出久と勝己は幼馴染で親同士も仲が良い。大人になったら結婚するのかなとお互いなんとなく察している。
勝己は乱暴なところがあるがなんでもできる。なにかと要領が悪い出久を引っ張ってくれる。
出久は勝己と家族になる日を楽しみにしていた。その未来を疑っていなかった。
怒号、悲鳴、興奮した馬のいななき。
真夜中、とび起きた出久は母の手を取り逃げ出した。
なにが起きたのかも分からない。燃え盛る天幕を避け、弓矢に追い立てられ走る。
突然背中から突き飛ばされた。泥の中もがき振り返る。馬上から斬りつけられた母が崩れ落ちるのを見た。
「お母さん!」
出久は罪人のように縄で縛られ、馬に引かれて雪道を歩いた。兵士たちに挟まれて、石造りの門をくぐる。
通りを埋める人々の喜びに満ちた顔を見て、ようやく出久は理解した。
村は彼らに蹂躙された。家族、隣人、勝己、明日も続くはずだった出久の幸せな日々は、彼らによって踏み躙られたのだ。
押し寄せる歓声を浴びながら、出久は声もなく涙を流した。
雪原の中にあってその国は常春のように暖かい。当代の王が強い炎の精霊を宿しているためだ。
出久は世話役の老婆に身なりを整えられながら、彼女の話に耳を傾ける。
王の気性はまさに炎そのもので、近づくものをみんな薪にしてしまう恐ろしい男。気に入られるのは勧めない。気を損ねれば死ぬ。
「あんたは若い。美人じゃないけど愛嬌がある。可愛く笑ってな。それだけがあんたの生き残る道だよ」
老婆は魂が抜けたような出久を見て、そばかすが浮かぶ頬をばちんと叩く。
「しゃんとしな。宴はもう始まる」
戦勝を祝う宴が始まった。
武装を解いた男たちが車座になって酒を飲み交わし、着飾った女たちが給仕をする。
出久と同じように縄で引かれてきた女たちが、引き攣った笑顔で愛想を振りまく。出久は彼女たちのようには出来なかった。それが賢いやり方だと、頭では理解していても心がまだ追いつかない。
「おい」
乱暴に腕を引かれ、床に転がる。無様な姿を酔った男たちが笑った。野人は酌女もろくにできない、家畜同然……
こぼれた酒を浴びた出久は家族を思った。勝己を思った。こんな侮辱、勝己なら絶対に許さない。
割れた酒瓶のかけらを握りしめ、とびかかる。眼を潰すつもりの一撃だったが、わずかに届かない。片腕で払い除けられ、体ごと座卓に突っ込んだ。
「っ……くそ!」
相手は頬から血を流していた。猫のように身を起こし再びとびかかろうとした出久を、他の男が殴りつける。怒りに任せて小さな頭を踏みつける。
「やめろ」
混乱する場を、若い男の一声が制した。
体の真ん中からつなぎ合わせたかのように、左右で違う目の色、髪の色。この場で一番若いように見えるが、この場で一番落ち着いている。
「若様」
「でもこのガキが、」
「もう血を流す必要はない」
彼は動じる様子もなく、盃を傾けて言った。
「もう誰も殺すな」
それが出久と焦凍の出会いだった。
王の子であり、炎の精霊の加護を持つ焦凍は跡継ぎだと言われているが、いつも無口でなにを考えているのか分からない。
そんな彼が珍しく意思を示したことを王が喜び、出久は焦凍に下げ渡されることになった。
「お前の物だ。好きにしろ」
人を人とも思わない王の物言いは出久を傷つけた。なぜか焦凍も傷ついたような顔をしていた。
出久は焦凍が暮らす館に連れて行かれた。
とても大きく立派な家なのにひとけがない。焦凍一人で暮らしているのだという。
「全部好きに使っていい。俺はなるべくここにはいないようにする。その方が安心できるだろ」
驚く出久が初めて正面から焦凍を見上げると、彼は痛ましげな顔で右手を差し伸べた。
「悪かった」
固い指の背が出久の頬を撫でる。雪のような冷気を感じて初めて、ひどく殴られたそこが熱を持っていることに気がついた。
「あとで医者を呼ぶから、きちんと手当てしてもらえ」
「なんで……」
「不要な暴力だった。部下の不始末は俺の責任だ」
「違う!」
出久は奴隷になった。ひどい扱いは覚悟していた。実際そうだった。
けれど焦凍は違う。彼だけは出久を一人の人間として接してくれた。それはなぜ。
「……俺の母もお前と同じ奴隷だった。女だから、奴隷だからといって傷つけられていいとは思わない。それだけだ」
焦凍の目が水面のように揺れた。そこには多分、出久ではない女性が映っている。
その夜、出久は広い庭の片隅で過ごした。
好きに使っていいとは言われたが、ふかふかの寝台に潜り込むのは気が引けた。薄い毛皮一枚を借りて身を包み、膝を抱える。
一人になるといろんなことを考えてしまう。燃え盛る炎、倒れる母の姿。
「……かっちゃん」
生きているだろうか。いや生きているはずだ。勝己は誰よりも強い。
出久が困っていたり泣いていたりすると、勝己はいつも駆けつけてくれた。憎まれ口を叩きながらも助けてくれた。
でも今、勝己はいない。こんなに困り果てているのに。涙があふれそうなのに。
不安が頭を埋め尽くす。もしかしたら勝己も、母と同じように。
深く俯く出久の頭に、なにかがそっと触れた。ゆるゆると顔をあげると、一頭の狼が出久を見つめていた。
「かっちゃん?」
白金色の毛並と星のように輝く赤い眸。勝己と同じ色を持つそれは、狼の精霊の加護を持つ勝己の使いだった。
獣の輪郭が崩れ勝己の姿が現れると、出久は泣き崩れてすがりついた。
「かっちゃん、かっちゃん!」
「泣くな、クソデク……」
声は遠く、姿は霞かかってあやふやだ。けれど確かに勝己の声。安堵した出久がわあわあと泣き喚くと、頬をぎゅっとつままれる。いつもの勝己の仕草だ。
彼はなんとか逃げ延びていた。しかしすぐには動けないという。
「かっちゃん、怪我してるの?」
「……俺の心配なんかしてんじゃねえ。いいか出久、よく聞け。絶対にお前を助けに行く。絶対にだ。だからお前は生きて待ってろ。なにがあっても生きろ」
なにがあっても。その言葉の重さが出久を少しだけ怯ませた。
知らない土地で、奴隷に身を落とされ、なにがあるかなんて考えたくもない。
だけど勝己は嘘をつかない。彼が絶対にと言えば、それは必ず実現する。勝己は絶対に助けに来てくれる。
「わかった、約束する。なにがあっても生きてかっちゃんを待つ」
出久が頷くと、勝己はほっとしたように頬を緩めた。
間もなく勝己の姿が消え、狼の幻も煙のように掻き消えた。
出久の戦いが始まった。遠慮を捨てて館を探索する。
生きて勝己とまた会うには今のままじゃダメだ、自分が弱いことはもう十分に知った。少しでも強くなりたい。
書物を広げて学べることはなんでも学んだ。木剣を握って見よう見真似で鍛錬した。
そして人。味方は一人でも多い方がいい。
「おかえりなさい!」
三日ぶりに館に戻った焦凍を出迎えると、彼は幽霊にでも遭遇したかのように凍りついた。出久もその反応に驚く。
「えっと、ダメだった? 僕へんなことしてる?」
「いや……」
焦凍は覚束ない足取りで自室の荷物を取り、また出ていく。
「いってらっしゃい」
「あ、ああ」
焦凍は振り返ることもなく応えたが、門扉に頭をぶつけていた。
そんな風に二人の交流は始まった。
焦凍は非常に口数少なく表情も乏しかったが、出久は諦めなかった。彼が館に戻るたび笑顔で出迎え、去っていく背中にいってらっしゃいと手を振る。焦凍は最初お化けを見るような目で出久を見ていたが、徐々に変わっていった。
「おかえりなさい、焦凍くん」
「……ん」
焦凍が差し出した包みは甘い焼き菓子だった。出久は喜んでお茶を淹れる。
読んだ書物の感想、見たこともない鳥が庭に降り立ったこと、この国の料理を学び始めたこと。
出久は日々の他愛のない出来事をとめどなく話した。最初聞くばかりだった焦凍も、少しずつ話し出した。
旅芸人の素晴らしい唄、大雪山で目撃した白く巨大な獣、母が焼くパンが好きだったこと。
「お母さん、お料理上手だったんだね」
出久と同じ奴隷だったというその人は、多分もういない。怖くて尋ねることもできなかったが、焦凍は自ら語り始めた。
焦凍の母は王の五番目の妻で、産んだ子どもは焦凍一人。
四人の妻とその子どもたちはみんないなくなった。四歳までに炎の精霊を宿す兆候が現れなかったために、母子ともども裸同然で門の外に捨てられたという。
雪原は女子供がろくな装備もなしに生きていける環境ではない。焦凍の母は優しい人だったが、いつも死の影に怯えていた。
四歳になった焦凍にもその時はやってきた。
母は泣いて縋ったが、王は見向きもせず、それどころか母子に火をつけた。
「焼けて死ぬか凍えて死ぬか、選ばせてやろう」
母は焦凍を抱えて雪原にとび込んだ。精霊の炎はそれでも消えず、二人を燃やし続け、母は焦凍にひたすら謝りながら息絶えた。
あまりにも惨い話に、出久は青ざめ震え上がる。
「俺の炎が出たのはその時だ。三日三晩燃え続けた後、門番に助けられて生き延びた」
遠くを見るような焦凍の左目から、炎のかけらがゆらりと溢れでる。
「あいつはお母さんが俺の薪になったと喜んでいた。俺も時々考える。お母さんを燃やしたのはあいつの炎だったのか、それとも俺の」
「だめ!」
出久は焦凍の肩を掴んで揺さぶった。そんな恐ろしいことを考えてはいけない。
「お母さんが君を守ってくれたんだよ。君が凍えないように、助けてくれたんだ。きっとそうだよ」
「……そうか」
それは思ってもいない言葉だったのかもしれない。焦凍は驚いた様子でまたたき、そっと呟く。
「そうか……」
焦凍が毎日館に戻ってくるようになった。
出久が作った食事を食べて、なんでもない日常の話を楽しそうに聞き、一人で続けていた鍛錬に付き合ってくれるようになった。
そして夜になると必ず館を去って行く。
「どうして? 君の家なんだから、ずっといていいのに」
不思議に思った出久が尋ねると、焦凍はぐっと言葉を飲み込んだ後、ため息混じりに答えた。
「おまえのためだ」
「僕の?」
疑問を遮るように、出久の頭を上からぐりぐりと撫でて、焦凍は夜道に消えて行く。
心は開いてくれたと思う。でも言葉が少ないのは相変わらずで、なにを考えているのか分からないところがある。
けどそれはお互い様だ。出久だって焦凍に話していないことがある。
「……かっちゃん」
月の明るい夜、決まって狼が現れた。
出久が広げた両腕の中に、狼はそっと身を寄せる。
豊かな毛並に顔を埋めると懐かしい匂いがした。故郷の、雪の、家族の、草原の、勝己の匂いだ。
慣れない土地での生活で積み重なった疲れが、溶けて消えて行く。
「かっちゃん……はやく会いたいよ……」
出久は深い眠りについた。その寝顔を見守っていた狼が、突然鼻先をあげる。
庭石の上に大きな雪豹が座っていた。
長い尻尾が優美に揺れる。思慮深げな灰色の眸が狼と眠る出久を見つめている。
二頭はしばし睨み合った。
狼が牙を剥くと、雪豹は音もなく立ち上がり、闇の中に姿を消した。