偶然だった。
飛び込んだ暗い部屋で蹲る彼は影そのものに見えた。
よく見れば白い髪、緑の瞳、面影もどことなくあの男に似ている。
噂に聞く溺愛する弟だと悟り、咄嗟に武器を向けたが、彼はあまりに弱々しかった。咳が止まらず苦しむ姿は病人そのもの。
無意識に手を差し伸べていた。
それが与一との出会い。
仲間たちは与一を殺すべきだと訴えた。人質にして交渉材料にという者もいた。
俺はその全てを退けた。病人に暴力を押し付ける気にはなれなかった。
清潔な環境を用意し、信用できる医者に診せた。
与一は酷く弱っていたが、触れ合う人すべてに感謝の笑顔を向けた。
年の割にあどけない子どものような笑顔。
「あの部屋から出られる日が来るなんて思わなかった。本当にありがとう。きみは僕のヒーローだ」
「ヒー ロー? 俺が?」
コミックの読み過ぎだと笑った。
悪を倒すスーパーヒーロー、そんなものはこの世界に存在しない。いたらあの悪の権化はとっくに倒されていたはずだ。
「俺はヒーローじゃない。お前を助けたつもりはない、使えそうだから拾っただけだ」
「使えそうなら使って欲しいな。兄さんを止められるなら、僕はどうなったっていい」
与一は声色も変えずにそう言った。どうやら本心らしい。
仲間たちと共にアジトを転々とした。
忙しない日々だったが、その中でも与一は緩やかに回復していった。
晴れた日に外を歩くこと、雨の日に前髪の先から水が落ちること、隣り合う人とどうでもいい話をして時に笑うこと。すべてに新鮮な喜びを見出しているように見えた。
今までどんな環境で生きてきたのか。あの暗い部屋を思い出すと、胸が詰まるような気がした。
医者は与一の容態についてこう言った。
「いま生きているのが不思議だ」
「なんらかの異能によって生かされている可能性がある」
「医学的にはいつ死んでもおかしくない」
医者には口外を禁じた。
血が流れていると他人に指摘されて、やっと怪我に気づくことがある。与一本人がそれを知らなければ、このままでいられるような気がしたのだ。
その頃にはもう俺にとって与一は拾い物ではなくなっていた。
古いヒーローコミックを見つけて持っていくと、与一はひどく喜んだ。
それがどんな物語か、主人公がどんなにかっこいいヒーローなのかを頬を紅潮させ一生懸命に語って聞かせてくる。
コミックなんてろくに読んだことはないが、与一を通して見る物語はとても魅力的に思えた。
物心ついたときには世の中はもう滅茶苦茶で、家族はいなくなっていて、生き残るためにずっと戦ってきた。
与一の声を聞いていると、何も知らない子どもだったあの頃に戻ったような心地になれた。
ボロボロのページを二人並んで捲りながら、いつの間にか眠りに落ちる。
その時間は失い難いものになっていた。
けれど日々は過酷で、与一はあまりに弱かった。
彼を襲ったのは生まれ持った虚弱さでも病でもなかった。暴動に巻き込まれた子どもを庇ってひどい怪我を負ったのだ。
健康な成人なら時間と共に癒える傷も、与一にとっては致命傷になる。そんなこと、本人が一番わかっていたはずなのに。
「どうして」
俺の問いかけに、与一は力なく微笑んだ。
「ヒーローなら、きっとこうするから」
ヒーロー! そんなものこの世界には存在しない。力もないくせに人を守ろうとするなんて大馬鹿だ!
与一への罵倒は言葉にならず、俺はその枕元に座り込む。
「僕が死んだら、兄さんは、きっと怒り狂うだろう」
その隙を生かしてほしい。与一は途切れ途切れに訴える。
心残りはあの男を倒す術も見つけられないまま死んでいくこと。死体でも役に立てるなら嬉しい、使ってほしいと。
俺はぐっと息をのみ、答えた。
「いやだ」
たとえ死んだ後でも、与一の爪の先、髪の毛一本だってあの男には渡したくない。
子供染みた感情だとわかっている。けれど嫌だった。
「お前はだれにも渡さない。実の兄が相手でも」
「……少しでもきみの役に立ちたいんだ」
「なら全部俺に渡せ」
与一の震える手を握りしめる。
「お前の全部。全部俺が持っていく」
若くして人生を閉じるやるせなさ、物語の中のヒーローに重ねた憧れ、道を違えた兄への想い、笑顔の下に隠した全て。
与一がここで終わるなら、そのすべてを背負ってやる。
「……そうだったね。きみはぼくを連れてってくれるんだ……」
与一は柔らかく笑った。その目からとめどなく涙が溢れた。
与一はぽつぽつと語った。
あの暗い部屋の中で、このまま終わってしまうのかもしれない恐怖と戦っていたこと。
外の世界を知って、毎日が楽しくて仕方なかったこと。
幼い頃の兄はとても優しかったこと。できるならあの頃の兄に戻ってほしいこと。
俺はその声を一つも聞き漏らすまいと必死で耳を傾けた。
「ひとりで死ぬんだと思ってた。でもいま、ここにきみがいて、すべて託していける……やっぱり、きみはぼくのヒーローだ……」
声が聞こえなくなると、浅い呼吸の音を数えた。冷たくなっていく指を温めるために強く摩った。
やがてなにも聞こえなくなると、動かなくなったくちびるに口付けた。血の味がするキスだった。
与一の遺体は燃やした。骨は砕いて撒いた。
色々な枷で自由に生きられなかったから、死んだ後ぐらい自由にしてやりたかった。
あの男にひとかけらも渡したくなかったというのもある。
与一が死んだ後も俺の生活は変わらなかった。けれどある日アジトを強襲される。
大きな爆発ですべてが吹っ飛ばされた。仲間たちも散り散りになり、生きているかどうかもわからない。
咄嗟に部下を庇って瓦礫の下敷きになった。耳がおかしくなったのかなにも聞こえない。それなのに懐かしい与一の声が聞こえた。耳ではなく自分の内側から。
「……そうか」
唐突にすべてを理解した。
死んだはずの与一はここにいる。そして次は俺の番。
泣き喚く部下の襟首を掴み、血を擦り付けるようにくちづけた。
「……次は、お前だ」
部下は涙を拭って走り去る。
与一はあっけなく死んだ。けれどあいつが残したものがある。
繋いで、繋いで、繋ぎ続けていけば、それはいつか実を結び巨悪を倒すかもしれない。
与一は俺をヒーローと呼んだが、本物のヒーローは悪を倒す力を生んだお前の方だ。
それを言ったら、与一はどんな顔をするだろう。恥ずかしそうに笑うだろうか。
その顔はきっとすぐに見られる。