出久が焦凍と出会って半年が経つ。
どんなやりとりがあったのかは知らないが、焦凍が心底不本意な顔で友人を連れてくるようになった。天哉と名乗った青年は、出久を見下ろしてニコニコ笑う。
「きみが出久くんか」
「出久に触るな」
「許可なく女性に触れたりしない。きみは俺をなんだと思っているんだ」
天哉はこの国の人間ではなく、大氷海の向こうからやってきたという。遠い土地の話は興味深い。あれこれ質問しても、彼は快く答えてくれる。
出久と天哉はあっという間に打ち解けた。焦凍はつまらなさそうにそれを眺めている。
「天哉くんはまだ16歳なの? 僕と同じ年で海を越えてるなんてすごい!」
「そんなことはないよ、いろんな人に助けられてここに……は?」
「え?」
天哉と焦凍が目を丸くしてこちらを覗き込む。
「出久くん、きみ16歳なのか?」
「うん、そうだけど……」
「成人してるのか! 本当に?」
「ほんとだよ!」
子どもだと思われていたらしい。出久は恥ずかしくなって服の裾を握りしめる。
数え年で16歳は立派な成人だ。女性なら結婚すべき年。本当なら出久も今頃結婚していた。勝己と家族になっていたはずだった。
「俺の国でも、もちろんこの火の国でも成人は大事な祝い事だ」
焦凍の首根っこを掴んでコソコソと話し込んでいた天哉が、高らかに宣言する。
「俺たちが全力で出久くんの成人をお祝いするぞ!」
まず豪華な刺繍の衣装が焦凍から贈られた。出久は当然受け取れないと断ったが、お祝いだからと押し切られてしまう。
緑髪にも装飾でいっぱいの帽子がのせられて、まるで本物の花が咲いたよう。
「恐れ多くてむり……動けない……」
「成人の祝いならこれぐらい普通だ」
「でも僕、奴隷なのに」
焦凍はむっとして出久の肩を掴む。
「今日は忘れろ。ほら、迎えが来たぞ」
白馬に乗った天哉が門前に乗り付ける。
馬の背に押し上げられた出久はもはや涙目だった。初めて馬に乗る出久を支えるた焦凍が後ろに乗り、手綱を握る。天哉が馬具を握って歩き出す。
すれ違う人々は笑顔で「おめでとう」と声をかけてくれた。この国で暮らして半年経ち、知り合いも増えた。奴隷仲間の少女たちが、遠目に出久を見てきゃあきゃあと手を振っている。
馬はゆっくりと坂道を登り、階段の前で止まった。
出久は焦凍に手を引かれて長い階段を昇り、小さなバルコニーにたどり着く。
眼下には人々が集まる円形の広場があった。ステージの上では栗色の髪の踊り子が舞う。旅芸人の一座の公演。ここはすべてを見通せる特等席だった。
「前に話した時、見てみたいって言ってただろ。だから」
何気ない会話を覚えていてくれたことが素直に嬉しかった。
「ありがとう、焦凍くん」
「……おう」
焦凍は照れた様子で頬を掻く。姿形の整った立派な青年なのに、そういう仕草は子どもっぽくて可愛らしい。
ステージの主役は次々に入れ替わり、出久はその度に惜しげもない拍手を贈った。
長い金髪の男がステージの中央に立つと、人々から一際大きな歓声があがる。焦凍も身を乗り出して出久の肩を叩いた。
「あいつだ、歌の上手い……」
「若様」
番兵が入ってきて焦凍に耳打ちすると、彼はあからさまに舌打ちした。
「放っておけ」
「しかし」
「俺は忙しいんだ」
「お仕事? 僕なら大丈夫だよ、天哉くんもいてくれるし」
「……すぐに戻る」
焦凍が番兵と共に去る。空いた席に天哉が座った。
「助かったよ。彼はこうと決めると頑ななところがある。きみはあの番兵の救世主だな」
「あはは……」
金髪の歌い手が一声を放った。びりびりと背筋が震えるような声量、空間を貫く見事な歌声。確かにこれはすごい。こんな素晴らしい歌声は聞いたことがない。出久はうっとりと異国の歌に聴き入る。
「……焦凍くんはこのところ周りから結婚を急かされているそうだ。多分その話だろう」
同じように聞き入っていたはずの天哉が静かに切り出した。
「彼はこの国の後継だ。正直に言えば周りの人間の気持ちも俺にはわかる。早く結婚して子どもを持つのも為政者の務めだ。けれど肝心の焦凍くんにはまるでその気がないんだ」
それは、そうだろう。出久には焦凍の気持ちがわかる。父親からあんな仕打ちを受ければ、自分の結婚に後ろ向きになるのも当然だ。
「きみが相手なら、彼も頷くのではないだろうか」
「……僕に焦凍くんの子どもを産めってこと?」
「無理強いはしない。きみさえよければ考えてくれないか」
そういう期待があることは出久も察していた。奴隷を妻にすることが当然の国で、出久は焦凍の奴隷で、焦凍は足繁く出久の元に通う。不自由をしていないかいつも気を使ってくれる。大切にされていると思う。けれど二人の間にそんな関係は一切なく、誘われたこともない。
「焦凍くんにはそんな気ないと思うよ」
「彼はきみの過去を気にしているようだ。今も乞い慕う相手がいるのではないかと」
思わぬ言葉に出久は息を呑む。気づかれていた。一体いつから?
「失礼いたします」
出久が言葉を探していると、また兵が現れた。天哉が少しだけ苛立たしげに答える。
「なんの用……」
「……天哉くん?」
天哉はまるで凍りついてしまったかのように動かない。まばたきすらしない。
驚く出久の前で兵が兜を上げた。
「下から見えた。あんたが出久だな」
彼は心操と名乗った。下で公演している旅芸人の一員であり、彼らの多くは勝己の協力者だという。
「あんたのことは爆豪から聞いてる。俺たちと一緒に来い。この国を出るんだ。爆豪のところに連れて行ってやる」
「ほんとに?」
差し出された手を前に出久は戸惑った。あまりにも突然のことで頭がついていかない。彼を信じていいのだろうか。
「爆豪からの伝言だ。“信じろ、クソデク“」
出久をデクと呼ぶのは勝己だけだ。出久は迷いを捨てて心操の手を取った。
勝己は今、同じように故郷を奪われた草原の民を集め、力を蓄えているという。
火の国の侵攻によって奪われたものを根こそぎ奪い返す。
勝己の意志は固く、複数の氏族をまとめ上げる強いリーダーになりつつある。心操の話を聞いて出久は微笑んだ。勝己らしいと思う。
二人は入り組んだ砦の中を走っていた。
「俺たちが火の国に偵察に行くって決まった時、あいつ頭を下げて頼んできたんだ。嫁を助けてくれってさ」
「よ、よめ」
「違うのか?」
「まだ違うけど、その、えっと……違わないです……」
心操はふっと笑い、出久を庇うように壁際に身を寄せた。見回りの兵士が通り過ぎるのを待って、また走り出す。
「爆豪が頭を下げるところ、初めて見たよ。普段そういうことは意地でもしない奴だから、なんとかしてやりたくなった」
ひたすら下層へと向かいながら、なにかに呼ばれた気がして出久は少し振り返った。
大きな雪豹が、お行儀よく座ってこちらを見ていた。
その向こうからぞっとするような冷気が吹きつけてくる。
雪崩のように迫り来る氷壁を見た出久は、咄嗟に心操を突き飛ばした。一瞬で脹脛まで凍りつき、受け身も取れずに地面に叩きつけられる。
「出久!」
助け起こそうとする心操に、出久は首を振った。すでに太ももまで凍りついている。
「僕は大丈夫だから、行って」
「でも、」
「いいから、早く行って!」
心操は何度も振り返りながら走り去って行く。一緒に行きたかった。でも行けないなら、彼だけでも無事に返すべきだ。滲む涙を振り払うように、出久はぎゅっと目を瞑る。
心操と入れ替わるように焦凍が現れた。左の炎で氷を溶かしながら、彼はなにも言わない。
あの雪豹は恐らく焦凍の使いだ。すべてを知られていると考えるべきだ。心操と一緒に逃げようとしたことも、勝己とのことも。
出久は初めて焦凍を恐ろしいと感じていた。自分は彼の奴隷だ。機嫌を損ねてしまったら、なにをされるか分からない。抵抗できるほどの力もない。逃げようとした奴隷は、どんな目に合わされるのか。
「出久、痛いところはないか?」
「う、うん」
凍りついていた脚はすっかり元通りになっている。焦凍はほっとした顔で少し笑い、俯いた。
「ごめん。行かせてやるべきだった。誰かがお前を迎えにきたら、行かせてやろうと思ってたのに」
そっと抱きしめられて、出久は飛び跳ねるほど驚いた。焦凍は震えていた。吹雪に見舞われたかのように、ガタガタと。思わず抱き返すと、縋り付く腕の力がさらに強くなる。
「本当にお前がいなくなると思ったら、だめだった。ごめん、ごめん出久」
「焦凍くん……」
「ここにいてくれ、頼む、出久、頼むから……いかないで」
焦凍は立派な青年で、なにもかも持っていて、出久のことなんか今すぐ片手で殺すことができる。でも今この腕の中にいる彼は、幼い子どものように弱々しく泣いている。跳ね除けることなんてできない。
「大丈夫だよ、焦凍くん。僕はここにいるよ」
出久は焦凍が落ち着くまで大きな背中を撫でさすっていた。