なら彼も戦の準備をしなければいけないはずだが、飄々とした顔で広場を見下ろしている。
彼が本当は勝己の仲間であることは、この国の中では出久と焦凍しか知らない。
「んじゃ行きましょっか」
ホークスがへらっと笑うので、出久もつられて笑う。
彼の力を借りて出久は準備をしてきた。
支配を広げていた火の国が揺らぎ、踏み躙られてきた雪原の氏族は報復のために協調し軍を整えた。
勝己の迎えを待っていればよかった出久は、もう焦凍を突き放すことはできない。
なにを為すべきか。自分になにができるのか。
ホークスに導かれるまま細く入り組んだ隠し通路を歩く。分
厚いタペストリーをくぐった先に大きな寝台があり、やせ細った老人が一人浅く息を吐いている。
出久は初めてまじまじと彼を見つめた。
強く偉大な王だった人。焦凍の父親。炎の加護で多くの民を守り、出久の故郷を焼いた男。
王は薄く目を開いて出久を見た。
「あいつを……焦凍を連れて来い」
曇った灰色の目はろくに見えていないのだろう。出久を侍女だと思っているらしい。
「焦凍くんはここには来られません。あなたの代理で軍を率いて行かなきゃいけない。代わりに僕が来ました。僕の話を聞いてもらえますか?」
出久はこの国に来てからのことを語った。
奴隷となったときはひどく絶望したけれど、出会う人々は皆優しかった。それはこの国が、王の治世が安定していたからだ。
それが揺らぎ、戦いが避けられない情勢になったとき、出久は考え、実行した。
外にいる勝己と連絡を取り合い、焦凍と協力できるように取り成した。
国外への逃亡を望む者には積極的に手をかして、勝己の庇護下へと導いた。
残った兵士たちは焦凍が取りまとめて戦いのために城門の外へ連れ出す。
残るのは女子供と奴隷ばかり。彼らには城門を開けるよう促した。
万事うまくいけば無血開城の達成だ。
「あなたが大事にしてきたこの国は、今から僕たちが奪います」
理解したのだろう。わなわなと震える老人を、出久は優しく寝台に押さえつける。
「怒る必要なんてない。あなたは今まで多くのものを奪ってきた。今度は奪われる側になるだけです」
背中に隠した短剣を抜き、肋骨の隙間を狙って突き立てる。
血が溢れ出た瞬間手が震えたが、堪えてさらに力をこめた。
軍を動かす勝己と焦凍はもっと多くを背負って戦っている。出久も逃げずに戦う。重荷を背負う覚悟はある。
やがてホークスに促され、出久は短剣から手を放した。偉大な王だった老人は、もう瞬きすらしなかった。
「行きましょう。長居してもいいことはない」
「……そうですね」
出久が寝台から降りたそのとき、遺体の目から赤い炎が噴き上がった。
城門に押しかけた奴隷たちは、残った少数の兵にそこを開けろと訴えていた。
数の差は圧倒的で、あとほんの少しで暴力へと発展しかねない。
怯えた兵士が持つ槍の鋒が奴隷たちに向けられようとしたそのとき、大きな爆発音が轟いた。
城の尖塔から火柱があがっている。炎はさらに膨れ上がり、また爆発する。
太陽が落ちてきたような強烈な閃光に、人々は我を忘れて立ち竦んだ。
爆風に吹き飛ばされるように飛んできた赤い翼の少女ーーホークスに抱えられた出久が、人々の頭上から声を張り上げる。
「早く逃げて!」
その手は城門の先を示す。
炎は街を舐めるように瞬く間に燃え広がり、奴隷も兵士も我先にと逃げ出す。
二つの軍がぶつかろうとしたまさにそのとき、城門が開かれ人々が溢れ出した。
異常事態に気づいた両軍が矛をおさめ、逃げ出す人々を誘導する。焦凍が作り出した氷壁がその時間を稼いだ。
一つの国を飲み込んだ炎は三日三晩燃え盛る。
完全に鎮火したときには、大雪山すら黒い地肌を晒していた。
火の国は消えた。その代わり雪と氷で閉ざされていた地は完全に開かれ、やがて緑が芽生え始める。
およそ半年後、焦凍は谷間の細道に馬を走らせていた。
抜けた先に小さな集落がある。そこに緑の髪の後ろ姿を見つけた焦凍は、馬から飛び降りると脇目も振らずに走った。
必死で名前を呼べば、出久は驚いて振り返る。
「焦凍くん! なんでここに?」
「なんでって、そりゃあ……」
焦凍はあれから雪原の氏族と協力し、国を失った人々のために尽くしてきた。
満足な生活を用意できたとは言わないが、その道筋を作ることはできた。自分の役目は終わったと判断し、ここまで走ってきたのだ。
「少しでも早く、会いたくて」
「そうなんだ?」
出久は微笑んで、柔く閉じた上着の前を開いた。
肩を通して斜めにかけた布の中に、小さな命が瞬いている。
瞳は明るい緑色、髪は赤毛混じりの白。初めて見る人間に怯える様子もなく、興味深げに見返している。
焦凍の目に涙が滲んだ。
「この子が、俺の……」
「俺の子だ!」
焦凍を横から蹴っ飛ばした勝己は、赤子ごと守るように出久をぐっと抱き寄せる。
勝己は火の国を覆った炎が鎮火するよりも先に軍を抜け、出久の元へ走った。
それができるように、いつでも仲間たちに全てを託せるように準備を重ねてきたのだ。
そして二人で住処を整えて子どもを産んだ。出久の初めての子どもだ。
蹴っ飛ばされた肩を押さえて、焦凍は抗弁する。
「いや、俺の子だろ」
「こいつを産湯で洗ったったのはこの俺。毎日おむつを変えてるのもこの俺。添い寝してるのもこの俺。つまり俺の子!」
「お、俺だって、今日からは」
「うるせー! 出久が産む子はみんな俺の子なんだよ!」
「お父さんたち仲良しだねえ」
出久は我が子の頬を優しく撫でる。その右手にひどい火傷跡を見て焦凍は凍りつくが、これぐらいなんともないと言うように出久は明るく笑った。
「いいかオイ半分野郎。てめーが出久に一人産ませたら、俺ぁ七人産ませるからな」
「かっちゃんやめて。君が言うことは大抵現実になるんだから洒落にならない」
「出久、俺は一人でいい。この子を一生大事にするし、爆豪の子七人もみんな大事に育てる」
「待って、僕があと七人産むのは確定事項なの?」
大人たちの賑やかさにつられたのか、赤子がきゃあきゃあと嬉しそうに笑った。